◎「太平洋の風」で情報局賞を獲得(1943)
井上正夫『化け損ねた狸』(右文社、1947)から、「井上演劇道場」の章を紹介している。本日は、その九回目。
戦 争 と 演 劇
井上演劇道場は彼等の脱退があつても、少しもゆるぎはしなかつたのです。まだ山口俊雄、山田巳之助以下の俊秀が私のよき同志として道場を守つてゐてくれたからでした。
その年〔1942〕の六月、東京劇場で出した知切光歳〈チギリ・コウサイ〉氏作、佐々木孝丸氏演出の「纜〈トモヅナ〉」などは、かなり世評を高めた舞台でした。道場の仕事として世に誇りたいことは、此の知切氏をはじめ、幾多の無名作家の作品を敢然ととり上げたことです「断層」の久板〔栄二郎〕氏は既に築地の新劇では名のあつた人ですが、その作品を商業劇場にとり上げたのをはじめ、堀江林之助氏にせよ、田口竹男氏にせよ、古川良範氏にせよ、八木隆一郎氏にせよ、何れも当時の新人でしたし、三好十郎氏、北條秀司氏などの作品を数多く採用したことも、道場の特色といへるでせう。
作家ばかりでなく、村山氏以下新劇畑の演出家の援助を乞ふたことも、日本の商業演劇史上に画期的な企てであつたと自負してゐますし、舞台装置の上でも伊藤壽一氏をはじめ多くの新人を起用して、商業演劇の舞台に新鮮味を加へ得たことは、世に誇り得る仕事であつたと思つてゐるのです。
さて、その年の八月、暴虐な特高警察の犧牲となつて、奪ひ去られた村山知義氏が、再び天日〈テンジツ〉を仰ぐ日を迎へたのです。その前、私は屡々検事局に証人として出頭を求められ、氏が日本の演劇界の為に堪した功績について陳述し、一日も早く氏を迎へて危殆に頻する日本の演劇文化の支柱になつてほしいことを訴へたのですが、その証言が多少とも氏の釈放に役立つたのではないかと思つてゐます。何れにせよ、暗澹たる気分の払ひ切れなかつた道場にとつて、村山氏の釈放は千鈞の重みを得た喜びだつたのです。
しかし、村山氏が早速表面に出て演劇活動に入ることは、当局にはゞからなければならぬ事情があつたため、表立つて乗り出して貰ふわけには行かず、翌十八年〔1943〕には一月の明治座以来、相当活潑に働きながら、氏の直接の援助を受けることはできなかつたのです。とはいへ、道場の活動がにわかに活気を呈し出した裏面に、氏のかくれた力づけを見遁すことはできんのです。その年の道場の上演を列記して置きませう。
一 月 明 治 座「岩崎谷〈イワサキダニ〉」真山青果作・田島淳演出
六 月 東京劇場「米百俵」山本有三作・田島淳演出
九 月 明 治 座「太平洋の風」八木隆一郞作・田島淳演出
十 月 東京劇場「鬼の湯」北條秀司作・田島淳演出
以上のうち、「太平洋の風」は再度情報局賞を獲得してゐるのです。今にして思へば、誤られた軍国主義的傾向に便乗してこれらの作品を上演したことに悔ゐを感じもするのですが、当時は日本の国民の一人として、さうした国策に順応して行くことが義務でもあり、演劇人として生きて行く唯一の道でもあつたのです。軍国主義者たちに誤られて来た不明を恥ぢこそすれ、仕事の上でのやましさは、今も私はいさゝかも感じて居らんのです。若しそれをしも咎める者があるとすれば、私は何時でも潔くその責めを受ける覚悟を持つて居ります。〈283~285ページ〉【以下、次回】
井上正夫『化け損ねた狸』(右文社、1947)から、「井上演劇道場」の章を紹介している。本日は、その九回目。
戦 争 と 演 劇
井上演劇道場は彼等の脱退があつても、少しもゆるぎはしなかつたのです。まだ山口俊雄、山田巳之助以下の俊秀が私のよき同志として道場を守つてゐてくれたからでした。
その年〔1942〕の六月、東京劇場で出した知切光歳〈チギリ・コウサイ〉氏作、佐々木孝丸氏演出の「纜〈トモヅナ〉」などは、かなり世評を高めた舞台でした。道場の仕事として世に誇りたいことは、此の知切氏をはじめ、幾多の無名作家の作品を敢然ととり上げたことです「断層」の久板〔栄二郎〕氏は既に築地の新劇では名のあつた人ですが、その作品を商業劇場にとり上げたのをはじめ、堀江林之助氏にせよ、田口竹男氏にせよ、古川良範氏にせよ、八木隆一郎氏にせよ、何れも当時の新人でしたし、三好十郎氏、北條秀司氏などの作品を数多く採用したことも、道場の特色といへるでせう。
作家ばかりでなく、村山氏以下新劇畑の演出家の援助を乞ふたことも、日本の商業演劇史上に画期的な企てであつたと自負してゐますし、舞台装置の上でも伊藤壽一氏をはじめ多くの新人を起用して、商業演劇の舞台に新鮮味を加へ得たことは、世に誇り得る仕事であつたと思つてゐるのです。
さて、その年の八月、暴虐な特高警察の犧牲となつて、奪ひ去られた村山知義氏が、再び天日〈テンジツ〉を仰ぐ日を迎へたのです。その前、私は屡々検事局に証人として出頭を求められ、氏が日本の演劇界の為に堪した功績について陳述し、一日も早く氏を迎へて危殆に頻する日本の演劇文化の支柱になつてほしいことを訴へたのですが、その証言が多少とも氏の釈放に役立つたのではないかと思つてゐます。何れにせよ、暗澹たる気分の払ひ切れなかつた道場にとつて、村山氏の釈放は千鈞の重みを得た喜びだつたのです。
しかし、村山氏が早速表面に出て演劇活動に入ることは、当局にはゞからなければならぬ事情があつたため、表立つて乗り出して貰ふわけには行かず、翌十八年〔1943〕には一月の明治座以来、相当活潑に働きながら、氏の直接の援助を受けることはできなかつたのです。とはいへ、道場の活動がにわかに活気を呈し出した裏面に、氏のかくれた力づけを見遁すことはできんのです。その年の道場の上演を列記して置きませう。
一 月 明 治 座「岩崎谷〈イワサキダニ〉」真山青果作・田島淳演出
六 月 東京劇場「米百俵」山本有三作・田島淳演出
九 月 明 治 座「太平洋の風」八木隆一郞作・田島淳演出
十 月 東京劇場「鬼の湯」北條秀司作・田島淳演出
以上のうち、「太平洋の風」は再度情報局賞を獲得してゐるのです。今にして思へば、誤られた軍国主義的傾向に便乗してこれらの作品を上演したことに悔ゐを感じもするのですが、当時は日本の国民の一人として、さうした国策に順応して行くことが義務でもあり、演劇人として生きて行く唯一の道でもあつたのです。軍国主義者たちに誤られて来た不明を恥ぢこそすれ、仕事の上でのやましさは、今も私はいさゝかも感じて居らんのです。若しそれをしも咎める者があるとすれば、私は何時でも潔くその責めを受ける覚悟を持つて居ります。〈283~285ページ〉【以下、次回】
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