礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

そのころの軍人・政治家は甚だ卑怯

2018-01-13 04:32:29 | コラムと名言

◎そのころの軍人・政治家は甚だ卑怯

 蜷川新著『天皇』(光文社、一九五二)から、「私の歩んだ道」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

  六 シナおよびシャムへの旅行
 私は日本に帰り、まもなく東洋拓殖会社〔東洋拓殖株式会社〕の石塚〔英蔵〕総裁からさそわれて、同氏とともに満州と北支へ旅行した。そうして張作霖【ちようさくりん】や徐総統〔中華民国第四代大総統徐世昌〕に会見した。拓殖上の問題のためであつた。四十日の旅行をおえて日本に帰つたが、シャム〔タイ国の旧称〕のバンコックに東洋赤十字会議がひらかれることになり、私はそれに出席することになつた。
 シャムの国王や王族や大臣や軍人やに会見したが、日本人にたいして、彼らは深い敬意を表していた。王族のなかには、パリーで知己となつた人もいた。在留インド人の集団から招かれて、私は一日、一大会合に臨席したが、「なにか演説を。」の申し出にたいして、私は立つて、「インドの独立」を叫んだ。場内は大動揺した。それはイギリス人をおそれる卑怯から生じた混乱であつた。しかし、二十年ののちには、インドは、イギリスから独立したのである。世界は変わつた。
  七 ワシントン会議行きと私
 大正十一年(一九二二年)の秋、私は陸軍、外務、および東拓〔東洋拓殖株式会社〕から依頼されて、原〔敬〕首相にも面会して、ワシントンの軍縮会議の研究にむかった。全権一行と同船したのであった。私は、私の名を秘して、米国の御用紙ワシントン・ポストに、毎日のように論文を投書して、アメリカ政府の対日方策の不正を批判し、学理に立ちつつ、それを攻撃した。ポスト紙は、真剣に私の論文と取りくんで、紙上で毎日のように長い論文をかかげたが、ついには、私のまえに降伏せざるをえなくなつた。そうして、降伏の直前になつて、「日本に権利がある」ということを、紙上に書くようになつた。ポスト紙の一人の記者は、徳川〔家達〕全権の室をたずねて、「ポスト紙への投書は、だれの意見ですか。」と問うてみた。公爵はなにも知らなかつた。「だれの意見だか知らない。とにかく全権側の意見ではない。」と、公爵はいかにも殿様外交家らしく、すらすらと答えた。いつさいは、それで終つた。公爵は無能であつた。貴族は無用の長物と、私はなげいた。
 私はワシントンから、またまたヨーロッパにいつた。それは、ジュネーヴの赤十字会議にするためであつた。そのときの船は五万トンの豪華なフランスの船であつた。美人あり。才子あり。きわめて陽気なものであつた。おもしろい話があるが、はぶく。一日、ひじようなシケにあつて、恐ろしい光景を、私はその航海で経験した。私はしばらくパリーにとどまつて、ジュネーヴにむかつた。そうして会議に列した。
  八 数年にわたる国内の講演
 大正十一年ごろには、日本人は欧米の大勢を知らず、大勢にはソッポをむいて、マルクス的のインターナショナルが大流行であつた。大正二年〔一九一三〕以来、私は世界の大勢にじかに接してきているところから、その真相を、全国の学生や青年に告げることを必要と考えた。山川健次郎男や、清浦奎吾【きようらけいご】子爵は、私にその講演を要求された。私は自己を犠牲にして、それを承諾した。
 私は、ナショナリズムの世界的大勢を全国に説きまわつた。その折に、福岡と鹿児島の高等学校では、激烈に私に反対した。しかしながら、私はいつもそれを、学問をもつて軽く受け流して、私の所信を述べた。私は昭和の初めまでも、それをつづけた。私はナショナルを力説したが、それを「国家主義」と、かつてにかえて、ビラをはり出したところもあつた。当時の日本人は、世界の実相に暗かつた。
  九 国際連盟から脱退した日本人
 そのころ、日本の軍人や政治家は、はなはだしく卑怯であつた。マルクス式のインターナショナルの流行時には、縮みあがつて引つ込んでいた。しかるに、ナショナルに日本人がめざめたときには、軍人らはそれを煽りたてて、自己の利益のために利用した。そうして天皇主義にもつてゆき、八紘一宇【はつこういちう】などととなえ、人心をして神がかり的、迷信的ならしめた。そうして国際連盟をののしり、「国を焦土となすも可なり。」などと豪語し、脱退を国民にあふりたてた。それは、世界の平和をおびやかす危険な政策であつた。私はそれらの軽卒な輩〈ヤカラ〉が示した不誠実の態度を、深く悲しんだ。
 私は極力その脱退に反対した。身命を投げだして、内閣や枢府の知人の政治家らに訴えた。斎藤〔実〕総理も、私に同意していた。枢府の原嘉道〈ハラ・ヨシミチ〉氏は、私に鄭重に回答された。私は右傾〈ウケイ〉から強烈に攻撃された。「身上危険」と、警察は私に報告した。しかしながら、ついに日本政府は脱退した。私は、日本の未来あやうしと慨歎した。それ以後は、私は政治を論ずることを思いとどまり、家に引きこもり、学問にのみ耽つた。日本の大敗と衰亡とは、このときからはじまつたものと、私は判断している。それは、昭和八年〔一九三三〕のことであつた。
  一〇 国際連盟脱退以後の歩み
 日本がはなはだしぐ不穏当に、国際連盟から脱退してからは、専制政治にむかつて、軍人はじめ政治家は、その方向を定めていた。天皇の親族だというところから、軍人らは、近衛文麿を内閣首相にたてた。また軍人は、大政翼賛会【たいせいよくさんかい】を創立して、ナチ政治をまねた。三国同盟をつくつて、英・米・仏らを敵にまわした。ついに大東亜宣言〔大東亜共同宣言、一九四三〕を発して、ヨーロッパのヒットラーの弟子分となつた。
 世人は一般に浮かれていたが、私は悲観した。私は大政翼賛会は、憲法違反であると公言した。ドイツの必敗を論じたてた。三国同盟条約の欠点を指摘した。大東亜宣言を違憲だと説いた。それでも、なんぴとも迫害はしなかつた。官憲から捕縛もされなかつた。その私は、終戦後、内閣総理大臣の名で公職から追放された。
 昭和十二年〔一九三七〕、「支那事変」が起ったとき、欧米は、日本は「中国に対する九国条約」に違反する国であると、強く日本を攻撃した。これに対して政府は、「九国条約は現に有効に存在するが、同条約の成立時と時代が変つているから、日本政府は、同条約を守ることはできない。」と説明した。これは「条約は反古紙にひとしい。」と勝手にふみにじつたドイツと同じで、列国から憎悪されるのは、知れきつたことである。
 これに対して私は、国際法の学理にもとづく見解を発表した。「九国条約無効」と題して、日英両文で、「日支両国は、交戦関係にある。二国の交戦は、二国間の条約を自動的に無効にした。日本はもはや、同条約に拘束されるものではない。日本はそれを守る義務がない。守ろうとしても、不能である。」これは、国際法の学理である。この一著〔『九国条約無効』国民文化協会、一九三七〕は、軍部や政府の不法の外交や政治を非難したものであつて、彼らのために助言したり、支援したりしたものでは、もちろんない。ところが、私の右の学理による著書は、戦後になつて、追放調査委員会から調査された。そうして、「日本の対支行動を正当化し、支那事変に理念的基礎をあたえるものと認める。」と裁断され、私は追放されたのである。私は、右の審査を軽薄と憤つた。「理由なし」として弁明書を出したが、取り合われなかつた。私は世の中からまつたく引つこみ、大磯に風光と書物を友として、かろうじて生きていたのである。

 ここでも蜷川新は、過去の自己を言動を、肯定的(自己弁護的)に語っているが、当然、検証の必要があろう。明日は、一度、話題を変える。

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