チョコハナな日々

ちょこっとした日常のさまざまなことに対する想いを書いていきます。

「愛される障害者」?

2009-12-12 | 障害者問題あれこれ
今日、「障害児と学校」のブログを読んで切なくなった。
頑じいさんが見かける20歳前後の男性のことが書かれている。
リンクしているので、どうか原文を一度読んでみてください。

男性は誰彼かまわず挨拶をするが、大半の人が無反応の中挨拶を返す少数の人もいる。
けれども、彼は挨拶を返されても喜ぶことはない。
彼にとっての「挨拶」という行為は、わたしたちがコミュニケーションとして使う「挨拶」とは違うようだ。
なぜ彼は挨拶をするのか。誰がそう教育したのか。
その教育の根底に「愛される障害者」観があるのではないか。


娘が小学校低学年のとき、「将来つま先立ちにならないように」とリハビリを受けていた。
そのリハの先生はヘビースモーカーだが、ニコニコと優しい年配の方だった。

ある日、彼は娘の笑顔を見ていった。
「いい笑顔だね、かわいがられるよ。障害者はみんなから好かれるように笑顔でいないとね」。
その発言は違和感があった。
「なぜ?なぜ障害者は健常者に好かれるためにずっとニコニコしていないといけないんだ?」と私の胸に疑問の渦が生じた。

一見、障害のある人に優しく寄り添っている人物にも差別的な人もいる、と知った。
障害という前に人間なのだ。
好きや嫌いもある。機嫌のいいときも不機嫌なときもある。
確かに娘がずっと笑顔なら、わたしはどんなに楽かと思うが、娘は天使でもなく、ただ人間なのだ。
「ずっと笑顔で」というのはおかしいだろう。

また、就学前に養護学校(特別支援学校)を見学したことがある。
そのとき保護者の前に管理職のあとにある男の子も挨拶をした。
「本日はようこそ....」とお決まりの文句だったが、立派に大役をこなし拍手をもらった。

ところが、彼はそのあとも何度も何度も同じ挨拶を繰り返した。
見ていようが見られていないようが、そんなことは構わないようだった。
見学にきた保護者たちは見て見ぬふりで「うちの子もここなら伸びるかもね」といっていた。

わたしは、クラス委員長だという彼の姿に痛ましいほど悲しくなって、彼の精神状態が心配になった。
何よりも「特別な教育」というものに疑問が生じたのである。
普通学級ならそこまで時間をかけないが、彼は教師から何度も何度もこの日のために練習させられてきたのだろう。
見学者から拍手喝采を浴びるためかもしれない。
親たちから「立派な教育」をしていると思われるためにだろうか?

わたしは、他の見学者たちと違い、決して娘をここには入れないと思った。
そのほかの場面でも、この学校は学校というより自衛隊のようだったから。
もっとも他の学校も知的障害のための学校というのは似た感じがある。

誰のための教育なのだろうか、とブログを読んで考えさせられた。



お気に入りの水着

2009-12-12 | 支援が必要な子
今日も娘は「プール! 」と主張したので、アラちゃんと高島の温浴プールへ出かけて行きました。

本日の水着は三つの中から選ばさせてみました。

選んだのは、もう何年も着ていない小学校高学年のときに買った水着でした。

少し前、衣替えをしているとき、娘は蓋の開いた衣装ケースの中からその水着を見つけ取り出しました。

そのあと、これは、自分のだから....という感じで、わたしに渡してきました。

少し窮屈なのかもしれないけど捨てるにはもったいないとケースに入れたままになっていた水着です。

カワイイのは今年買った水着ですが、想い出が沁みた水着がうちの子には一番のようです。

でも、持たせてみたけれど、セパレーツ水着のすきまから確実にぽっこりと出ていると思います。

お腹が冷えませんように....。