静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

瞋恚の炎

2009-12-26 22:43:54 | Weblog
 昔、ある所に正直一徹な女中があって、よく主人に仕えていた。その主人は炒り豆が好物で、炒り豆作りは彼女の日課の一つであった。ある日、彼女が炒り豆を作っている最中、ふとした用事でその場を離れると、飼っていた羊が、これ幸いと盗み食いをしてしまった。

 そうとは知らずに、女中がそのまま主人に持っていくと、いつもより炒り豆の少ないことに気がついた主人は、女中が盗み食いしたに違いないと決め込み、その場で女中を叱りつけた。

 女中は一向身に覚えのないことだから、いろいろと弁解したが、かえって主人は怒るばかりで、ちっとも言い分を聞こうとしない。女中も仕方がないので、その場はとにかく頭を下げて許してもらったが、腹の虫はなかなか治まらない。正直一徹の女であるから、余計にむしゃくしゃしたのであろう。彼女は羊の姿を見るたびに、「ああ、この畜生さえいなかったら、こんな濡れ衣を着なくても済んだのに」と、腹が立って仕方がない。このような思いが段々募ってくると、彼女はとうとう羊を目の仇のようにしはじめた。そして主人の目を盗んでは、手当たり次第に羊を叩きつけた。

 羊もはじめは身に覚えがあったので、そのたびにコソコソと逃げていたが、しかしあまりに苛められるので、しまいには女中を恨むようになり、いつか機会があったらこの恨みを晴らさねばと思うようになった。

 ある日のことである。女中が火を運んでいたところ、今こそ絶好の機会と思い、「今までの仇を思い知れ」とばかりに女中に突きかかった。女中は驚いて火をひっくり返したからたまらない。皮肉にもその火は羊の背中に燃え移り、消そうとしてあちらに突き当たり、こちらに突き当たりして村中を狂い回った。そのため、火はあの家この家に燃え広がり、はては山にまで移って大火災となり、おびただしい死傷者が出て村のほとんどが壊滅した。おまけにこの山火事で、500匹に近い猿が逃げ場を失って死んでしまったという。


 これは経典に出てくる話ですが、何となく読めば、一篇のお伽噺にしか聞こえないかもしれません。しかし、この話の中には、瞋恚(【しんに】……怒り)の心がどんなに恐るべきものか具体的に示されています。怒りの心そのものは見ることはできませんが、もしそれを象徴的に一幅の絵巻物として書いたならば、この物語の通りでしょう。どんなに長い間かかって造り上げた建物も、火の前にはたちまち灰燼に帰してしまうように、どんなにして積み重ねた善根も瞋恚の炎の前には一瞬に焼き尽くされてしまいます。

 昔、大乗法師が40年続けた法華経読誦の功を、一念の瞋恚によって失ってしまったということは有名な話です。女中と羊の間に生じた瞋恚の炎が一村を全滅させ、500の猿を殺したということは決して誇張した話ではありません。

 怒りの心は自分より目上の者に対しては恨みの相となってあらわれ、目下の者に向かっては憤りの行為となってあらわれます。しかもその波及するところは際限がありません。夫が妻を叱れば、妻は下女にあたる。下女はやむなく罪もない子供にあたる、という風に、それはただ空間的に横に広がっていくだけでなく、竪に時間的に永続し、現在の怒りは未来永遠に纏綿(てんめん)として我が身の上に続いてゆきます。

 そんな火種がだれの心にもくすぶってはいないでしょうか。火種自体は小さくても、それが何かに燃え移ればたちまち山をも焼き払ってしまうのです。

げに恐ろしきは怒りなり。

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