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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「新聞の終戦」は単純にはいかなかった(読売新聞の終戦)

2012-11-24 05:25:06 | 日記

◎「新聞の終戦」は単純にはいかなかった(読売新聞の終戦)

 一八日のコラムで、「内閣情報局と深く関わっていた報道機関(少なくともその中枢)が、ポツダム宣言受諾の動きをキャッチできなかったはずはない」と書いた。
 そこで、具体的な根拠を挙げておくべきだったが、すぐには思いつかなかった。その後、一九五二年(昭和二七)六月に出た『文藝春秋』の臨時増刊号、特集「アメリカから得たもの・失つたもの」に、「新聞の終戦」という文章が載っていたことを思い出した。筆者は、当時、読売新聞社会部長だった原四郎である。
 結論から先に言えば、八月一四日の時点で、新聞社は、「戦争終結の詔書」が出ることを知っており、徹夜で待機していた。と同時に、陸軍の反乱が起きるという情報もキャッチし、対応に苦慮していたという状態だったようだ。
 ともかく、原四郎の文章を引用してみよう。見開き二ページの文章だが、引用するのは、その後半の一ページ弱である。

 ところが、この鞏固〈キョウコ〉な軍統制が乱れはじめる時がきたのである。大体、八月九日、午前零時を期してソ連が参戦した。この時から、軍の統制が二つに割れて、新聞社ではどれが真の政府の腹なのか解らなくなつてきたようである。ソ連参戦の翌日の十日、下村〔宏〕情報局総裁談として「――今や真に最悪の状態に立ち至つたことを認めざるを得ない。正しく国体を護持し民族の名誉を保持せんとする最後の一線を守るため政府はもとより最善の努力をなしつつあるが、一億国民にあつても国体の護持のためにはあらゆる困難を克服して行くことを期待する」という、玉砕反対、つまり降服を暗示した敗戦宣言を出した。
 ところが同じ日、同じ時刻、阿南〔惟幾〕陸軍大臣の名で「全軍将兵に告ぐ」と称して「事茲に至る又何をか云はん、断乎神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ、仮令〈タトイ〉、草を喰み〈ハミ〉、土を嚙り〈カジリ〉野に伏すとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず――敵撃滅に驀直〈バクチョク〉前進すべし」という勇しいのが出て、一億玉砕を命令している。両々ながら権力をもつての話で、止むなく各新聞社は十一日の紙面にはこの、矛盾した二つの発表を仲よくトップに並べて載せるという芸当をやつてのけた。
  ○
 こうしした中で、三日すぎて迎えたのが八月十四日である。当時、読売新聞は戦災で焼け、全社員が築地の本願寺講堂に移つていた。すでに御前会議のあらましも伝わつておりこの日は戦争終結の詔書がでることを知つて社では本願寺に徹夜で待機することになつていた。当時は二版制で、一版は午後の六時ごろ締切つていた。従つて一版には終戦の詔書は入つていなかつたが、二版に入れようというわけで徹夜待機したのである。折からB廿九最後の攻撃が熊谷を襲つていて東京全部、管制停電の闇である。そこへ、十二時近くになつて、あの終戦の詔書が官邸詰記者から届けられてきた。と同時にサイレンの鳴りひびく真暗闇〈マックラヤミ〉の東京の一隅、本願寺奥の無気味なローソクの灯の蔭で一と問題が起きたのである。というのは、この詔書と同時に、陸軍は全国的に反乱しているという報が入つてきた。更に敵を海岸に邀撃〈ヨウゲキ〉して水際作戦を敢行するという大本営発表も何処からか編輯に舞い込んできている。また、或る方面からは詔書を出したというのは実は軍の敵に対する作戦なのだ――という情報が入つて来る。いや、四国共同宣言を受諾した、というのも実は巧妙なゼスチャーであつて……とまことしやかに伝えてくる者もいる。何が何だか、とんと解らない。うつかり詔書などを新聞に載せたら軍に焼き打ちを食うだろうという論者もいる。かといつて、三日前の手を繰り返すにしても終戦の詔書と、ただちに水際作戦を敢行する、という大本営発表とでは、ちよつと二つをトッブに並べて載せるわけにはゆかない。
 詔書を載せるべきか、大本営発表を載せるべきか、論議というよりは、ローソクの灯の下で黙してしばし声もないところへ、大本営発表を参謀総長の処〈トコロ〉まで行つてただした結果、偽発表と判つた、という報告が入つた。ソレッというので編集の議一決、御覧のような昭和廿年八月十五日付の歴史的紙面の活字が、紙型〈シケイ〉にとられたのである。この紙面一面に巧妙な云い廻しで「降伏」を報じつつ、二面に「空母、巡洋艦を大破す」と大戦果を誇らし気に報ずるなど、御愛嬌というものであろう。

 いろいろと考えさせられるものがある。新聞社という最も「情報」に通じていなければならない機関が、デマやニセ情報に振り回されている。終戦の噂を耳にした兵士や庶民、あるいは終戦の放送を聞いた兵士や庶民にあっても、状況は似たようなものだったかもしれない。すなおに「終戦」を受け入れた国民がいた一方で、それを受けとめ切れない国民もいたはずである。軍部のクーデターなどを予期した国民もあったであろう。
 終戦の玉音放送の内容は、おそらく、おそらく多くの国民が正しく理解できた。しかし、そのことは、ただちに国民が「終戦」を受け入れたことを意味しない。もちろん、多くのデマやニセ情報も乱れ飛んでいたはずである。「放送が理解できなかった」という伝説が、今日なお、語り継がれているのには、当時、こうした「混乱」があった事実を反映しているのかもしれない。
 なお、引用文の最後のほうに、「御覧のような昭和廿年八月十五日付の歴史的紙面」とある。これは、この臨時増刊号についていた「特別付録」、当日の新聞の復刻版のことを指している。残念ながら、私が古書店で買い求めた同誌には、この「特別付録」はついていなかった。雑誌『文藝春秋』には、ぜひまた、同様の企画をお願いしたい。

今日の名言 2012・11・24

◎うつかり詔書などを新聞に載せたら軍に焼き打ちを食うだろう

 1945年8月15日未明、読売新聞社内では、その日の新聞に「終戦の詔書」を載せるべきか否かについて、意見の対立があったらしい。上記コラム参照。

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