礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

明治10年(1977)にあらわれた西郷星

2018-01-09 02:45:55 | コラムと名言

◎明治10年(1977)にあらわれた西郷星

 本年二〇一八年は、「明治一五〇年」にあたるという。五十年前の一九六八年、「明治一〇〇年」ということで、様々な企画が催されたり、いろいろな本が出たりしたことを思い出す。
 今回の「明治一五〇年」にあたっては、「明治一〇〇年」のときほどの盛り上がりはない。むしろ、ここ数年は、「明治維新」という出来事を、冷静な態度で、あるいは批判的な視点から捉え直す傾向が強まろうとしている。
 及ばずながら私も、二〇一〇年=明治一四二年に『攘夷と憂国』(批評社)、二〇一三年=明治一四五年に『日本保守思想のアポリア』(批評社)を発表するなどして、「明治維新」を捉え直す流れに加われたのではないかと自負している。
 中でも、二〇一五年=明治一四六年に、批評社から覆刻・校注した、蜷川新〈ニナガワ・アラタ〉著の『維新正観』(元版は一九五二年九月、千代田書院刊)は、多くの読者から好意的な評価をいただき、校注の際の苦労を忘れた。
 さて、本日は、前記『維新正観』の著者・蜷川新(一八七三~一九五九)が、一九五二年(昭和二七)の時点で、八十年に及ばんとする自己の人生を振りかえった文章、「私の歩んだ道」を紹介してみたい。蜷川新著『天皇』(光文社、一九五二年一〇月)の巻末に置かれていたものである。

  私 の 歩 ん だ 道
   一 子供時代の教育と精神
 私は、明治六年〔一八七三〕に生まれた。そうして七日ののちに、父〔蜷川親賢〕をうしなつた。私は、父親を知らない人間である。
 私は、駿河の国(静岡県)の海岸の袖師【そでし】で生まれた。興津【おきつ】の隣り村である。私は生まれてまもなく、母〔はつ子〕にいだかれて東京に移つた。母の生家は、徳川時代から神田明神下【かんだみようじんした】にあつた。母の実父、すなわち私の祖父〔建部政醇〕は、播州(兵庫県)林田【はやしだ】の旧藩主であつたが、まだ生きていたのであった。母は、その生家の建部〈タケベ〉家をたよつて、東京に出たのである。
 私は、一家が無録移住をした駿河で生まれたのであり、生まれながらにして、逆境におかれた不運な一人間であつた。
 当時の東京は、おごれる薩長人〈サッチョウジン〉をはじめ、各藩から集まりきたつた勝利者の占領地となつた直後であつた。すなわち、革命後の混乱の社会であつた。
 私の母は、やがて麹町三番町の実弟〔坪内定益〕、坪内家の邸内に移ることになつた。私はそこで、十五歳まで、母とともに生活した。私は七歳以後は、当時から有名な番町〈バンチョウ〉小学校に学んだが、学問、思想、行動は、先生から模範少年としてほめられていた。ただし、町の人びとには、いたずら者として、市ケ谷見附【いちがやみつけ】から九段にいたる間の人びとからは、憎まれはしなかつたが、評判されていた。
 私はその間に、漢学を清田嘿【もく】先生に学び、英語を無名の先生に習い、また特に数学の先生について、代数や算術を学んだ。私の母は、親切に私を養育した。「一大人物となるよう。」にと、母はいつも私をはげました。母は私に、わが家の昔からの歴史を、よく説ききかせた。また、維新当時の事情を、よく話された。
 私が五歳のとき〔一八七七〕に、空中にものすごい帚星【ほおきぼし】があらわれたが、母は深夜、私を庭につれだして、そのおそろしい大きな星を指さし、「あれが、西郷〔隆盛〕の怨霊〈オンリョウ〉だと、みんなは言っている。」と、私にきかせた。私は、まだほんの五歳の子どもであつたが、永年、かき消すことのできないほどの強い感じを、そのときに受けた。七十四年をへた今日でも、その大きな、かがやいた彗星とその場面とは、私の眼に映つていて、消えさらない。
 私はある日、母につれられて、小石川の大学植物園へいつた。十歳ぐらいの時であつたろう。母は私にむかつて言った。「ここは、蜷川家の下屋敷【しもやしき】であつた。明治元年〔一八六八〕三月から十月までのあいだ、一家は二人の旧臣と数人の下男下女とともに、この屋敷に住まつていた。その五月には、彰義隊の敗兵数名がこの屋敷に逃げこんできた。一家は、今夜こそは官軍の刃にかかつて、皆殺しにされるだろうと心配もしたが、覚悟もきめた。しかし、敗兵はどこにか去つて、一家は無事だつた。しかしその後、ある夕刻に、父も母も中二階で夕食をともにしていた時に、山上から、突如、一発の弾丸が飛んできた。その弾丸は、座数のかもいにあたつた。父母は食事をやめて、階下におり、静かに山上のようすをうかがつて見たが、なんの異変も見られず、そのままで終つた。」と、私に話してきかせた。子供ながらにも私は、それをきいて憤りなきをえなかつた。そのときの母の姿と容貌とは、今もなお、私の眼底に残つて消えない。
 私は、子供の時代に、三番町に住んでいた清田嘿という漢学の先生の塾に、毎日かよつた。先生は、幕府時代には与力【よりき】の身分の人で、漢学には深い造詣があつた。漢文の著書も数種あつた。生徒も、たくさん通つていた。先生は、いつも、維新当時の江戸の実相を私に話しきかされたが、そのなかには、西郷が江戸市中に放つた強盗五百人の掠奪事件のくわしい話もあつた。与力は、幕府の警察官として、強盗押入りの知らせがあれば、ただちに隊を組んで、その捕縛にむかつて、挺身するのであつた。人民の財産を強掠〈ゴウリャク〉するのが西郷らの仕事であつて、幕府を攻めるのでもなく、市内に反乱をおこさせるのでもなかつたことを、いつも先生は、くわしく私に話された。彼らには、なんらの道義心のなかったことを、力強く私に話されるのであつた。正義心にもえていた少年の私は、子供のときから、彼ら政争者の残虐非道をにくますにはいられなかつた。
 私は、をの時代からすでに、レジスタンス式の精神を、うえつけられていたのである。私は、張良が秦の始皇帝を、挺身襲撃した古事を、漢学によつて学び、張良の強く正しい意気を、深く敬慕していたものであつた。後年にも、私はその絵を床の間にかけて、観賞するのをたのしみとしている。【以下、次回】

 ここで蜷川が見た「帚星」とは、地球に大接近した火星のことで、一八七七年(明治一〇)九月三日に、最も接近したという。同年九月二四日、西郷隆盛が切腹して、西南戦争が終わった。西郷の死を悼む人々(西郷の怨霊を恐れる人々)によって、この星は「西郷星」〈サイゴウボシ〉と呼ばれたという(ウィキペディア「西郷星」)。

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