五つの不思議の中に、業力不可思議というものがあります。自分のやった善悪の行為は、善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理に従って、厳粛に相応した結果をもたらすということです。
このことが、今日の浄土真宗ではさっぱり説かれない。それどころか、因果の道理を説いて、その上で善を勧めると、非難される有様です。
もちろん非難する人たちも「因果の道理」くらい知ってはいるのでしょうが、まるで他人事か、あるいは一つの考え方、くらいのとらえ方で、信じてはいないのだと思います。それでは仏法を、根本的かつ重要な点で、大きく勘違いするのではなかろうか、と危ぶまれます。
その人たちの〃勘違い〃については触れませんが、なぜ因果の道理が信じられないのでしょう?信じられない「理由」は何なのか?
自分の行為が、業力という一つの力となって潜在し、それが縁に触れて善悪の運命をもたらす、というような教説は、科学的思考が定着している現代の多くの人にとっては、何かオドロオドロシイ、眉唾物の話を聞かされているような感じなのかもしれません。
どう感じようと、それはその人の自由です。ただ、因果の道理は、科学の成果に鑑みて、ただのオドロオドロシイ話で片付けてしまってよいのか?ということです。
これから書こうとするのは、そういう人たちに向けてのことです。科学的思考自体がおかしいというつもりはありませんが、科学的思考の大前提になっている部分に、一つの大きな「迷妄」があることを言っておきたいのです。
でもそれは、必要ない人には、パスしていただいて結構な内容だと思います。
複雑に考えるのがいいこととも言えません。お互い、いつまで生きておれるものやら分からないのですから。
さて、以前、紹介しました『唯心論物理学の誕生』(中込照明)から引用してみます。
(前略)
「相対性理論も含めて量子力学が「すべて」に対する理論であるとの観点に立つならば、自由意志および意識、流れる時間としての「今」、の問題に必然的にかかわってくる。古典的決定性の世界モデルでは、これらの入る余地がまったくない。自由意志、意識、「今」はその存在が否定されてしまう。
この事態に対する物理学者の態度は三つに別れる。
第一は、存在しなくてもよいとするものである。第二は、世界モデルはそのままでも、考え方を工夫すればその存在が説明できるようになるとするもの。第三は、その存在を肯定できるように世界モデルを変更すべしとするもの。筆者の態度はこの三番目の態度である。
これまでの量子力学や相対性理論の解釈では、世界モデルというものをあまり意識していない。意識していないということは、常識的世界モデル、すなわち、決定性の古典的世界モデルを暗黙のうちに使っているということである。量子力学や相対性理論が、(数式は使えるが)解釈できない理由はここにあると筆者は考えている。
上記三番目の態度を取るなら、決定論的な古典的世界モデルは、意志、意識、「今」を入れる余地がないという点で、捨て去られるべきものである。(中略)
意志、意識、「今」を可能ならしめる世界モデルとしては、どのようなものを考えるべきであろうか」
とした上で、新たな世界モデルを筆者は、ライプニッツの「モナド論」をヒントに考察しています。
その要点をまとめると、
「①世界はモナドより構成される。それ以外のものは存在しない」
このモナドとは、意志、意識の主体ということでライプニッツの造語です。
「②空間は世界の構成要素ではない。したがってモナドを入れる空間も存在しない。空間はモナドの内部にあるだけである。モナドはその内に世界を反映する」
「モナドはどのような形で存在するかというと、空間に浮かぶ粒子のようなものとしてとらえたくなるであろうが、そうではない。モナドは非空間的な存在でなければならない。これは別に難しいことではない。初めから空間を出さなければよいのである。ではモナドはどこに存在するのか、という疑問が出るかもしれないが、これは空間を前提とすることから生ずる疑問であって、空間を初めから考えなければこの疑問は生じ得ない。モナドは非空間的存在であるから、位置や大きさでは特徴付けられない。モナドに付与されているものは意志と内部世界だけである。その内部世界がモナドが経験する世界あるいは意識する世界である。この経験世界を表現する場が空間である。すなわち空間はモナドの内部に存在する。
ここで二種類の〃世界〃概念が現れた。一つはモナドの集合体としての世界。もう一つはモナドの内部世界である。しかも後者はモナドの数だけ存在する。これらの個々の世界をどう関係付けるかが、モナド論の中心課題である」
ここから先が大事なのですが、長くなるので次の機会に(つづく)
このことが、今日の浄土真宗ではさっぱり説かれない。それどころか、因果の道理を説いて、その上で善を勧めると、非難される有様です。
もちろん非難する人たちも「因果の道理」くらい知ってはいるのでしょうが、まるで他人事か、あるいは一つの考え方、くらいのとらえ方で、信じてはいないのだと思います。それでは仏法を、根本的かつ重要な点で、大きく勘違いするのではなかろうか、と危ぶまれます。
その人たちの〃勘違い〃については触れませんが、なぜ因果の道理が信じられないのでしょう?信じられない「理由」は何なのか?
自分の行為が、業力という一つの力となって潜在し、それが縁に触れて善悪の運命をもたらす、というような教説は、科学的思考が定着している現代の多くの人にとっては、何かオドロオドロシイ、眉唾物の話を聞かされているような感じなのかもしれません。
どう感じようと、それはその人の自由です。ただ、因果の道理は、科学の成果に鑑みて、ただのオドロオドロシイ話で片付けてしまってよいのか?ということです。
これから書こうとするのは、そういう人たちに向けてのことです。科学的思考自体がおかしいというつもりはありませんが、科学的思考の大前提になっている部分に、一つの大きな「迷妄」があることを言っておきたいのです。
でもそれは、必要ない人には、パスしていただいて結構な内容だと思います。
複雑に考えるのがいいこととも言えません。お互い、いつまで生きておれるものやら分からないのですから。
さて、以前、紹介しました『唯心論物理学の誕生』(中込照明)から引用してみます。
(前略)
「相対性理論も含めて量子力学が「すべて」に対する理論であるとの観点に立つならば、自由意志および意識、流れる時間としての「今」、の問題に必然的にかかわってくる。古典的決定性の世界モデルでは、これらの入る余地がまったくない。自由意志、意識、「今」はその存在が否定されてしまう。
この事態に対する物理学者の態度は三つに別れる。
第一は、存在しなくてもよいとするものである。第二は、世界モデルはそのままでも、考え方を工夫すればその存在が説明できるようになるとするもの。第三は、その存在を肯定できるように世界モデルを変更すべしとするもの。筆者の態度はこの三番目の態度である。
これまでの量子力学や相対性理論の解釈では、世界モデルというものをあまり意識していない。意識していないということは、常識的世界モデル、すなわち、決定性の古典的世界モデルを暗黙のうちに使っているということである。量子力学や相対性理論が、(数式は使えるが)解釈できない理由はここにあると筆者は考えている。
上記三番目の態度を取るなら、決定論的な古典的世界モデルは、意志、意識、「今」を入れる余地がないという点で、捨て去られるべきものである。(中略)
意志、意識、「今」を可能ならしめる世界モデルとしては、どのようなものを考えるべきであろうか」
とした上で、新たな世界モデルを筆者は、ライプニッツの「モナド論」をヒントに考察しています。
その要点をまとめると、
「①世界はモナドより構成される。それ以外のものは存在しない」
このモナドとは、意志、意識の主体ということでライプニッツの造語です。
「②空間は世界の構成要素ではない。したがってモナドを入れる空間も存在しない。空間はモナドの内部にあるだけである。モナドはその内に世界を反映する」
「モナドはどのような形で存在するかというと、空間に浮かぶ粒子のようなものとしてとらえたくなるであろうが、そうではない。モナドは非空間的な存在でなければならない。これは別に難しいことではない。初めから空間を出さなければよいのである。ではモナドはどこに存在するのか、という疑問が出るかもしれないが、これは空間を前提とすることから生ずる疑問であって、空間を初めから考えなければこの疑問は生じ得ない。モナドは非空間的存在であるから、位置や大きさでは特徴付けられない。モナドに付与されているものは意志と内部世界だけである。その内部世界がモナドが経験する世界あるいは意識する世界である。この経験世界を表現する場が空間である。すなわち空間はモナドの内部に存在する。
ここで二種類の〃世界〃概念が現れた。一つはモナドの集合体としての世界。もう一つはモナドの内部世界である。しかも後者はモナドの数だけ存在する。これらの個々の世界をどう関係付けるかが、モナド論の中心課題である」
ここから先が大事なのですが、長くなるので次の機会に(つづく)