今日、「障害児と学校」のブログを読んで切なくなった。
頑じいさんが見かける20歳前後の男性のことが書かれている。
リンクしているので、どうか原文を一度読んでみてください。
男性は誰彼かまわず挨拶をするが、大半の人が無反応の中挨拶を返す少数の人もいる。
けれども、彼は挨拶を返されても喜ぶことはない。
彼にとっての「挨拶」という行為は、わたしたちがコミュニケーションとして使う「挨拶」とは違うようだ。
なぜ彼は挨拶をするのか。誰がそう教育したのか。
その教育の根底に「愛される障害者」観があるのではないか。
娘が小学校低学年のとき、「将来つま先立ちにならないように」とリハビリを受けていた。
そのリハの先生はヘビースモーカーだが、ニコニコと優しい年配の方だった。
ある日、彼は娘の笑顔を見ていった。
「いい笑顔だね、かわいがられるよ。障害者はみんなから好かれるように笑顔でいないとね」。
その発言は違和感があった。
「なぜ?なぜ障害者は健常者に好かれるためにずっとニコニコしていないといけないんだ?」と私の胸に疑問の渦が生じた。
一見、障害のある人に優しく寄り添っている人物にも差別的な人もいる、と知った。
障害という前に人間なのだ。
好きや嫌いもある。機嫌のいいときも不機嫌なときもある。
確かに娘がずっと笑顔なら、わたしはどんなに楽かと思うが、娘は天使でもなく、ただ人間なのだ。
「ずっと笑顔で」というのはおかしいだろう。
また、就学前に養護学校(特別支援学校)を見学したことがある。
そのとき保護者の前に管理職のあとにある男の子も挨拶をした。
「本日はようこそ....」とお決まりの文句だったが、立派に大役をこなし拍手をもらった。
ところが、彼はそのあとも何度も何度も同じ挨拶を繰り返した。
見ていようが見られていないようが、そんなことは構わないようだった。
見学にきた保護者たちは見て見ぬふりで「うちの子もここなら伸びるかもね」といっていた。
わたしは、クラス委員長だという彼の姿に痛ましいほど悲しくなって、彼の精神状態が心配になった。
何よりも「特別な教育」というものに疑問が生じたのである。
普通学級ならそこまで時間をかけないが、彼は教師から何度も何度もこの日のために練習させられてきたのだろう。
見学者から拍手喝采を浴びるためかもしれない。
親たちから「立派な教育」をしていると思われるためにだろうか?
わたしは、他の見学者たちと違い、決して娘をここには入れないと思った。
そのほかの場面でも、この学校は学校というより自衛隊のようだったから。
もっとも他の学校も知的障害のための学校というのは似た感じがある。
誰のための教育なのだろうか、とブログを読んで考えさせられた。
頑じいさんが見かける20歳前後の男性のことが書かれている。
リンクしているので、どうか原文を一度読んでみてください。
男性は誰彼かまわず挨拶をするが、大半の人が無反応の中挨拶を返す少数の人もいる。
けれども、彼は挨拶を返されても喜ぶことはない。
彼にとっての「挨拶」という行為は、わたしたちがコミュニケーションとして使う「挨拶」とは違うようだ。
なぜ彼は挨拶をするのか。誰がそう教育したのか。
その教育の根底に「愛される障害者」観があるのではないか。
娘が小学校低学年のとき、「将来つま先立ちにならないように」とリハビリを受けていた。
そのリハの先生はヘビースモーカーだが、ニコニコと優しい年配の方だった。
ある日、彼は娘の笑顔を見ていった。
「いい笑顔だね、かわいがられるよ。障害者はみんなから好かれるように笑顔でいないとね」。
その発言は違和感があった。
「なぜ?なぜ障害者は健常者に好かれるためにずっとニコニコしていないといけないんだ?」と私の胸に疑問の渦が生じた。
一見、障害のある人に優しく寄り添っている人物にも差別的な人もいる、と知った。
障害という前に人間なのだ。
好きや嫌いもある。機嫌のいいときも不機嫌なときもある。
確かに娘がずっと笑顔なら、わたしはどんなに楽かと思うが、娘は天使でもなく、ただ人間なのだ。
「ずっと笑顔で」というのはおかしいだろう。
また、就学前に養護学校(特別支援学校)を見学したことがある。
そのとき保護者の前に管理職のあとにある男の子も挨拶をした。
「本日はようこそ....」とお決まりの文句だったが、立派に大役をこなし拍手をもらった。
ところが、彼はそのあとも何度も何度も同じ挨拶を繰り返した。
見ていようが見られていないようが、そんなことは構わないようだった。
見学にきた保護者たちは見て見ぬふりで「うちの子もここなら伸びるかもね」といっていた。
わたしは、クラス委員長だという彼の姿に痛ましいほど悲しくなって、彼の精神状態が心配になった。
何よりも「特別な教育」というものに疑問が生じたのである。
普通学級ならそこまで時間をかけないが、彼は教師から何度も何度もこの日のために練習させられてきたのだろう。
見学者から拍手喝采を浴びるためかもしれない。
親たちから「立派な教育」をしていると思われるためにだろうか?
わたしは、他の見学者たちと違い、決して娘をここには入れないと思った。
そのほかの場面でも、この学校は学校というより自衛隊のようだったから。
もっとも他の学校も知的障害のための学校というのは似た感じがある。
誰のための教育なのだろうか、とブログを読んで考えさせられた。
私は身内に知的障害者がいて、今知的障害者の施設で働いているのですが、今更ながら同じ状況でもこんなに人によって捉え方感じ方が違うんだ…と痛感してます。
障害のある子がいる親でもいろんな考え方があって、なかなか同じように感じる方が少ないようです。
けれども、私たち親や教員、支援者が当事者へ与える影響はすごいものだと思いますから、疑問はいい続けていこうと思います。
お近くでしたらチョコハナへご参加くださいね!
けっこう有名人で次男がその市の工業高校に通っているので、部活動の集まりの時、保護者さんがその子のことを話していました。
駅以外にも大型スーパーによくいるそうで、移動手段は徒歩です。それだけの能力はあるのです。うちの子は1人で出歩いたりできません。
私が感じたのはどうしてその青年がいつも街に出没しているのかという疑問です。
事業所とかを利用していないのかな?一度会ってみたいものです。その青年の保護者さんにも会ってみたいです。あいさつに何か意味があるのかもしれません。
知ってどうにもならないことですが・・・大きなお世話と怒られそうですね(笑)
そういえば、なぜひとりでいるんでしょうね
事業所は利用していないのでしょうか、気になりますね。
ともかく聞いてみないことには本当のことはわかりませんので、その方の保護者と会う機会があったら怒られないようにさりげなく聞いて見ましょうね。
教育って大事にしないといけないなと痛感します。