ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

腰痛は続く(-_-;)

2024-11-07 20:40:48 | 生き方

腰痛になったのは日曜日だった。

月曜日は痛みが増してしまった。

安静にしていればいいのだから、寝ていれば、と考える人もいるかもしれないが、寝るとかえって苦しいのだ。

なぜかというと、姿勢を変えるための寝返りができない。

寝ようとするときも、起きようとするときも、痛みなくして寝たり来たりはできないのだ。

だから、仕方なしに起きている方がいい。

寝ているより、起きて立っている方がいくらか楽なのだな。

月曜の夜も寝返りができず夜通し厳しかった。

 

そして、朝になると、体が固まってしまっている感じで、何をしても動くたびに腰に痛みが来ていた。

立つのもダメ、立つためにどういう姿勢をとりながら、どこに力を入れればいいのかを確かめながら、痛みが少ない姿勢を選んでゆっくり立ち上がる。

立つのに比べたら、歩くのはいくらか楽。

急がなければ、ゆっくり歩いている方が腰は痛くない。

日中は、時間がたってくると、少しは腰も楽になってくる。

火曜日は、連休が終わって平日になったから、医者が営業している。

だから、いつもの医者に行ってきた。

だが、整形外科医院は、いつも高齢者で混雑しているから、診察室から名前を呼ばれたのは1時間余りたってから。

それでも、いつもより早かったと思ったりした。

 

この医師には、30年前に椎間板ヘルニアの手術を執刀してもらったことがあるので、私は全幅の信頼をおいている。

今回は10か月ぶりだが、特に腰痛に陥った原因がはっきりしないと伝えた。

前には2週間分の薬をもらって飲んだり貼ったりして、なんとか治ったという話もした。

今回も、同じ薬を2週間分処方するから、それで様子を見ようということになった。

 

それから2日、前より寝返りに痛みは伴わなくなった。

少しずつ良くなっているのかとは思う。

だけど、今日は、腰よりも少し上の背中近くの方に痛みが出ていた。

簡単には治らないな、とため息をつく。

 

せっかくエントリーしたのに、楽しみにしていたけれど、ごせん紅葉マラソンは断念決定!

今年最後と予定していた大会だけど、不参加です。

 

…ということで、簡単には治らない腰痛。

今日は立冬、急に寒くなりました。

季節の変わり目。

これをお読みの皆様も、どうかお体お気をつけください。

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またもや突然の腰痛発症

2024-11-04 14:29:32 | 生き方
困ったもので、昨日、また腰痛を発症してしまった。
たしか、去年もこんなことが、と思って自分のブログを「腰痛」で検索してみると、出てきた、出てきた。
それは、去年のことではなく、今年年明けの頃のことであった。
齢のせいで、覚えが悪く忘れ方がひどいなあ。
それはともかく、あのときは、悪い姿勢で刈込ばさみを使っていたから、そのせいだと原因が断定できたのだが、今回は、まったく思い当たらない。
普通に生活していたら、急に腰に違和感が生じ、以前と同じような痛みが出るようになった。
とにかく姿勢の変更時が痛い。
立つとき、座るとき。
前かがみになろうとするとき。
夜寝ようとするとき。
寝返りをうとうとするとき。
…あ~⤵…。

昨日、発症したのは午前中だった。
午後からのサンクスフェスタで、あの窮屈で堅いビッグスワンスタジアムの椅子にずっと座っていたのは、たしかに苦痛であった。
行かなければよかったか?
いやいや、それはできなかった。
多少腰が痛くても、死闘翌日の選手たちの姿を見たかった。
痛みをこらえながら車の乗り降りしたり、階段の上り下りしたり、堅いベンチに座りっぱなしだったりして痛かったのだが、選手たちの姿を見る喜びの方が大きかった。

1月には、がまんできずに通院して薬をもらい、痛みがなくなるまでおよそ3週間かかった。
それを思うと、また今回も3週間ガマンだな。
残念だが、来週のごせん紅葉マラソンも、出走せずキケンしなければいけなくなりそうだ。
気が滅入るなあ…。

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「要受診」とされて、行ってきた

2024-10-30 20:05:09 | 生き方

先月行ってきた特定健康診査。

正式な結果通知が来ていた。

身長は縮み、体重も減少。

なぜか腹囲は1.8㎝増しだけど、今は83㎝台なので、40代50代で着ていたズボンはガバガバ。

その頃は、体重は83~85kgくらいあって、最大で97㎝くらいのウエストのズボンをはいていたのだから。

それが今は、体重は67kg台で、ウエスト82㎝のズボンはきついが、85㎝だとらくらく入る。

やせたもんだなあ。

1回につき10㎞くらいランニングをするようになったら、どんどん体重が落ちていったけど、まさかここまで体重や腹囲が落ちるとは思わなかったな。

そのせいか、寒さに敏感になってしまって、この時期も簡単に寒さを感じてしまうのは困ったものだよ。

 

さて、問題は、血圧。

検査会場で測ったら、どういう測り方をされたのか、2回やったら「146-91」という、最高も最低も高い血圧の値が出てしまった。

しかも高い方を測定値とされたものだから、しっかりと「要受診」となってしまった。

家で毎日測っているけれど、140台になることなんてなかったのにさ。

なんか、会場の血圧測定器おかしいんじゃね!?

と言いたかったよ。

 

「要受診」という知らせが届いたからには仕方ない。

「しゃあない。医者行って来っか~」ということになって、本日、近くの医者に行ってきた。

ここを訪れたのは、3月や4月のCOVID-19感染症以来ですなあ。

あれから半年もたったのか、と時の流れの速さを思いながらの通院。

 

そんなに混んではいなかったが、たっぷり待たされて、診察はあっという間。

「では、血圧を測ってみましょう」

と、聴診器も使いながら、血圧測定。

「平常ですね。116-64。」

「じゃあ、市にはこちらから報告しておきます。お疲れさまでした。」

あっという間に終わり。

 

何もなくて、「あー、よかった!」…なんだけど、診察費890円は高いのか、安いのか…?

うーん。やっぱり、9月の検査会場で高い値を登録されたことに、うらみ節の一つも言いたくなるなあ。

でもまあ、こうしたドッキリを経験させながら、健康への関心を持ってほしいということもあるかもしれないな。

何もなかったのだから、とりあえず、めでたしめでたし!!…としておこう。

 

 

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還暦以来8年ぶりの、高校同級会

2024-10-27 19:43:44 | 生き方

昨日土曜日、高校時代の同級会が開かれた。

オリンピックイヤーに開催すると決めているわれらの同級会、前回4年前は新型ウイルス感染症で中止。

8年ぶり開催の会場は、初めて県都新潟市とした。

 

今から50年前、私たちは高校3年生だった。

あれから、半世紀という信じられないほどの時間が経過した。

41名の学級成員のうち、4名は鬼籍に入り、2名は行方不明。

出欠の返事をくれたのは32名で、残念ながら21名が欠席連絡。

体調不良で参加できないというコメントをくれた方も5名ほどいたし、家族の介護で抜けられないという方も複数名いた。

結局参加者は12名、前回より5人減で、幹事としては少々寂しかった。

だけど、それぞれの近況報告は、それなりに味わいがあった。

その一端を列挙してみる。

 

家庭菜園を楽しんでいます。

野菜も子ども相手にしているのと同じで、一つ一つ違うのが楽しいです。

 

仕事は65歳で区切りをつけて、好きなことをしようとあれもこれも首を突っ込んでいたら、忙しくなり過ぎました。

先日は3回目の四十肩で腕が上がらなくて困りました。

 

同級会は16年ぶりの出席です。8年前は、交通事故で入院中。12年前は、がん治療で入院中でした。がんは、見つかったらステージ4と言われたけれども、なんとか克服できました。交通事故では、植物人間になると言われたけど、今こうして生きています。ただ、左脚切断で義足、右手マヒも残っています。好きだったゴルフができず、温泉も入れません。でも、車の運転と酒飲みだけはできます。

 

義母を亡くして、何かしようと思うのだけれど、あれもこれもいろいろ決められなくて、結局何もしていません。

 

60歳で退職したけど、その後も働いています。零細農家なのですが、自分も畑で好きなものだけ作って、農家のまねごとをしています。

 

30年ほど会社勤めで営業の仕事をしたが、それをやめてから10社くらい仕事を変わりました。今は、建物の中での仕事はダメで、外仕事をしています。現在は独りに戻っての生活だけど、人生の中で今が一番いい時だと思います。自分なりの時間の過ごし方ができます。以前やっていたそば打ちをまた始めて見ました。

 

高校時代にいろいろ思い描いていた未来が、今の姿です。今は、水道屋をやっています。10年建設会社に勤めて、また違う会社に勤めた時の縁で結婚して、家業の水道屋を継ぎました。地域の会社の組合の理事長もやったりしました。50年たっての今が未来の姿だったのだから、80歳まで現役でいきたいと思います。

 

電車の中でずっと、8年前の還暦記念の文集を読んできました。自分の書いたのをとても恥ずかしく思いました。今は夫婦2人暮らしですが、18歳から5歳まで孫が6人います。でも、私はまだ勤めを続けています。

 

この4月で勤めていた会社をやめました。

でも、何もしないのはよくないので大きな自然公園で3日に1回くらい清掃作業をしています。そこは広いので、1日に10㎞くらい歩きます。ほかに町内会など、ほどほどに仕事していくのがいいと思っています。

 

定年退職後、再雇用で週に4日勤めたけど、残りの3日はテレビばかり見て時間を過ごすだけなので,公立保育園の用務員に応募し就職しました。子どもと交流するのは楽しいです。園までの片道約9kmをロードバイクで行き来しています。今までスイスに3回トレッキングに行ってきたけど、今度また行ってこようと思っています。

 

家で家族の介護を長らくしてきました。家の中の困ったことがあると、電気工事とか壁張りとかをやったりするのが楽しいので、少し勉強して正式に電気工事の資格とか消防管理の資格とか取ってしまいました。今後は、ピアノをやってみたいと思って、少しずつやっています。

 

老親や家族の生き死になど、苦難のことはもっと語られていたが、ここでは省略する。

それらを掲載すれば、もっと実感が湧くのだが、個人のことだからあまり詳しくするのはやめておこう。

8年前の還暦時に行った同級会に比べ、個々の話は聞きごたえがあった。

ここまでの人生を生きてきたがゆえの、山あり谷ありの報告が多くあった。

皆さんのそういう話を聞いていたら、高校時代から50年、同じ半世紀の時代を生き抜いてきた大切な仲間なのだなあという気持ちが湧いてきた。

それは、私だけでなく、皆同じような気持ちになったようだった。

 

今回の同級会を開かなくては、このような個々人の経験—皆が真剣に生きてきた足跡を知ることはなかったはずだ。

その思いからなのだろう、会が終わるときには、参加者の多くの人から、幹事やってくれてありがとう、の言葉をもらった。

その労いの言葉は、とてもうれしく響いた。

 

さて、4年に1回と決めているわれわれの同級会だが、今回は皆さんの年齢が68歳の会だった。

次回は、72歳の時ということになる。

だが、自分たちの今後となると、4年先は長い、という話が出た。

だから、次回は、2年後の70歳古稀の時に開催しないかという提案が出た。

それはいい、と多くの賛同が出た。

できれば、1泊してゆっくりやりたいなんていう話も出た。

ま、それはともかくとして、2年後開催ということでまとまった。

 

…いかん!

2年後開催を安請け合いしてしまったが、幹事の大変さがまた再来年すぐくるということだ。

でも、今回の出席者の皆さんは、すごく喜んでくれたから、多少の煩わしい苦労は吹っ飛んだ気がするから、次回もがんばろう………ってか。

 

次回まで、皆さん、元気でいてくださいね。

そして、今回参加できなかった皆さ~ん、次回は体調を整えて、多数の参加をお待ちしていますよ~。

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今日、中越地震から20年

2024-10-23 15:08:44 | 生き方

今日は10月23日。

中越地震から20年もたつのだ。

時の流れが信じられないほどだ。

地元紙新潟日報は、別刷で特集版を出していた。

また、紙上広告では、1ページ使って次のようなものが出ていた。

 

ここのブログでも、この日のことは何度か書いてきたことがあったが、20年か、早いなあと思う。

中越地震でいつも思い出すのは、この地震の時は、まだ母が生きていたな、ということ。

この2日前に、母は最後の誕生日を迎えていた。

この地震が起こった頃、私は母や娘と、サッカーJリーグ中継を見ていたのがちょうど終わるところだった、という記憶が強く残っている。

当地では大きく揺れはしたが、それに驚きはしても、幸い被害はほとんどなかった。

その半年後、母はこの世を去った。

母の場合は癌で余命半年の宣告を受けていたのに、それ以上に生きることができた。

だから、日々、悲しみの準備はできていた。

でも、地震のような突発的な災害で家族の命を奪われた人たちの悲しみはいかばかりかと思ってしまう。

中越地震については、最大震度7を記録。死者68名。負傷者4795名。全壊3175棟。半壊・一部損壊約11万棟以上などの被害記録が残っている。

新幹線が脱線し動けなくなったり、その作業中に大きな余震が来たりしたのは、私たちの記憶に残っている。

 

当時専門学校生だった娘は、長岡の寮に入っていたが、地震のあったその日は、たまたま帰省していたから、被害にあわずに済んだ。

だが、約1週間後に長岡に送っていくと、つぶれた家や、

ぺしゃんこになった古い工場のような建物、

七目に倒れかけた電信柱や地中から地上にせり上がって柱のように出ていたマンホールなどを見て揺れの激しさが分かり、驚いたものだった。

娘の入っていた寮の部屋では、様々なものが落っこちて悲惨な状況になっていた。

あれから、7年後には東日本大震災が起きた。

そこから13年たって、今年は能登半島地震が起きた。

遠く離れた新潟市西区周辺でも、家の倒壊や道路などの大きな被害が出た。

 

地震や自然災害は、いつ、どんなことが起こるか分からない。

だから、しっかり備えておかなくてはいけないという戒めを与えてくれている。

それと同時に、年齢が上がってきたら、いつ死んでもいいようにしておかなくては、ということも考えるようになってきた。

終活、身を入れなくては…。

まだ早いと思っていてはいけない、と思いを新たにしている今日であった。

 

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敬老の日

2024-09-16 19:53:56 | 生き方

今日9月16日は、敬老の日。

先日の「チコちゃんに叱られる」で、敬老の日は、兵庫県の「としよりの日」から来たのだということを知った。

特に故事とは関係なかった、と知った。

別に、それが理由で敬老の日を意識したわけではないが、今年は初めて自分に関係のある日なのだと意識した気がする。

 

総務省が公表した人口推計によると、65歳以上の高齢者は全国で3625万人と過去最多だという。

前年比で2万人の増。

総人口に占める割合も過去最高の29・3%なのだそうだ。

 

新潟県では、前年に比べて3000人減の71万2千人だったそうだが、県人口に占める高齢化率は33・9%で、前年比0・3ポイント増であり、42年連続で過去最高を更新中だという。

市町村別の高齢化率は、最高が阿賀町の52・3%。

かつて勤めた時から10年以上がたち、あの頃よりさらに少子高齢化が進んだ。

だから、10数年前に私が勤めた職場は、もうすでになくなってしまった。

高齢化率が最も低かったのは聖籠町の27・4%で、新潟市は30・9%だったというが、その数字だって「うわっ、低い」と思えるほどの数字ではない。

 

さて、高齢化率が33・9%ということは、県内の3人に1人は高齢者だということだ。

かくいう自分も、そのone of them なのである。

 

自分が高齢者の仲間入りをしたのは一昨年だったが、特別な感慨はなかったといってよい。

まあ、年金がおりるようになって、もらえる年齢になったのかとは思ったが。

不思議なもので、去年もおととしも「敬老の日」だからといって、自分がその対象として関係しているとは思わなかった。

年齢は高齢者になっていても、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼んでくれる孫がいるわけでもない。

自分たちがジジババになっているという自覚はなかったのである。

だが、今年は、自分のことと感じる割合が高くなった。

 

それはやはり、自分の体力や体調が少しずつ落ちてきているせいだろう。

走ることは好きだったのに、少し速く走った翌日などにはクラクラしそうになったり疲労感を感じたりするようになってしまったから、無理をしないジョギング走りになってしまった。

今年の春には、COVID-19感染症陽性となり、苦しい時を過ごした。

その前後から、内臓がどうも今までとは少し違うような感じになっている。

自分の周囲にいる同年齢や少し下の人でも、体力の衰えや体の不調を言う人が増え、それを他人事とは思えなくなった。

そのうえ、自分の親世代の人々が本当に少なくなってきた、ということがある。

少し前までたくさんいたその世代の人たちがいなくなり、次にいなくなるのは自分たちの世代なのだ、ということをひしひしと感じるようになってきた。

それを実感させるのが、自分が影響を受けた、同じ世代や少し上の世代の有名人たちが、何人もこの世を去っていったということ。

そんなようなことが、自分を高齢者だと実感させることにつながっている。

 

奇しくも先週末、ほぼ同年齢で40代ではすごく世話になった人が亡くなったという報せが届いた。

突然の訃報にはただただ驚いた。

10年ほど前には前立腺がんなどを乗り越えた人だったが、先週具合が悪いからと入院の措置がとられた翌日、急逝したのだという。

まだ70歳にもなっていないのに、急逝だって…?

同世代の訃報を聞き、自分たちの世代でもいつ人生の終わりを迎えるか分からない。

そんなことを急に身近に感じたのである。

 

今日は敬老の日なんだって…と、簡単に流せなくなった今年の敬老の日………。

 

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7回忌を迎え、埼玉は今

2024-08-30 18:02:24 | 生き方

早いものだ。

もうあれから6年。

義兄の7回忌に当たる日を迎えた。

 

埼玉の義兄が亡くなってから、その家や畑を継がざるを得なかった妹。

それが新潟に住むわが妻。

ということで、毎月家や畑の管理をしに私も一緒に埼玉に行って。除草等を行って来るのが、この6年間の生活になっていた。

今やそれが生活のリズムを生んでいたようにも思う。

毎月行かなければ、畑の雑草はものすごいことになる。

以前の写真である。

特に、梅雨の時期から夏にかけては、手を抜けなかった。

だから、毎年こんなふうに伸びた草と格闘してきたのだった。

 

ところで、例年8月はこのように草ぼうぼうの畑だったのだが、今月はこんな状態である(↓)。

本物の畑(?)のようになっているのだ。

草もない。

つまり、本物の畑に戻ったのである。

私たちは、埼玉には行っていない。

どうしたのかというと、畑で農業をやりたいから借りたい、という貴重な人が現れたのだ。

住む家も必要だから、家も貸してほしいということ。

正直、願ったりかなったりということなので、こちらの希望やあちらの願いなどを話し合って、ただ同然で家と畑を貸すことにした。

今まで農業をやってきた方ではないけれども、これから本格的に取り組んでみたいということだった。

でも、本気で取り組む意欲が見えたし、人柄も誠実さを感じたので、信じられる方だと思った。

その方が、あの荒れ地だった土地を耕して、畑にしたのだった。

彼の農業の取組が成功することを祈っている。

 

埼玉の亡くなった義父母や義兄たちも、きっと借り手が見付かったことを、喜んでくれていることだろう。

それとも、娘が新潟から来なくなってさびしがっているだろうか。

 

そんなわけで、埼玉には全く行かないわけではないが、行く機会は減ることになった。

いざはるばる行かなくてもいいということになると、楽にはなったのだが、なんだかちとさびしさも感じる。

新潟とは違う自然環境なので、見られる植物にも珍しさがあった。

わがもの顔に生えてくる雑草にも違いがあった。

猛暑日になると必ず名前の出てくる埼玉県北部。

そこでの真夏の除草は非常に厳しかったが、珍しい植物たちや元気にはびこる植物たちを見ることが楽しくもあったのである。

さびしいなんて、ちょっとした埼玉生活ロスかもしれないな。

 

 

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年寄り3人、ファミレス飲み会

2024-08-29 19:27:04 | 生き方

昨日、私と同年代のかつての仕事仲間3人で久々に飲み会をした。

ずっと自粛していたものだから、3人で飲み会をするのも久しぶりだった。

前にもこの3人で集まって楽しんだことがあったのだが、感染症の時代を迎え、しばらく飲み会は慎んでいた。

まだ油断はできないが、とりあえず今なら多分大丈夫だろうということで、昨夕集まったのだった。

 

さて、その飲みの場所だが、ある意味珍しいところでやってみた。

割烹でもないし、居酒屋でもないし、小料理屋でもない。

まあ、普通ならこんな高齢者が飲み会なんてしないところだ。

その場所は、………なんと、ファミレス。

「Sグループ」の「G」と言えば、あの全国チェーンのどこに行ってもあるような(?)ファミレスである。

平日の夕方5時から始めたせいか、案外客は少なかった。

 

ここを選んだIさんは、

・時間限定サービスをしている

・新聞に入っていたチラシを見て料理番号で注文すると安くなる

・高齢者割引がある

…などの情報を見て、一度試してみたかったのだという。

 

私ともう一人のSさんは、こわごわとテーブルに置いてある注文用のタブレットを操作しながら、生ビール等を注文した。

夕方6時までなら、ビールの中ジョッキが安く飲めるということで、1時間で3~4回ジョッキを空けて、飲んでしまった。

飲み屋であれば、ビールはここまで安い金額で飲めないはずだ。

種類はそんなに多くはないが、フライドポテトや唐揚げチキン、サラダなどがあるから、そこそこつまみとなる食べ物はある。

Iさん、いいよ、ここ。グッジョブです。

 

驚いたのは、チラシを見ながら注文した料理が、店員ではなくワゴン型のロボットによって運ばれてきたことだった。

初めてこんなのを見た。

ちゃんと迷わずにテーブルまで運んできて、料理を取ってもらうと、また賢く戻って行く。

一連のその動きを見て、この爺さんたち3人は、びっくらこいたのであった。

こういうのが、都会では普通にやっているというのは知っていたが、まさか自分の住んでいる田舎都市(?)でも使われているとは、驚きであった。

 

6時を過ぎてからは、ビールが平常の値段になるので、白ワインなんぞをボトルで頼んで飲んだ。

3人が好きな日本酒はおいてなかったので残念だったが、ワインで十分会話を楽しめた。

 

3人とも体のどこかが不調で、さすがに堂々と高齢者の仲間なのだなと笑い合った。

2時間余りがたったが、結構いい気分になってしまった。

(そのいい気分は、今朝は二日酔いを感じるほどになってしまったのだが。)

最後に会計となったが、3人で1人3,000円もかからず、まさにお得感たっぷりであった。

 

またすぐにここで飲み会をやろうとは思わないが、Iさんの冒険心(?)から楽しいひとときを過ごせたのであった。

店員たちは、おかしな年寄り客たちだと思ったかもしれないな(苦笑)。

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高齢化の進む住宅街

2024-08-27 17:55:26 | 生き方
数年前まで、町内会のわが家の組は、9軒で成り立っていた。
回覧板を回すにも、どんなに長くてもおよそ5日間もあれば、回り切っていた。
手ごろで(?)ちょうどいい規模だなあと思っていた。
ここはもともと農地、つまり田んぼだった。
それが埋め立てられて、住宅地になった。
それでも、わが家のある場所は、造成されたのは他よりも遅かった。
袋小路を挟んで、向かい合って3軒ずつの住宅。
そして、わが家のある片側では、かつてのあぜ道を挟んでやはり3軒が建っている。
それで9軒が建っている。
町内会の組長の仕事も、9年に1度やればいい、という周り順だった。
そうやって、30年余り仲良くやってきた。

ところが、近年、事情が変わった。
・高齢化に伴い、Aさん宅ではご主人が亡くなり、その奥様が独り暮らしを続けていたが、老齢化して娘の住む県外の老人施設へと移っていった。
・Bさん宅のご夫婦は、町内会でも重職にあった方だったが、実家が空いてしまったとの理由で、ここの家を売り、引っ越していってしまった。
・Cさん宅のご主人は、80代後半になっても元気にしていて、側溝掃除では重い側溝のふたを自力で持ち上げたり、冬の降雪時には朝早くから雪かきをしたりしていた方だったが、2年前に亡くなられた。
その奥様も、その1年後、後を追うように逝ってしまった。
・Dさん宅は、高齢夫婦となって回覧板を回すもの大儀だからという理由で、町内会費は払うが回覧板はいらない、と言うようになり、付き合いが減った。
現在、町内のこの組は、半減に近い5軒となり、それでやりくりするようになっている。
回覧板が回ってくるのも早くなって、2日もあれば十分だ。
組長の仕事が回るのも、数年ですぐに来る。
先日の町内祭りの巡行で町内を歩いて回ってみると、かつては住宅が建っていた土地なのに、今や雑草が生い茂ったり、「売地」の看板が立っていたりしているのが目立った。
みんな、若いときには、家を建てるということを夢に見て働き、住宅ローンを払って、がんばって建てた家だっただろうになあ…と思う。
そして、子どもたちを育て、その子どもたちが巣立っていき、戻って来ない…。
みんなどこの家もそんな事情なのだろうなあ…。
きっと、こんな地域は今の日本ならきっと各地に見られていることだろう。

この住宅街、そしてわが家も例外ではないなあ…。
そう考えると、この家にたまった過去の遺物や不要なものを、体が動くうちに片付けないと、と思う。
「終活」にもっと身を入れなくてはいけないな、と考えるこの頃でもある。
なんかせつないなあ…。
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無常。 人も建物も…

2024-08-14 18:00:50 | 生き方

盆の時期を迎え、墓参り。

1年過ぎるのが早い。

以前は、墓の前で手を合わせ、亡くなった親族への思いを寄せていたものだった。

しかし、それだけでなく、近ごろは自分らも遠からずここに近づくのかな、という気持ちになってしまう。

その前に立ち寄った菩提寺の13回忌の貼り紙を見ると、かつて世話になった、地域の名士の方の名前があった。

17回忌には、私より若いのに亡くなった親戚の名前もあった。

たしか、このブログを初めてそんなに経たない頃に、その死に驚いたことがあった。

 

50歳。早すぎる知り合いの逝去に思う - ON  MY  WAY

私は、50代を生きているが、私より3歳ほど若い知り合い(男性)が、突然倒れ、その1週間後亡くなった。今日は、その告別式があった。遠い親戚として知っているだけなので、...

goo blog

 

あれから、16年もたつのか…。

私の生まれ故郷の彼らが亡くなってから、そんなに経ってしまったのか…。

人の命の炎はやがて燃え尽きる。

そう分かっていても、なんだか虚しさがこみ上げてくる。

 

そんな思いでいたら、すでに廃校となっていたわが母校の小学校も、まもなく解体されるのだという。

立ち寄ってみたら、解体工事の看板が設置されていた。

校舎はカビや汚れでうすぎたなくなっていた。

 

思えば、この建物は、私が小学校5年生のときだから、1968年に新築されたものだった。

それから今では、半世紀以上が経ってしまった。

すでに、少子化等の事情から、2002年に閉校となってしまった。

それ以来建物はずっと残されていたのだが、いよいよ解体の運びとなってしまった。

この校舎の向かって手前右側には、体育館と呼ぶには狭すぎる運動場があった。

手前の校庭スペースには、最下位を走るばかりのつらい運動会の記憶が残っている。

また、自分がいじめにあっていた、ひどくいやな記憶が残る小学校の建物だとはいえ、そこに私の小学校時代はあった。

いやな記憶ばかりでも、ここで少年時代を過ごしたから、今の私がある。

 

建物がなくなってしまうのは、やはりさびしい。

存在がなくなってしまうのは、人も建物も同じなのだな…。

永遠に不変なんてものは、ない。

 

「無常」。

そんな言葉を思い出していた、今年の盆である…。

 

 

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