◎時勢まことに福澤に非で当局を憚らなければならなかった
創元文庫版『福翁百話』(一九五一)から、昆野和七執筆の「校訂後記」を紹介している。本日は、その後半。
二、本書の草稿
福澤の草稿については明治一五年〔一八八二〕以前と以後とに分けて考えなければならない。明治十五年は福澤が時事新報社を起こして、新聞に依つて論陣を張つたときである。十五年以前には福澤は極く一部を除いては(雑誌)単行本を出して居り、その草稿の大部分は福澤家に保存されていたが、十五年以後になると全部が新聞草稿で、単行本は一度は新聞に掲載されたものである。此の新聞草稿の取り扱いは至つて無雑作で、福澤は用ずみのあとでは屑籠に投ずるか、人の持ち去るに任せたということである。今日慶応義塾に保存されているものは少い分量である。ところが、「福翁百話」の草稿だけは特に福澤一家に大切に保存されていた。「福翁百話」が時事新報に掲載されだした頃、山口に居つた福澤門下生の日原昌造〈ヒノハラ・ショウゾウ〉から、福澤に対して掲載ずみの草稿を所望してきた。それに対する福澤の返書(明治二十九年三月三十一日附)で、子供達が此の原稿は人手に渡さず兄弟姉妹で分けて取ると言つているから、第六の一篇を老筆を以て写してあげようと答えているのがある。福澤はその草稿を四男五女に巻物にして分けた。私は先年来、清岡家所蔵の巻物第五を借覧したことがあつた。そののち研究調査の必要があつて、福澤一家を歴訪してその所在をたしかめた。四男五女に対して福澤が与えたのは次の通りであつた。
一太郎氏(長男) 一巻(一~一〇話) 十巻(九五~一〇〇話)
捨次郎氏(次男) 二巻(不明)
里 子氏(長女) 三巻(二四~三三話)
房 子氏(次女) 四巻(不明)
俊 子氏(三女) 五巻(四五~五三話)
瀧 子氏(四女) 六巻(五四~六四話) (六五話は欠除)
光 子氏(五女) 七巻(六六~七七話)
三 八氏(三男) 八巻(七八~八六話)
大四郎氏(四男) 九巻(八七~九四話)
右の中、次男捨次郎氏の分は恐らく戦災で失われた模様で、次女房子氏のものは所在不明となつている。
次ぎ「福翁百余話」の草稿は全く失われたものと思われていたところ、先年「福翁自伝」の草稿と一緒に福澤家に大切に保存されていたことが判つた。此の草稿十九篇は一々執筆の年月日が記入してあり創作作年月がはつきりした。
三、校訂について
「福翁百話」の初版刊行は三十年〔一八九七〕七月で、「福翁百余話」の初版は三十四年〔一九〇一〕四月に出版された。共に時事新報社版で、後に合本となつて行われ、百数十版を重ねた。この百話と百余話の新しい版本は改造文庫版「福翁百話・百余話」(昭和十六年八月刊)である。改造文庫の方は当時未だ草稿の所在が判明していなかつたので、時事新報社版数種を対校したもので、当時の時勢の制約をうけて完本とすることは出来なかつた。百話の中で六篇、百余話の中で三篇が削除を余儀なくされたのである。史論、政論のように政治形態を論じたものと徳義を論じて忠君の解釈に言及したものは、時勢寔に〈マコトニ〉福澤に非であつて、どうしても当局を憚らなければならなかつたのである。
今此の校訂に当つては完本として、一部所在不明の草稿を除いては草稿を見ることにした。古典の校訂については色々方法があるが、此の文庫は、福澤草稿に忠実にして、草稿原文のまゝとする方法をとつた。今後、「福翁百話・百余話」の異る版本が刊行されるかも知れないが、一度草稿通りのものを出版しておくことに意義があると考えたからである。草稿で明かに間違つているところは、そのまゝとして略字は下に( )にして文字を入れ、誤字はそのまゝとして下に括孤中に小活字にて正字を入れることにした。又、送り仮名は草稿の外に余分に附けたものは括弧をしておいた。草稿を見ることのできなかつた第十一話~第二十三話、第三十四話~第四十四話及び第六十五話については単行本を定本として文字の使い方については他の草稿より推定しておくことにした。
本文庫版の校訂は先年、必要があつて草稿を参照して作成しておいたものを使用したが、校正刷で一度畏友土橋俊一氏の校合を得て私の校合不備若干を補正して戴いた。記して感謝の意を表する次第である。(一九五一年十一月二十一日)
ここで昆野和七は、改造文庫版『福翁百話・百余話』は、「当時の時勢の制約をうけて完本とすることは出来なかつた」と述べている。削除されたのは、「史論、政論のように政治形態を論じたものと徳義を論じて忠君の解釈に言及したもの」であった、ということも述べている。しかし、どの話が削除されたのかについては触れていない。
このあと、当ブログでは、改造文庫版『福翁百話・百余話』で削除された全九話について、それぞれの内容を検討してゆこうと思う。採り上げる順番は不同、その途中で、別の話題に飛ぶかもしれない。