昨年の朝日の声欄に載った投稿が気になっていました。
福岡市の主婦、友清さん(69)さんという方が書かれたものです。
『 先日、友人と近郊の低山へ登った帰りのことでした。
福岡市の都心へ向かうバスで、座席がほぼ埋まっていたころ、とあるバス停に車いすの青年が待っていました。
運転手は降りて「乗りますか」と尋ねました。それから運転手は、バスの中ほどにある座席の2人に立ってもらい、車いす用のスペースを作りました。次に乗降用スロープを引き出して車いすを押し乗せ、所定の場所に幅広のベルトで固定しました。スロープを車体に収めて発車。
幾つ目かのバス停で青年が降りることになり、運転手はスロープを引っ張り出しましたが、段差が20㌢ほどにある歩道までわずかに届きません。それでバスを数㍍前進させて、今度はうまくスロープが歩道につながり、青年を降ろすことができました。運転手はスロープを引っ込め、座席を元に戻し、バスの遅延を乗客に断り、発車しました。とても暑い日で、見ている私たちにもその大変さが伝わってきました。
残念なことに、その青年からは言葉も笑顔もありませんでした。20分の遅れと引き換えに「ありがとう」の一言か会釈でもあったなら、仕事とはいえ運転手の汗も報われたことでしょう。乗客も心から「よかった」と思えたことでしょう。』
この投稿は、とても何か引っかかっていました。それは、わたしだけでなかったようで、これに関したものがいくつか載りました。
同じ車いすを使っている女性は『障害者の中には言葉が出ない人、身体が思うように動かずに誤解されている人がたくさんいます。わたしは乗ってから降りるまで、みなさんに迷惑をかけて申し訳ない気持ちでいっぱいです。』、『投稿に書かれていた車いすの青年は「他の乗客に迷惑をかける」「好奇な目で見られる」などと思いながらも、勇気を出してバスに乗ったのだと思います。そのことで頭いっぱいになり、感謝の気持ちを伝えることが出来なかったのではないでしょうか。』と当事者の立場で青年を弁護していた。
また、路線バス運転士は『公共交通という責務を担っている以上、老若男女、障害者も含め同じお客様として接しております。』、『スロープ作業も含め当然の職務と思っている運転士がほとんどですので、あえてお礼を言う言わないにこだわるつもりはありません。』、『安全を最優先に、平等に、定時運行のバランスを常に考えて乗務いたしますので、どうか偏見なく温かく見守っていただきたく思います。』と、何ともプロ意識のある発言です。
わたしも、時間や手間がかかったということでお礼はいうべきなのかどうか...と考えていました。自分なら....とあれこれ考えていたのですが、それはその人、そのときでいいいのではないかと思いました。いいたかったらいえばいいし、別にいわなくても会釈しなくても、いいのではないか...と。
それよりも、この投稿した、この文章...何かひっかかるのです。
何だろうと思っていたら、「乗客も」という言葉です。
投稿した女性は、丁寧な文章で書かれていますが、「わたし」と書かずに「乗客も」と書いています。あたかも全員が礼をいわなかったことに不快感があるといっているのです。
果たしてバスの乗客はどんな思いだったのでしょうか。青年が降りたあと、全員が「礼ぐらいいったらいいのに」とつぶやいていたのでしょうか。
自分が感じたことを、みなさんが感じていたのですよ、という書き方に卑怯な感じがします。わたしは、そこが不快に感じます。
福岡市の主婦、友清さん(69)さんという方が書かれたものです。
『 先日、友人と近郊の低山へ登った帰りのことでした。
福岡市の都心へ向かうバスで、座席がほぼ埋まっていたころ、とあるバス停に車いすの青年が待っていました。
運転手は降りて「乗りますか」と尋ねました。それから運転手は、バスの中ほどにある座席の2人に立ってもらい、車いす用のスペースを作りました。次に乗降用スロープを引き出して車いすを押し乗せ、所定の場所に幅広のベルトで固定しました。スロープを車体に収めて発車。
幾つ目かのバス停で青年が降りることになり、運転手はスロープを引っ張り出しましたが、段差が20㌢ほどにある歩道までわずかに届きません。それでバスを数㍍前進させて、今度はうまくスロープが歩道につながり、青年を降ろすことができました。運転手はスロープを引っ込め、座席を元に戻し、バスの遅延を乗客に断り、発車しました。とても暑い日で、見ている私たちにもその大変さが伝わってきました。
残念なことに、その青年からは言葉も笑顔もありませんでした。20分の遅れと引き換えに「ありがとう」の一言か会釈でもあったなら、仕事とはいえ運転手の汗も報われたことでしょう。乗客も心から「よかった」と思えたことでしょう。』
この投稿は、とても何か引っかかっていました。それは、わたしだけでなかったようで、これに関したものがいくつか載りました。
同じ車いすを使っている女性は『障害者の中には言葉が出ない人、身体が思うように動かずに誤解されている人がたくさんいます。わたしは乗ってから降りるまで、みなさんに迷惑をかけて申し訳ない気持ちでいっぱいです。』、『投稿に書かれていた車いすの青年は「他の乗客に迷惑をかける」「好奇な目で見られる」などと思いながらも、勇気を出してバスに乗ったのだと思います。そのことで頭いっぱいになり、感謝の気持ちを伝えることが出来なかったのではないでしょうか。』と当事者の立場で青年を弁護していた。
また、路線バス運転士は『公共交通という責務を担っている以上、老若男女、障害者も含め同じお客様として接しております。』、『スロープ作業も含め当然の職務と思っている運転士がほとんどですので、あえてお礼を言う言わないにこだわるつもりはありません。』、『安全を最優先に、平等に、定時運行のバランスを常に考えて乗務いたしますので、どうか偏見なく温かく見守っていただきたく思います。』と、何ともプロ意識のある発言です。
わたしも、時間や手間がかかったということでお礼はいうべきなのかどうか...と考えていました。自分なら....とあれこれ考えていたのですが、それはその人、そのときでいいいのではないかと思いました。いいたかったらいえばいいし、別にいわなくても会釈しなくても、いいのではないか...と。
それよりも、この投稿した、この文章...何かひっかかるのです。
何だろうと思っていたら、「乗客も」という言葉です。
投稿した女性は、丁寧な文章で書かれていますが、「わたし」と書かずに「乗客も」と書いています。あたかも全員が礼をいわなかったことに不快感があるといっているのです。
果たしてバスの乗客はどんな思いだったのでしょうか。青年が降りたあと、全員が「礼ぐらいいったらいいのに」とつぶやいていたのでしょうか。
自分が感じたことを、みなさんが感じていたのですよ、という書き方に卑怯な感じがします。わたしは、そこが不快に感じます。