礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「いろはかるた」は一枚一枚が独自の哲学

2018-01-01 04:23:34 | コラムと名言

◎「いろはかるた」は一枚一枚が独自の哲学

 新年にふさわしく、「いろはかるた」の話題でゆこう。
 哲学者の鶴見俊輔(一九二二~二〇一五)に、「勅語・かるた・じゃんけん」というエッセイがある。河出新書の『大衆芸術』〔教養32〕(一九五四年三月)に収録されているもので、初出は一九五三年(昭和二八)一月の大阪毎日新聞だという。
 短いものが機智に富んでおり、何度読んでも感心させられる。以下は、その引用。

  勅語・かるた・じゃんけん

 欧洲人の聖書、中国人の論語、インド人の印度経典のように、その国民全体の思想、行動のワクとなるような経典が日本にあるだろうか。勅語が、その一つであったと思う。教育勅語〔教育ニ関スル勅語〕語を読まされることは、小学校の祭日でその儀式であったし、卒業までには暗しょうさせられた。軍人にたまわりたる勅諭も軍隊で暗しょうさせられたし、下士官や教官の訓示には宝石のごとくちりばめられて、思想と同一化する手段となっていた。宣戦の大詔もまた、長い戦争の毎月八日に朗読された。これらはときの官僚の意見に似せた自分の意見を編む場合に支柱として今でも役に立つ。
 官僚文化の経典として勅語があるように、庶民文化の経典として「いろはかるた」がある。こゝには世渡りのチエが、バラバラの形でおいてある。そのバラバラの形それ自身が、教育勅語のような、きっちりした文法をもつものと対照的で、おもしろい。勅語の厳密なシンタックス(文体構成)が日本の官僚のニセ近代性に対応するとおなじく「いろはかるた」の散漫で任意的なシンタックスは日本の庶民の気楽な精神の構造に対応している。校長や下士官の説教に勅語の文句がちりばめてあるのと同様に、町の苦労人のお説教には「いろはかるた」的な処世訓が小出しに出てくる。その影響力は浪花節や講談の比ではない。
 農村調査をした時に、今の二十歳以上の男女に対しては勅語とともに「いろはかるた」が思策のラシンバンとして動いていることを確かめえたが、それ以下の子供たちは状況がかわっている。
 今の子供たちにとっては、どんなカルタが行われているかと思って買い漁ってみた。すると「新版いぬぼう」の他に「新版いろはかるた」と「よい子になるかるた」というのがあって、ことに「よいこになるかるた」の方は「守れ信号ひとりのこらず」とか「警官はみんなボクらのおにいさん」とか、政府が言語的魔術をかけるのに都合のいゝことばかり書いてある。やっぱり「いぬぼう」の方がいゝ。これには「たびはみちづれ、世はなさけ」のような博愛主義があり「えんはいなものあじなもの」のように偶然主義と楽天主義があり、「ろんよりしょうこ、わらにんぎょう」のように論理実証主義もあり、一枚々々が、独自の哲学である。これらのあいだにはさまって「めのうえのたんこぶ」のように権力者に対するステぜりふがまじっている。こういうシニシズムが庶民の倫理の中に実際にあることを、隠さず出しているのが偽善的でなくて、かえって着実な進歩の土台となる。また「知らぬが仏」の消極哲学と「犬も歩けば棒にあたる」の積極哲学とは、相反するが、これら相こくするさまざまの哲学的立場を、その人と場合によって採用して運用の妙を示すのが、日本の苦労人なのであろう。こうした「いろはかるた」の構造自身が庶民的倫理の現状をよくあらわす。この倫理は、現状維持のための不動の体制をもつ勅語の構造とちがって、自身を前に進めるための突破口を自分の内に用意している。しかし、カルタの世界にさえ政府が侵入するのでは、これからは、カルタよりも「ぐう、ちょき、ぱあ」でもして遊ぶ方がよい。「グウと出せ」と命令されてもすぐまに受けてグウを出すことをしない習慣をつくることで、それは国民的不服従運動(ニホン・スワラジ)の下地になるかも知れない。

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