礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

第一銀行、事実上の韓国中央銀行に(1905)

2019-05-18 01:55:06 | コラムと名言

◎第一銀行、事実上の韓国中央銀行に(1905)

 土屋喬雄著『渋沢栄一伝』(改造社、一九三一)から、別篇の一「朝鮮に於ける渋沢栄一」の(二)「朝鮮に於ける渋沢」を紹介している。本日は、その三回目。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 上に述べた如く露西亜【ロシア】側の妨害にも拘はらず、渋沢栄一等の努力効を奏して刻印付一円銀貨は合法性を得たが、金本位制の採用によつて其の後発行しなかつたのであるから流通高も従つて減少し、北清事変〔一九〇〇〕に至つて悉く流出して跡を止めず、之に加へて同時に流通してゐた日本銀行兌換券【だくわんけん】も漸次回復せられてしまつたので、明治三十三四年〔一九〇〇、一九〇一〕頃には清国及び我国商人の手形類、官鋳私鋳の白銅貨等が主として流通し、貿易の障礙及び海関税取扱上の不便は特に甚しかつた。此処に於て第一銀行は日本政府の諒解の下に在韓支店に於て要求次第日本通貨と引換ふべき無記名式一覧払【ばらひ】の銀行券発行を計画し、三十五年〔一九〇二〕五月より拾円、五円、一円の三種合計百三十万円の銀行券を発行した。然るに親露派の官吏は之に対して頻【しき】りに妨害を加へ、外務大臣趙秉式【てうへいしき】は九月銀行券授受の禁止を各港に命じた。この時は代理公使萩原守一〈モリイチ〉の抗議によって翌年〔一九〇三〕一月該【がい】禁令は取消されたが、間もなく二月趙に代つて李道宰【りだうさい】外務大臣となるや、再び禁止令を布き、京城府尹【けいぢやうふいん】も亦銀行券を授受する者を厳科に処することを掲示したので、銀行券の引換を要求するもの第一銀行支店に殺倒し、京城仁川は就中【なかんづく】甚しかつた。当時帰朝中の林権助公使は急を聞いて軍艦高砂【たかさご】に乗じて帰任し、萩原代理公使と協力し強硬なる抗議を開き、遂に十二日夜此の禁止令は撤回された。此時第一銀行の『受けたる損害は固【もと】より大なりしも、此機会に於いて、基礎鞏固【きやうこ】にして何時【いつ】にても銀行券の交換に応じ得べき実力を有することを内外に示し』(「第一銀行五十年小史」)、次いで三十六年〔一九〇三〕銀行券規則の整備をなしたので、愈々その信用は高まり、三十七年〔一九〇四〕末には発行総額三百三十七万余円に上つた。そして遂に三十八年〔一九〇五〕一月それまで私的取引手形にすぎなかつた第一銀行券は韓国によつて法貨たることに公認され、公私の取引に差支へなく無制限に通用し得ることとなつた。此処に於て第一銀行は事実上韓国中央銀行となり、四十二年〔一九〇九〕十一月韓国銀行に引継ぎの際には千百八十余万円の銀行券を発行してゐた。今や日本資本は完全に韓国の動脈を流れたのである。【以下、次回】

 文中、「府尹」とあるのは、韓国各府の長官のこと。「府」は、日本の「市」に相当する。

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