ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

同級会の準備を始めなくては…から一歩前進

2024-06-03 21:33:25 | 生き方
さてさて、そろそろ開催に向けて準備を始めなくちゃな…。
なにしろ、8年ぶりになってしまうから…。
この話題について書いたのは、もう4年も前のことになってしまうのだ。
齢をとると、年月の過ぎ去るのが本当に早い。
準備しなくてはと思いつつ、この2か月余り、COVID-19などの感染症に苦しみ、そのことについて考える余裕がなかった。

何の準備かといえば、4年前のこの記事を読んでもらえば分かってもらえるかな?
そう。幹事として高校時代の同級会をしなくてはいけないのだ。
高校時代の同級会は、いつからか4年に1度、オリンピック・イヤーに開催するのが慣例になってしまった。
ずうっと幹事をやってくれていた「永年幹事」のM氏が最後に幹事を務めたのは、2012年のロンドン五輪の年だった。
その翌年、彼は亡くなった。
亡くなる前に、住所が書かれた名簿一覧を私に寄越して、「オレの次の幹事は、お前」といった言葉は、遺言になってしまった。
Mの遺志を継ぐしかないな、と思い、幹事としてリオ五輪の年に「還暦記念」の同級会を企画実行した。

そして、前回の東京五輪。
2020年も2021年も、COVID-19感染症のパンデミックの真っ最中であった。
だから、メンバーには、残暑見舞いの形で開催延期の知らせを送り、実質的に中止せざるを得なかったのだった。

「この感染症が収束するまで延期したいと考えておりますが、いかがでしょうか?
この難局を乗り越えたときに、ご案内を差し上げたいと思っております。」
と書いてから、あっという間に4年がたってしまった。
その間に私たちは年金受給者=高齢者のカテゴリーに入ってしまった。
高齢者はまだ注意が必要、と言われても、世間的にはもう全面的に自粛は解禁されている様相だ。
さすがにパリ五輪の今年は、同級会を開催しなくてはいけないだろう。
だけど、一人で企画するには心細い。
そう考えて、今日は身近で信頼できる同級生の一人に会って、同級会について相談に乗ってもらった。

二人であれこれと話し合った。
・毎回だいたい盆の時期に行ってきたが、盆の時期はむしろ忙しいのではないか?
→別な時期の開催も考えてみたい。
・毎回高校のある町(市)で開催してきたが、現住所が市外にある人の方が多い。親が亡くなって泊まれる実家がなくなった人も多いのではないか?
→宿泊できるホテルの多い新潟市などを開催地にしてみたらどうだろう。
・だいたい夜の宴会を中心に開催してきたが、夜遅いと帰れなくなる人もいるのでは?
→夕方より前に始めてはどうだろう?

自分と同じような考えをもっているのだなあ、と思い、やっぱり相談してよかった、と思った。
まだ詳しいことが決まっていないが、一人でくよくよ悩むより、二人で考えを出し合うのが大事だな、と改めて感じた。
8年ぶりの同級会開催に向けて展望が開け、1歩前に進んだ感じ。
体が少し軽くなった気がした。

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5月15日に思う

2024-05-15 14:19:37 | 生き方

5月15日。

目覚めてから、この日は何か過去に大きな出来事があった日だったよな…。

そうだ、自分の頭の中には3つくらいのことが浮かんだ。

 

1つめは、少し古くなったできごとから。

5月15日、5・15、五・一五…と数字を並べて思い出したのは、歴史的事件。

五・一五事件。

1932(昭和7)年5月15日、武装した陸海軍の青年将校たちが反乱を起こし、総理大臣官邸に乱入し、時の内閣総理大臣・犬養毅氏を暗殺した事件だった。

当時は、3年前に起こった世界恐慌の影響で、日本でも大不況の煽りを受け企業の倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。

そんな状況下で、政党や財閥を倒し, 軍部中心の政府をつくろうとしたために起こったのだった。

襲撃を受けたのは、首相官邸ばかりではなく、日本銀行・警視庁・変電所などもあった。

この事件以降、軍部がさらに力を強めていったのであった。

そして、日中戦争、太平洋戦争と、戦争の泥沼の中に日本は突っ込んでいった。

 

2つ目は、沖縄の本土復帰記念日だということ。

沖縄は、戦争中、全国の中で唯一アメリカをはじめとする連合国軍が上陸し、民間人を巻き込んだ戦いが行われた場所であった。

そしてその戦争後、沖縄は長くアメリカ軍の統治下におかれた。

ようやく本土復帰を果たしたのが、戦後28年もたってからの1972年5月15日だった。

あの当時、人気アイドル歌手として活躍していた沖縄出身の南沙織が週刊誌の表紙を飾り、本土復帰についてのインタビュー記事が載っていたのをよく覚えている。

実は、私らの新婚旅行の行先は沖縄で、行ったのはその10年後の1982年の5月のゴールデンウイーク期間だった。

空港などで、「本土復帰10年」という文字が多少見られたかな、という覚えがある。

その旅行の際には、かつて戦場となって、いまは慰霊碑が立つ摩文仁の丘を訪れたりもした。

碑には戦争で犠牲になったたくさんの人の名前が刻まれていた。

案内するタクシーの運転手が、戦争のことにはあまり話題に触れようとしないで、本土から来た新婚さんを「ここで写真を撮りましょう」「ここもいい写真が撮れますよ、笑ってください」などと言っていた。

だが、鎮魂の場所だけに、私らは平気で笑顔を作ることなんてできず、ちょっとむっつりした顔で写るしかなかった。

今にして思えば、地元の運転手にとって、「どうせ本土から来た新婚さんなんて、沖縄人の悲しみなんかわからないでしょう。遊び半分で来たのでしょうから、記念写真でも撮ってお帰りください」と、そんな気持ちだったのかもしれない。

それからさらに41年がたち、今日で復帰から52年を迎える。

去年の玉城知事のメッセージの中には、

「復帰後51年を経た現在もなお、国土面積の約0.6%である本県に全国の米軍専用施設面積の約70.3%が集中しており、県民は米軍基地に起因する騒音や事件・事故、環境汚染の問題など、過重な基地負担を強いられ続けています。

さらに、普天間飛行場の辺野古への移設については、県民の理解が得られないまま工事が強行されている状況にあります。」

という内容があった。

本土の人たちからすれば、離れて遠いことから、「自分ごと」ととらえる感覚が鈍いような気がする。

不穏な世界状況を考えると、日本人として誰でももっと沖縄のことを考えていかなければいけない、と思う。

 

最後の3つ目、今日はJリーグの日。

1993(平成5)年5月15日、日本初となるプロサッカーリーグJリーグが開幕した。

大きなJリーグのマスコットキャラクターが、セレモニーでぐんぐんふくらんで大きくなっていったのは、今もよく覚えている。

その開幕戦は、ヴェルディ川崎対横浜マリノスだった。

その試合は1対2で横浜マリノスが勝利を収めたのだった。

当時は10チームしかなかったが、その後、「Jリーグ百年構想」に基づいて、全国各地に「おらがチーム」ができ、今はJ1・J2・J3のリーグで、各20チーム、合計60チームが戦いを行っている。

開幕した頃は、「いつか新潟にも、Jリーグのチームが…」と思っていたら、その後10年余りでJFL➡J2➡J1とカテゴリーを上り詰めたチームが誕生した。

それが、「アルビレックス新潟」だった。

 

そのアルビレックス新潟が、Jリーグの日である今日5月15日に、奇しくも31年前にJリーグの開幕戦を戦った横浜F・マリノスと試合を行う。

歴史を積み重ねたマリノスは、先日ACLの決勝第1戦で2-1と見事に逆転勝ちを収めた。

現在アルビレックス新潟は故障者も多く、苦戦が予想されるが、今夜の試合はホーム戦だ。

なんとか、いい試合を見せてほしい。

そう期待している。

 

5月15日。

首相の暗殺事件があったり、戦争からの復帰を果たしてもまだ残る課題があったりと、心に留めておかねばならないことが起こった日である。

そんな中で、Jリーグの試合が行われるのは、日本が平和だからだということも思う。

その平和が永久に続くことも、世界中が平和であることも、願わずにはいられない。

そんなことを考えた、今年の5月15日…。

 

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5,6年ぶりの酒を伴う懇親会

2024-05-13 21:30:31 | 生き方

何年ぶりだろう。

懇親会と称する宴会、つまり飲み会に参加したのは。

この4月からある団体に週1くらいのペースでお世話になっているのだが、そこでも宴会はずうっとやっていないということ。

宴席では、そこで6年目を迎えた方と隣だったが、その方の言うには、自分が入ったとき以来の酒を伴う会だとのことだった。

ということは、前にこの会が行われたのは、令和元年だということだ。

酒を伴う懇親会なんて、本当にしばらくやっていなかったから、多少はしゃいでしまった。

もっとも、今日はその会の幹事の一員だったから、盛り上げようとしたのだけれどね。

懇親会。

こんなだったねえ。

ビールを注ぎ合う間に言葉を交わし、見つかる話題の共通点に驚く。

特に、この年齢まで来ると、だいたい知っている誰か一人を間におくと、縁がないと思っていた人とつながってしまう。

例えば、その人のお姉さんが先生だとすると、親戚の子がそのお姉さん先生に教わっていたりする。

今のこの団体とかかわりのある外部からのゲストが、息子が以前働いていた職場の上司だったりする。

そんなことが、酒間の話で分かってきたりする。

人の縁は面白い、そう思ってしまう。

以前は、「宴会なんて堅苦しいばかりで面白くない」と思っていたけれども、今夜は「たまにはいいもんだ」と思った。

体調が不安なので気をつけて飲んだこともあって、具合が悪くなることはなかった。

飲み過ぎた年輩の輩が、送りのマイクロバスが出発してから気付いたため、マイクロバスがUターンしてもう一度迎えに行くというハプニングもあったが、まあご愛嬌と笑うことができた。

 

とにかく、私にとっては6年ぶりくらいの酒を伴う懇親会を、自分でも意外に楽しんだ今夜であった。

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観戦強行➡体調不良の継続

2024-05-04 19:38:36 | 生き方

無理しちゃいけない、というのはわかっているけどね~。

新潟のローカルNSTで試合をライヴ放送してくれるというのもわかってはいたけどね~。

やっぱり、どうしてもホームでの選手たちが戦っている生の姿を見たかったんだ。

前夜も夜中37.9℃の発熱はあったのだけれど、朝は37.1℃に下がっていたんだ。

朝食後は36.7℃だし、咳は出ていても、やっぱり大丈夫だと思うじゃないか。

それで、アルビレックス新潟のサンフレッチェ広島戦を見に行くことを決めたんだ。

家人に対して、それに行くくらいなら、体調は普通と変わりませんよ、という雰囲気を出したくて、午前中早い時間に家じゅうの掃除機かけや玄関掃き、生け垣の下の落葉掃き、ベランダへの布団干しなどをてきぱきとこなし、がんばってしまった。

 

いざ出発してみると、まだ体力が元に戻っていないせいで、車の運転は大丈夫でも、指定駐車場からスタジアムまでの1kmくらいの歩きが正直しんどかった。

試合中は、さすがに元気に観戦したのだけど(試合中は元気が出るような展開ではなかったけどね)、途中から陽射しが当たるようになり、元気なつもりでも病人にはちょっときつくなってきたのだった。

新潟がレッドをもらって10人になったうえ、広島に先制されたあたりからは少しだけだるく、頭痛の芽が出てきたような気もした。

それでも、乾坤一擲の高木の同点ゴールで、気分が高揚して以降はハイな気分で帰ってくることができた。

少しだけ帰りの車の運転がだるいなとは思ったのだが。

 

家に帰って夕食をとってから、風呂に入る前にこのブログ更新作業をやっていたら、なんだか熱っぽくなってきた。

まさかと思って体温を測ると、げげげの38.1℃。

また出たか!?と、化け物でも見たような気分。

咳に加え頭痛もひどくなってきたのだが、医者からもらった薬は3日分だったから、その日の朝なくなっていた。

仕方なく市販の頭痛薬を服用し、風呂に入らず寝ることにした。

 

寝たはいいが、日付が変わった頃、薬のせいで熱は収まった感じだった。

だが、のどが痛くなる。夜どおし咳が出て苦しんだ。

水を飲んだりのど飴をなめたり、この夜もいろいろしたがぐっすり眠れないまま。

とにかく今回は、夜ぐっすり眠れたことがない。

そのせいで、朝起きるころ薬の効用が切れたのか、また熱が出始めて37.2℃。

 

今日は、一日中、すっきりしなくてゲホゲホと咳込んだ一日だった。

連休で医者も休みだし、おとなしく過ごすことしかできない。

この咳が解消するのはいつになることやら。

そして、夜中に発熱しなくなるのはいつになるやら。

ここんとこ毎晩、熱や咳が出ていて眠れないのが普通になっているからなあ。

 

こんなふうに、昨日のアルビの試合観戦強行は、体調不良の継続になってしまった。

試合で新潟の選手たちのがんばりにふれ、こんな体調不良に負けてられない、と思えたのだ。

これでもし昨日の試合がドローでなく敗戦で終わっていたら、今日は立ち上がれなくなっていたかもしれないな、たぶん。

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眠りたいのに

2024-05-02 21:46:47 | 生き方

「眠れない夜」は泉谷しげるで、「眠れぬ夜」はオフコースだったな。

そんなことを思っているうちは、まだよかった。

だが、夜が明けてしまったときには、さすがにあせった。

 

昨夜は、ほぼ平熱に戻って、やれやれよかったなあと思いつつ、風呂に入り10時過ぎに寝床についた。

明日はもっと体調がよくなるだろうから、あれもしたいこれもしたいといろいろ考えたが、とにかく寝ようと決めて消灯したのが午後10時16分。

ところが、なかなか眠くならない。

日中昼寝をしたからだな、と考えて眠くなるのを待った。

ところが、やっぱり眠くならない。

風呂に入って温まったはずなのに、どうも足先が冷たい。

靴下をはき、大ぶとんに加え、毛布を1枚追加した。

それなのに、背中も寒く感じるようになって、仕方ないな病気療養中だから、としまってあった電気毛布を取り出して低温で使うことにしたのが、11時半頃。

何分かでその効果が表れ、体の寒さはなくなってきた。

やっとこれで眠れるかな、と思い、眠くなるのを待った。

だが、いっこうに眠くならない。

仕方がない、羊でも数えるか、と「1,2,3…」とゆっくり数を数えていった。

ところが、やっぱり眠くならない。

もう時計は12時6分、真夜中を過ぎていた。

仕方がない、もう1回トイレに行っておくか。

小用を足し、寝床に戻ってふとんをかぶり、

「そのうちなんとかなるだろう」と、植木等の歌い文句を唱えつつ、横になって2時間も経つのだから、そろそろ本当に寝たいなと思った。

ところが、1時を過ぎて今度は2時も過ぎてしまった。

草木も眠る丑三つ時というのに、臭木じゃない私は眠れない。

それどころか、今度は熱さを感じるようになった。

電気毛布のスイッチを切り、かけた毛布を蹴飛ばしてふとんの外に出し、靴下を脱いだ。

それでも熱いって、まさか…。

まさかと思い、体温を測ると、

「なんじゃ、こりゃあ~。」と、今度は「太陽にほえろ」の松田優作が演じたジーパン刑事のセリフが出た。

熱が、38.4℃もあった。

またまた夜中に発熱したのである。

薬も飲んでいるのに、毎晩、毎晩…「なんでとこうなるの?」と今度は萩本欽一が飛び出した。

 

3時前後には近所で、車庫のシャッターを開けて朝から仕事に出るような音や、早い新聞配達のバイクの音も聞こえた。

ずっと眠れずに寝床にいるから、腰が痛くなってきた。

何度も寝返りはうったのだが、横になっていること自体が苦痛になってきた。

3時半を過ぎ、体温はやはり、38℃を超えている。

4時を回ると夜明けが近い。

4時26分、早起き鳥の鳴く声が、朝が来たことを告げていた。

「だめだ、こりゃ」いかりや長介のあの決めゼリフが頭の中を回っていた。

 

今まで、寝ようと思ってふとんに入ってから眠れないことは数々あったが、こうして朝が来るまで眠れなかったことはなかった。

眠りたいのに眠れないことは、こんなにもつらいことなのかと、うちの母を含めた高齢者が医師に眠剤を出してもらうのをよく見ていたがその理由が分かるような気がした。

なにしろ、眠ろうと思ってふとんに入って目をつぶってから、もう7時間近くがたち、明るくなって5時を過ぎていた。

5時を過ぎて、ふっと意識がなくなった時間ができた。

わずか5,6分くらいの短い時間だったが、「あ、今の自分、少し眠れた!」と思った。

すごくうれしかった。

こんな短いうたたねがうれしいなんておかしいよな、と思いながらも、満足した。

 

だが、やはり7時近くまで眠れず起きることにした。

体の具合が悪いなら、普通は眠れるものだろう。

ましてや熱まで出てるのに。

それなのに、目がさえて眠れないって、この不調ってどういうこと?

 

不思議なもので、朝になって体温が下がり、朝食後は36.7℃に落ち着いた。

午前中は眠れなかったが、午後に1時間半余り昼寝ができたときには、ホッとした。

 

すみませんね、こんなバカみたいなブログ読んでいただいて。

でもね、また夜が来てしまったのです。

夜、寝るのが怖く感じる、発熱の数日間、そして昨夜の不眠体験なのであります。

さて、今夜は…???

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子どもの頃もよく熱を出していたことを思い出し…

2024-05-01 20:40:46 | 生き方
昨夜も高熱に苦しんだ。
薬は飲んでいても、1,2回の服用では効かないのか、夕方以降もずっと38℃台の熱が続いた。
夜中、寝ていても熱さで2時間おきくらいに目が覚め、熱を測ると38.9℃だとか38.6℃だとかが続き、一番高いときで39.4℃まで上がった。
さすがに、三晩も続けてしっかりした睡眠がとれないのは、きつい。
 
それにしても、寝込んでから治って、また1か月で寝込むなんて。
こういう生活って、子どものとき以来だなと思いながら寝ていた。
そう、子どもの頃の私は、体が弱かった。
特に、小学校低学年の頃には毎月のように熱を出し、医者の世話になっていたのだった。
そのたびに、3㎞ほど離れた医者から往診してもらい、よく注射をしてもらったものだ。
あの頃は、尻に注射を受けるのが普通だった。
尻だと目に見えないから、子どもの私にとってまだよかったけどね。
一度熱を出すと、回復までにだいたい3日くらいはかかったのだった。
今思うと、本当に母には迷惑をかけたと思う。
寝床のひ弱な私の様子を気遣ってくれていたことを思い出す。
食事もおかゆにしてくれたり、水枕を何度も取り換えてくれたり、缶詰の桃を食べさせてくれたり、いろいろしてもらったなあ…と思い出す。
あの頃の水枕のチャプチャプした感じは、今も皮膚と音の感覚で簡単によみがえるほどだ。
医者への連絡だって、あの頃は全家庭に電話があったわけではないから、電話がある家まで行って電話を借りてかけたのだろう。
そんなおかげで、息子はこうして67歳まで生きている。
父は、若いころ血の気盛んだったらしく16,17歳で志願兵となって訓練を受けた過去を持っていた。
だから、強く育てようとそれなりに厳しく私に当たっていた。
だが、ただでさえひ弱な私が、小学校高学年でいじめにあっていると知ってからは、その厳しさは少なくなった。
そんな父にはひ弱な息子で申し訳なかったが、今は父の享年より11年も多く生き続けている。
父は定年退職を全うできなかったが、私はそれをできてから、早くも何年もたった。
今生きていられるのも、あの両親のおかげなんだよなあ、と改めて思った。
熱のおかげで(?)、改めて両親のことを思い出す機会となった。
 
さて、なかなか下がらない熱だったが、今日は朝の38.3℃からしだいに熱が下がってきた。
このまま平熱に落ち着くことを期待しよう。
(代わりに咳がひどくなってきた…⤵)
 
 
 
 
 
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逆戻り!?

2024-04-30 16:37:37 | 生き方

逆戻り。

いや、逆戻りではないのだが、感覚的にはそんな感じ。

熱が出た。

昨夜の夜中から38.3℃の熱を記録し、一晩中寝つけなかった。

最初は、寒くて震えが来たのだが、その後は体じゅうが熱くて熱くて…。

 

なんでこうなった!?

ひと月前にCOVID-19感染症陽性となり、あれだけ苦しんだのに、またこんな短いスパンで再び同様な症状に陥るとは…。

思い当たるのは、土曜日のサッカーの試合観戦。

隣に座った方が言っていた。

「この1週間、体の調子がよくない。夜中になると熱が出てよく眠れない。のども痛いから、声がかすれてお客さんと対面で話が満足にできない。仕事にならない。」

…へえ~、そうかあ、大変だねえ。

と、そのときは相槌を打つだけで済んだのだ。

だが、試合を見ながら彼は、マスクはしていたが、プレーについていちいち口にしていたから、うつっされたのかもしれない。

現に、この症状、夜中になると熱が出る、のども痛い、よく眠れない…これらは、彼が言っていたのとまったく同じものだ。

観戦で感染するとは、いかんせん…(熱でうなされております)。

ひと月前にCOVID-19感染症を経験していたから、少し油断があった。

 

仕方がないので、また近所の医者を予約して受診してきた。

発熱外来は、一般の患者と分けて診察してくれている。

医者は、COVID-19感染症にかかったのなら、3か月くらいは耐性があるはずだから、今回はそれではないでしょう、と言った。

じゃあ、インフルエンザか?と思い、検査してもらった。

だが、インフルエンザは陰性の反応が出た。

ならば、この症状は何が原因なのだろう?
わからないまま、医者は、3日分の解熱・鎮痛剤を処方してくれた。

 

医者で熱を測られたら、37.1℃まで下がっていたのに、家に帰ったら寒気がして、再び熱は上がった。

やっぱり38.3℃になっていた。

昨夜眠れなかったから、2時間余り寝たが、体が熱くて目が覚めた。

熱は変わらず38.3℃、頭も痛い、全身がだるい…。

しかしまあ、体が弱くなったなあ。

先月といい、今回といい…。

 

そんなわけで、今日はこれまで。

まだ夕方前だけど、おやすみなさい…。

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土の庭で春の花を楽しむ

2024-04-26 20:44:43 | 生き方
住宅街では、当初この地に家を建てた親世代から、次の子世代になって、改築する家も多くなった。
昔ながらの木造の家が、現代風の家に変わっていくのは、オールド世代としては少しさびしい気もするが、家を継ぐ者がいなくて家も土地も荒れ果てていくのよりはうんといい。
新しくなった建物には何も言うことがない。
だが、建物以外のスペースを見ると、多くの場合、がっかりする。
その理由は、ほとんどがコンクリートやアスファルトでおおわれて、なんとも無機質な感じだからだ。
大概は自家用車を止めるスペースが必要だからということで固めてしまうのだろう。
だけど、車を止めても余るスペースがあるのに、土が見えなくしてしまっているのは、どうもなあ…。
土が見えない方が、草は生えてこないから、庭の世話も必要ないだろう。
だけど、コンクリートやアスファルトの土地には生物の命が感じられない。
見ていて味気ないことこの上ないなあと思うのである。
まあ、確かに初夏から晩秋まで雑草の除草に追われるのは、仕事をもっている人にとっては無為に時間が消費されてしまう感覚になるだろうけど。
 
わが家の場合、除草は生前の母ががんばってくれていたし、今はだいたい妻を中心に少し私がやるというような状況である。
でも、植物が生える土の庭があるから、季節の移り変わりを感じることができる。
今の季節、春の庭は、次々に様々な種類の花が咲く。
今までロウバイ、ヒマラヤユキノシタ、レンギョウなどが咲き終わったが、
ハナモモ
チューリップ
スイセン
スノーフレーク
プリムラ
ハナニラ
オキナグサ
…などの花が、今は庭を彩っている。
 
その花たちを眺めているひとときは、ほっとする時間だ。
生える雑草もまだ大量でないから、草取りにかける労力も少なくすんでいる。
 
イチゴやオダマキ
スズランの花も咲き出したし、シランやシャクヤクの背も伸び出したからやがて咲くだろう。
 
手入れの大変さはあるが、土の庭に育つ植物たちの花や育つ姿を、これからも楽しんでいきたい。
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3月31日の夜

2024-03-31 20:27:14 | 生き方

3月31日。

年度がわりの旧年度最終日。

生活が明日から変わる、大半の人たちは、明日からの新しい生活に備えて、多少の不安の中で今を過ごしているに違いない。

現職時代の自分もそうだったなあ、と思う。

そんな3月31日の夜を迎えている。

 

昔、明日から違う職場に行くというのに、片づけや整理の苦手な自分は、勤務時間終了となっても、職場からなかなか帰れなかった。

計画的に物事を進められる人たちと違って、目の前の仕事をまだがんばってしまうのだった。

目の前の仕事の後任者にとって、よいようにと思いながらやっていると、あれもこれもとやることが増えてくるのだった。

それが逆に、周囲の同僚の仕事を増やす結果になったりして、申し訳ない思いになったことも多かった。

まあ、定年が近づく年齢になって、それはようやく解消することができたけれど…。

 

それでも、4月1日に新しい職場に行くということを考えると、若いときも年齢を重ねてからも、心の緊張は止められなかったなあ。

新しい職場で、新しい人間環境になり、新しい人々とうまくやっていけるだろうか…なんて心配しながら夜の床についたものだった。

そんな3月31日の夜の思いがあったことも、しばらく忘れてしまった。

定年退職から7年。

再任用退職から5年。

最後の再勤務から3年。

それだけ経ったのだなあと、改めて思っている。

 

 

退職後、あと働くことはないだろうとは思った。

だから、ブログぐらい毎日続けてみようか、と思った。

このブログが、ほぼ日刊でこの7年間やってこられたのも、定年を機に「できるだけ毎日続けてみよう」と内心思ったればこそ。

まあ、いろいろな方のブログやSNSを見ると、自分のセンスないなあと思うことの多き日々ではあるが、まあ悔いても仕方がない、前に進むのみ。

 

仕事とは言えないが、明日から毎週月曜日だけは、ある団体の手伝いで日中でかけることになった。

自分自身、ちょっぴりだけ生活に変化が訪れそうだと思ってはいる。

 

ともかく、明日から新しい生活が始まる皆さん、自分らしくがんばってください。

今までも、自分の道は自分で切り開いてきたんだから、明日からも大丈夫。

あなたらしく、前を向いて進んでいってくださいね。

 

 

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今後の対応、再確認

2024-03-27 20:27:10 | 生き方

どうやら熱は平熱が続いているから、ちゃんと快方に向かっているようだ。

とはいえ、時々変な頭痛に悩まされるし、ひどい咳が出ることがある。

夜寝る時だって、マスク生活は継続せざるを得ない。

マスクのかけ過ぎで、ゴム部分が当たる両耳が痛い。

医者に3月28日いっぱいまで外出禁止と言われたが、その日がようやく明日だ。

 

さて、約1年前にこの感染症が5類感染症に移行してから、感染症法に基づく外出自粛は求められなくなった。

とはいえ、やはりほかの人に迷惑をかけたくないので、今後の対応について少し確認しておくことにした。(以下、厚労省のHPから抜粋)

Q1:新型コロナウイルス感染症は、他の人にうつすリスクはどれくらいありますか?

 新型コロナウイルス感染症では、鼻やのどからのウイルスの排出期間の長さに個人差がありますが、発症2日前から発症後7~10日間は感染性のウイルスを排出しているといわれています(参考1)。

 発症後3日間は、感染性のウイルスの平均的な排出量が非常に多く、5日間経過後は大きく減少することから、特に発症後5日間が他人に感染させるリスクが高いことに注意してください(参考2)。

 また、排出されるウイルス量は発熱やせきなどの症状が軽快するとともに減少しますが、症状軽快後も一定期間ウイルスを排出するといわれています。

 …なるほど。今の時分は症状軽快中だが、まだウイルスを排出している可能性が高いということか。

 

Q2:新型コロナウイルス感染症にかかったら、どのくらいの期間、外出を控えればよいのでしょうか。

(1)外出を控えることが推奨される期間

・特に発症後5日間が他人に感染させるリスクが高いことから、発症日を0日目として5日間は外出を控えること、

…そうか。それで受診した日は0日目扱いだったのだな。(今さらながら、その真の意味を知った)

かつ、

・5日目に症状が続いていた場合は、熱が下がり、痰や喉の痛みなどの症状が軽快して24時間程度が経過するまでは、外出を控え様子を見ることが推奨されます。症状が重い場合は、医師に相談してください。

(※1)無症状の場合は検体採取日を0日目とします。

(※2)こうした期間にやむを得ず外出する場合でも、症状がないことを確認し、マスク着用等を徹底してください。

…まだ自分には、残る症状があるから、気をつけないといけないというわけだ。

 

(2)周りの方への配慮

 10日間が経過するまでは、ウイルス排出の可能性があることから、不織布マスクを着用したり、高齢者等ハイリスク者と接触は控える等、周りの方へうつさないよう配慮しましょう。発症後10日を過ぎても咳やくしゃみ等の症状が続いている場合には、マスクの着用など咳エチケットを心がけましょう。

…はい。それはもちろんであります。

 

Q3省略

Q4:家族が新型コロナウイルス感染症にかかったら、どうしたらよいですか?

 ご家族、同居されている方が新型コロナウイルス感染症にかかったら、可能であれば部屋を分け、感染されたご家族のお世話はできるだけ限られた方で行うことなどに注意してください。

 その上で、外出する場合は、新型コロナにかかった方の発症日を0日として、特に5日間はご自身の体調に注意してください。7日目までは発症する可能性があります。こうした間は、手洗い等の手指衛生や換気等の基本的感染対策のほか、不織布マスクの着用や高齢者等ハイリスク者と接触を控える等の配慮をしましょう。もし症状が見られた場合には、Q2をご覧ください。

…うーん、現にこうして家族に迷惑かけているわけだ。

自分でも家の中で引きこもるのはつらいが、家族に余計な負担をかけているのが面目ない。

 

今後の予定では、30日(土)には、アルビレックス新潟のホームゲーム、対柏レイソル戦がある。

4月からは毎週月曜日に、1日ある団体のお仕事にかかわることになっているのだが、来週月曜日は4月1日。新しいことが始まる日だ。

冷静に判断していかないと、周囲の人々に大迷惑となる。

十分認識しながら行動していかないといけない、自戒しよう。

 

 

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