◎敵の航空母艦が東京を空襲しようとしている
『航空情報』第二二号臨時増刊、特集「日本軍用機の全貌」(一九五三年八月)から、秋山紋次郎「本土防空作戦史 その一」を紹介している。本日は、その二回目(最後)。
ドゥリットル飛行隊の
日本本土空襲
ハワイの奇襲で痛打を受けた米海軍は、やがて戦勢挽回の挙に出るであろうが、ここ当分は、機動部隊をもつて奇襲を策する程度であろうと判断されていた。
わが海軍は、敵のこの奇襲に備えて、南鳥島附近から千島の南方にわたり、漁船を配置して哨戒線を張り、また哨戒機を洋上遠く600浬〈カイリ〉附近まで行動させて警戒を厳重にし、更に邀撃航空部隊として、陸攻80機を基幹とする第26航空戦隊を木更津及び南鳥島に配備した。
敵の近接とわが反撃計画 昭和17年〔1942〕4月10日午後6時30分、わが通信諜報は、敵の航空母艦2隻若くは3隻が、真珠湾の西北方約40浬附近に進出し、14日頃、東京を空襲しようと企図しているらしいことを探知した。
艦上機の行動半径は一般に短少なので、敵の母艦は300浬附近まで接近するであろう、この機を失せず必殺の魚雷攻撃をかけ、更に猛打を連続して敵の空襲を不可能にしよう、というのがわが反撃計画の狙いであつた。
4月10日以後、敵情不明のまま18日を迎えた。午前6時30分、監視艇第二十三日東丸から果然「敵空母三隻見ゆ、犬吠岬東方600浬」との電報を受領した。
第26航空戦隊は、直ちに攻撃準備を整え、かつ触接機を発進させた。午前9時45分、戦隊は、敵の双発機2機が、東京の東方600浬附近を西進中との情報を得たが、それ以来の敵情については何らの報告も受けなかつた。しかし、戦機を逸することを懸念した攻撃機隊は、午後0時45分、陸攻22機、戦闘機24機を以て、東方に敵を索めて〈モトメテ〉進発した。
連合艦隊は、第1航空艦隊、第2艦隊及び第3、第8潜水戦隊を急遽出撃、この敵に向つて殺到させた。
一方、本土の防空機関は、海軍からの通報によつて、敵の空襲は19日と判断していたので警報の発令をさし控えたが、横須賀鎮守府管区のみには、午前8時39分警戒警報が発令された。
敵の奇策の奏功 18日午後1時頃、敵の爆撃機は、忽然として房総方面から飛来し、約50分間にわたり、通り魔のように、東京、横浜、川崎、名古屋、神戸等を奇襲して西方に飛び去つた。真に一瞬の出来事であつた。わが防空戦闘機が飛び上つたときには、敵は既に攻撃を終つて退避していた。
わが反撃計画は、全く敵に裏をかかれ、敵機の行動は当時謎に包まれていたが、中国大陸のわが占領地域内に不時着した搭乗員の調査によつてその謎が解かれた。即ち日本本土空襲隊は、ドゥリットル陸軍中佐の指揮下に、約1箇月の訓練を受けたのち、空母ホーネットに搭載されて〔カリフォルニア州〕アラメダを出発し、途中エンタープライズと合同して日本に向つた。その空襲計画によれば、日本の東方400浬の地点から発艦して夜間空襲を行い、翌朝中国基地に着陸することになつていたが、18日早朝、日本軍に発見されたので、昼間強襲を行うことに変更し、犬吠岬の東方650浬附近から発艦したというのであつた。
敵のこの奇襲は、および腰ではあつたが、とにかく日本本土は敵に空襲された。その作戦上の性質は、前記のように、さして恐るベきものではなかつたが、日本軍全局の作戦指導に及ぼした影響は、実に大きなものであつた。太平洋の主導権を敵手に委する契機となつたミッドウェイ作戦は、これによつてその実施を促進され、また中国大陸では、〔浙江省〕麗水、〔江西省〕玉山、〔浙江省〕衢州〈クシュウ〉等の敵飛行機群を覆滅するための浙贛〈セッカン〉作戦が、これによつて発動されるに至つた。
本土防空の組級について
本土の防空については、陸海軍中央協定により、全般の防空は陸軍の担任とし、海軍は、軍港、要港所在地及びその附近の防空のみを担任することとなつていた。
ドゥリットル飛行隊の東京空襲以来、陸軍は、本土防空態勢の強化を急いでいたが、南東方面(ラバウル、ニューギニヤ方面をいう)及び中部太平洋方面で、わが第1線が敵に押され、積極防空の基本方針が、やがて通用しなくなるかも知れぬと判断された昭和19年〔1944〕春頃になつて、防空態勢の整備はようやく軌道に乗つた。
防空組織の大綱 昭和19年〔1944〕6月初頭における防空組織の大綱はつぎのようであつた。【以下略】
これによれば、軍は、一九四二年(昭和一七)四月一〇日に、「東京を空襲しようと企図しているらしい」敵航空母艦を探知していた。にもかかわらず、その後、四月一八日午前六時三〇分になるまで、その動きを把捉していない。これは、把捉できなかったというより、必死に把捉しようとしていなかったのではないか。
また、一八日午前九時四五分、「敵の双発機2機が、東京の東方600浬附近を西進中」という情報を得ていたにもかかわらず、これに対応した索敵がおこなわれた形跡がない。
しかし問題なのは、そうした技術的な「ミス」ではない。問題なのは、ドゥリットル空襲を受けた後も、なかなか、「防空態勢の整備」が軌道に乗らなかったことである。ようやく、それが軌道に乗ったのは、一九四四年(昭和一九)の春のことだったという。すでに、ドゥリットル空襲から二年が経過していた。