礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

韓国に渉り京仁鉄道の汽笛を聴かん

2019-05-12 03:57:46 | コラムと名言

◎韓国に渉り京仁鉄道の汽笛を聴かん

 土屋喬雄著『渋沢栄一伝』(改造社、一九三一)から、別篇の一「朝鮮に於ける渋沢栄一」という文章を紹介している。本日はその三回目。昨日、紹介した部分のあと、次のように続く。なお、本日、紹介する部分については、一部、省略している箇所がある。

 この頃に至れば彼我の関係は最早忽【ゆるがせ】にすべからざる程度にまで進んでゐた。二十七年〔一八九四〕から二十九年〔一八九六〕までの三ケ年間に在韓邦人は九千人から一万二千五百人に増加し、二十一年〔一八八八〕に於て七十万円に過ぎなかつた輸出(その多くは鉄器、綿糸織物、マツチ煙草等の加工品であつた)は三十年〔一八八七〕には五百二十五万円に、百四万円に過ぎなかつた輸入(主として原料又は粗製品――米大豆大麦牛皮【ぎうひ】肥料等であつた)は八百八十六万円に、輸出入合計二百万円に足らぬものが千四百万円に、即ち七倍の増加を遂げてゐた。三十年の輸出入合計三億八千余万円に対しては四パーセントに足りぬ小額ではあるが、その増進の速度は一般の増加速度に倍加してゐる。しかしながら当時にあつてはなほ朝鮮の我国に対して持つ重要性を認識し得たものは少なかつたのである。さればこそ刻印付円銀問題のため渡韓に際して渋沢は、出発前、龍門社、商業会議所の送別会席上に於ても、仁川釜山に於ける演説に於ても、帰朝後大阪東京に於ける報告会に於ても、絶えずその重要性に言及し、朝鮮に対する関心を喚起することに努めた。
【中略】
 そして三十一年〔一八九八〕六月十五日東京交換所組合銀行定式会有志の招宴に於ては、「母国人」の誇りに満ちて次の如く述べることを憚らなかつた。
『同国は陋隘【ろうあい】汚穢【をわい】の地なるも余は英仏の如き文明国に至れるより大に愉快を感じたりき、何となれば韓国は我国人民が誘導開発すべき土地にして諸種の事物我に依頼するもの多きが故に恰【あたか】も彼の母国の如き感あるを以てなり。』
 三十三年〔一九〇〇〕七月京仁【けいじん】鉄道全線開通式に臨むために第二回目の渡韓をなした渋沢は、日本資本主義にとつての朝鮮の重要性についていよいよ痛感する処あつたのであらう。その帰途広島商業会議所歓迎会に於ては、韓国をめぐつて東亜の風雲急なるを告げて国民の奮起を促した。
【中略】
 こゝに日本資本の意図は明白にしかも率直に語られてゐる。そしてその先導者たる自負に満ちて、渋沢は京仁鉄道の成功を語り、同じ演説中に次の如く述べた。
『願くは韓国に渉り一度は鉄道の汽笛を聴かんことを。思ふに広島にて耳にする山陽鉄道の汽笛よりは数倍愉快なる最も良き声を諸君の聴覚に与ふるならん。若しそれ京仁鉄道の汽笛を聴き何等の快感をも起さざるものは率直に申せば、即ち我が国を愛するの念無きものなりと信ずるなり。

 京仁鉄道は京城(現・ソウル)・仁川間を結ぶ鉄道。一九〇〇年(明治三三)一一月一二日に全線営業開始、全面開通式がおこなわれたという。

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