礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

朝鮮に於ける渋沢栄一(土屋喬雄『渋沢栄一伝』より)

2019-05-10 00:15:31 | コラムと名言

◎朝鮮に於ける渋沢栄一(土屋喬雄『渋沢栄一伝』より)

 先月の一八日から二五日にかけて、土屋喬雄著『渋沢栄一伝』(改造社、一九三一)から、別篇の二「日本資本主義の父渋沢栄一の政治経済思想」を紹介した。その前に、別篇の一「朝鮮に於ける渋沢栄一」という文章がある。順序が前後してしまったが、本日以降、その別篇の一を紹介してみたい。
 
 別 篇
   朝鮮に於ける渋沢栄一

  (一) 日本資本主義に対する朝鮮の重要性
『土地の資本家的私有と工業に於ける資本家的生産様式との支配的発達にも拘らず、農業生産そのものの資本主義化の過程を経験しなかつた日本に於ては、未だ重工業の支配的発展を見ざりし以前に於いて早くも農業と工業との不均衡の重大なる激化のため、原料及び食料の欠乏、販路の狭隘【けふあい】、投資圏の狭小‥‥等々に当面せざるを得なかつた。』
 そしてそれは遅れて発達したるが故に、更に急速に資本主義化の道を進まねばならなかつたが故に、農村に於ける「収奪」を行はねばならなかつた日本資本主義の内在的矛盾の一つであつた。その農村に於ける「収奪」は、農業への資本の還元流入を遮断したが故に、封建的小生産様式の資本家的生産方法への転化は阻止されざるを得なかつた。過小農的土地所有は依然として日本農村の支配者として止まつた。農業の工業との生産力発展の不均衡は工業が必要とする原料(棉花、ビール原料、製粉原料、粗糖、等【とう】)と工業都市の要求する食料、(米等【など】)の増大する需要を充分に充たし得ず、日清戦前に於て早くも一部又は大部分を輸久に俟たねばならなかつた。過小農的経営の支配する農村は資本家的商品に対し極めて狭隘なる国内市場を形成するに過ぎぬ。綿糸、綿布、ビール、燐寸【マツチ】等【など】は未だ自ら充分なる発達を見ぬ前に早くも海外市場開発の旅に上らねばならなかつた。農業が資本主義的生産様式に従つてゐないことは、また資本の投資圏とその蓄積の範囲とを狭隘ならしめる。これ一方に於て資本輸入の必要に迫られつゝも、他方早くも資本輸出の促迫【そくはく】を感じ、既に日露戦役前後に於て朝鮮、満洲等への資本輸出を試みざるを得なかつた所以である。
 渋沢栄一が日本資本主義発達史上に忘れることの出来ない名である所以の一つは、かゝる日本資本主義の海外「発展」――殊に朝鮮への「発展」の先導者であつたことにあるのである。それは銀行業、鉄道業、紡績業等【とう】に於ける彼の業績と相並んで、或はそれ以上に重視せられねばならぬものである。
 渋沢栄一の統制する第一国立銀行が釜山支店を設置し朝鮮経営の第一歩を踏み出したのは、明治十一年〔一八七八〕六月のことであった。我国の韓国に対する通商は既に明治初年以来かなりの程度に達してゐたのであらう、普通両国間の修交関係に係り、即ち朝鮮の我国に対する外交上の無礼に端を発するとされてゐる征韓論さへ、『既に通商の問題に関してゐた』のである。(加田哲二氏、「明治初年における政治運動」思想昭和六年三月号)明治六年〔一八七三〕五月には韓国より在留日本人に対し貿易または密輸入の禁令書が発せられてゐる。(煙山専太郎「征韓論の真相」)そして自ら遣韓大使たることを政府に要望した西郷隆盛も三條〔実美〕に送つた書翰(六年十月十七日付)中に『数【しばし】ば無礼を働き候儀【さふらふぎ】有之【これあり】、近来は人民互に商道も相塞【あいふさが】り、倭館【わいくわん】詰居【きつきよ】の者も其困難の場合に立至り候云々』(「自由党史」)とあるによつても知ることが出来る。征韓論は岩倉〔具視〕、大久保〔利通〕等の阻止にあつて実行に至らず、九年〔一八七六〕二月彼我【ひが】の間に修交条約成立するや両者間の通商は更に一層促進せられたので、我国は日本通貨を流通せしめて朝鮮産出の金を買収せんと企てた。我国銀行の海外支店の嚆矢【かうし】とも云ふべき第一国立銀行釜山支店はかゝる企図のため政府資金の貸与の下に設立せられたものである。(註)次いで十三年〔一八八〇〕五月には砂金集散地なる元山【げんざん】に出張所を設け、また海関税取扱のため同十五年〔一八八二〕十一月仁川【じんせん】に出張所を設置した。
 明治十七年〔一八八四〕二月釜山支店主任大橋半七郎と朝鮮総税務司モルレンドルフとの間に海関税取扱条約締結せられ、第一国立銀行はこゝに始めて朝鮮財政に接近する途【みち】を開いた。当時の韓銭【かんせん】は取扱方頗【すこぶ】る不便で、釜山在留の我国商人は釜山支店に之を預け入れ、之に対し韓銭手形の発行を請求して之を通用してゐたのである。随つて第一国立銀行手形の市場に流通するもの漸【やうや】く多く、之を関税の収入に用ふることを得ば我国商人の便利を享【う】くること多大となるので、第一国立銀行は日本政府を通じて朝鮮各開港場に於ける関税取扱を第一国立銀行に委任すること、納入関税は総【す】べて同行発行の手形を用ふることを韓国政府に交渉し、遂に前記の条約を結ぶに至つたのである。
 (註)日本銀行設立後兌換〈ダカン〉準備のため正貨充実の必要起るに至つて、第一国立銀行韓国支店のこの任務はいよいよ重大となつたが、同行は大蔵省又は日本銀行より買入資金の貸下げを受けて、この任務の遂行に成功した。(「第一銀行五十年小史」)【以下、次回】

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