「ありがとう」~家族の今があるのは母のお蔭です
暮らしを支え、私達子供を育て上げるため、、、母はどれほど汗を流してくれたのでしょう。
工場へ勤めに出る傍ら畑仕事もこなし、朝から晩まで働き続ける毎日でした。加えて家事に育児も
していたのですから、幼い私達の知る以上に苦労があったと思います。それなのに、母の口から
愚痴や弱音を聞いたことはついに一度もありませんでした。
命のたすきは今や孫そしてひ孫の代まで繫がっています。正月などに皆が集えば、嬉しそうな表情で
話に花を咲かせていた母、こうして賑やかな輪が広がっているのは、家族の幸せだけを一心に願い、
力を尽くしてくれた母のお蔭と、感謝の気持ちでいっぱいです。
晩年は我が家に居着いた猫を可愛がり、テレビで野球や相撲を観戦するなど穏やかに過ごすことができ
ました。それでも、今日まで頑張り続けてくれた母にはゆっくり休んでほしいというのが私達の願いです。
「頑張ってくれてありがとう」万感を込めたこの言葉で、静かに見送ります。
~次女より~
これは、10月22日に亡くなった友人のお母さんの葬儀の香典返しに、添えられていたお礼の言葉です。
次女は、私の友人です。
10月22日午後4時過ぎに、小学校の同級生から、電話が入りました。
同じ町内に住んでいる彼女からの言葉に、私は「とうとう!」と答えてしまいました。
9月初めに、友人宅を訪ねたときに、「少し前に調子が悪かったんだけど、持ち直した。」と聞いていましたが
お年が、96才ときいて、「もしかしたら?」と考えていました。
「家族葬みたいだけど、町内の人達は来ないでという知らせはないよ」
家族葬だろうとなんだろうと「叔母さんには相当お世話になったから」
高校時代の友人二人に連絡をし、取り敢えず滝新町にいるSさんとお通夜に参列させていただきました。
遺影の中のおばさんは、穏やかなお顔をされていました。
小学校5年生からの友人の彼女の家には、近いせいもあってよく遊びに行っていました。
お百姓さんの彼女の家は、大きくて、離れには、牛が飼われていましたし、鶏も沢山いました。
私が一番、気持ちを動かされたのは、蚕です。小さな幼虫が、まいにち桑の葉を食べて大きくなっていき
体が透明になったら、繭を作る場所に移動させました。やがてきれいな白い繭が完成です。
年に2-3回だったでしょうか?桑の葉つみから、繭になるまで、楽しく手伝いました。
本当は邪魔だったかもしれませんが、おじさんやおばさんは、1度も苦情を言われたことはありません。
次に好きだったのが、田植えや、稲刈り、脱穀の作業です。子供だからろくなことはできませんでしたが、
それでも、友人について、苗運びや、はざ掛け、等させてもらいました。
私が、いまでも畑作業が好きなのは、この時の経験からだと思います。
高校時代、12月31日に、みんなで押しかけて夜明かししました。いつまでも台所で何かしているおばさんに
「何してるの?」と聞いたところ、「おせち料理作ってるんだよ。」と言って、随分遅くまで煮物をされてました。
自分の母と比べたとき、サラリーマンの妻の母は、ほとんどのものを、買ってきてすませ、夕方は食事がすむと
子供の私達と同じように、テレビを見ていました。
「おばさん大変だねー。何か手伝おうか?」「いいよ。テレビ観ておいでよ」と言われました。
おばさんたちにとっての衝撃の出来事は、長男が突然亡くなったことです。
その日は、お嫁さんの荷物が来る日だったので、朝ゆっくり寝ているものだと思っていたそうです。
それでも、起きてこないので、呼びに行ってみたら、息子さんは亡くなっていました。
長女が、まだ1歳になっていませんでしたが、姑に預け、私は駆けつけました。
「わしたちが火葬場に行けないから、あんた代わりに行ってくれんかね」とのご両親の頼みで葬儀等家族の方たちと
お参りさせていただきました。
もう46年も前の事ですが、いまでもはっきりと覚えています。
子供を失った悲しみにも耐えて、いつも笑っていたおばさん。
認知症が出てからも、遊びに行くと「前野さんだねー?」とちゃんと覚えていてくれました。
思い出は尽きませんが、96年を生きられて、今おじさんや、息子さんの元に旅立たれました。
「おばさん!本当にお世話になりました。ゆっくり休んでください」
私の両親と同じお寺なので、自分の所のお墓に行くと、必ず友人の家のお墓にも手を合わせてきました。
これからは、おばさんも加わります。「えいちゃん、おじさん、おばさん!」
栗灰、1回目ですが、1,25Kgありました。
頂いた豌豆の芽が大きくなりました。