礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

石川県鹿島郡役所時代の島田清次郎

2020-03-01 05:06:50 | コラムと名言

◎石川県鹿島郡役所時代の島田清次郎

 拙著『日本人はいつから働きすぎになったのか』(平凡社新書、二〇一四年八月)に対する塩崎雪生氏の書評を紹介している。本日は、その四回目。
 昨日、紹介した箇所のあと、一行あけて、次のように続きます。

 貴著の25ページ以下に『石川県鹿島郡誌』について採り上げられています。この文献のなかの記述が、貴著ではかなりの比重をもって扱われ、立論のかなめとなっているように お見受けしました。しかしそのように受けとめるともに、読者としてはいささかその文献掲出に唐突の感を懐くのも否めないところではあります。それに、「〇勤労」前後の記述がわからないため原典におけるいかなる行論のなかでの「勤労」提示であったのかが把握できません。原典中のこれこれこういった徳目列挙のなかにおいて、注目すべきことにほら 「勤労」が見えておるぞ、といったようにご掲出されれば唐突感もいくぶんやわらぐのではないでしようか。
 実は、この鹿島郡に関しては先日来多少関心を懐いておりました。正月3日に杉森久英 『天才と狂人の間』(河出書房新社、1962)を再読しましたところ、主人公島田清次郎が大正7年の夏から冬にかけて七尾にあった鹿島郡役所に勤務していた旨記されていたからです。
 「清次郎は金沢商業も卒業間近まで行きながら中途退学なのと、年齢が若いのとで、官吏として正式に採用されたのでなく、給仕のやや増しくらいの待遇にすぎなかった。彼は……面会人の受付けや郵便物の発送、分類、各係への配布などの仕事をやらされたが、たえず机の上に書物を置き、仕事の合間には読みふけって目を離さなかった。付近の町村から事務連絡や陳情のために出頭する者があっても、本から目を上げて傲然と相手の顔を見据え、顎であしらうので、
 「今度の受付けは乞食みたいに汚いくせに、何という生意気な奴じゃろう」
 と、甚だ評判が悪かった。」(41〜42頁)
 島田の生地は金沢南方の港町・美川(石川郡)ですが、勤農輩出地たる鹿島郡同様真宗 強盛地盤ですので、島田のような退学者で、なおかつ怠業常習である者はとりわけ目立つ 存在だったことでしょう。されど、たえず書物を読み耽っていたとありますから、読書に 関しては精励者だったわけです。
 そののち、『地上』による文壇デビュー以後になると、「政治問題や社会問題に無関心な大正時代の文学者の中にあって、いつも時代思潮の動きに注目し、文明批評家らしい態度を持ち続けた……。……意識的に社会科学関係の書物を漁り、「経済思想史論」(河上肇)……等の本を読破した。自分は普通の文士以上に勉強しており、人類や民族の将来についてたえず思索をめぐらし、高い見識を抱いているという自負心は、いつも彼について廻り、そのために彼は一般の文壇作家を一段低く見下すような態度を取っていた……。/しかしいずれにしろ彼は、文士には珍らしい一風変わった勉強家にはちがいなかった。」 (114〜115 頁)
 これらの記述から、義務としての労働(学校の課業や賃銀を得るための不本意な勤務) については精を出そうとは思わないが、自発的勉学には努力を惜しまない島田の姿勢を窺いみることができます。かかる心性のありかたも「勤勉性」発現の一形態と見なしうるかと思います。(なお、島田は曲がりなりにも暁烏敏門下ですから、真宗の影響がかなり濃厚とはいえます。) 【以下、次回】

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