「第2」~庭での再会~パート(2)

2012年07月22日 | 日記
7月21日の朝です。とてもいい香りがします。咲きました~♪ 「カサブランカ」です。

   

おしべが 明るいオレンジから濃いオレンジに変わりつつあり、変化途中のツートンカラーを初めて見ました。
   

「カサブランカ」は、オランダから1989年に球根の輸入自由化により入ってきたユリです(a)
ほんの20年前のことです。最初は、今よりもずっと、とても高価なユリであったと記憶しています。
オランダ産の「カサブランカ」は、実は日本のユリが改良されてできたことはよく知られていますが、
それ以上のことは知りませんでした。

「幕末から明治にかけて、英国海軍で日本に駐留していた、ジョン・ジョシュア・ジャーメインが除隊後、
横浜の外国人花卉植木業者のクラマー商会の社員となりました。横浜に居留外国人の間で「ヤマユリ」
「テンガイユリ」「スカシユリ」などが人気になっていることを知り、まずイギリスの実家に球根を送ったものの
輸送中に腐敗し試みは失敗に終わりました。1868年明治になったこの年、「おがくず」に「炭」や「灰」を
混ぜた輸送法を改良し、再度実家にユリの球根を送りました。今度は、かなり良い状態で届き、数か月後には、
「見事に咲いた」という知らせが届き、その後、クラマーにより売りさばかれることとなったようです。

このため、横浜近辺の山野に自生していたヤマユリは激減し、輸出は増える一方なので、1890年(明治23年)
には「横浜植木商会」(現・横浜植木株式会社)が設立され、日本人による輸出も行われるようになりました。
球根は、その頃には、山掘りではなく、畑栽培されるようになったようです。(a)~

1899年(明治32年)には、608万球 輸出。
1900年(明治33年)には、704万球から898万球に増加。

同じころ、ヤマユリには耐寒性はあるものの、モザイク病などの病害に弱いことがわかったため
テッポウユリが人気となり、アメリカへの「イースター」用のユリとして輸出が急増し、テッポウユリの
球根生産に追われました。

ヤマユリ人気が落ちて、ユリ栽培にも陰りが出たころ、英国人プラントハンター アーネスト・ヘンリー・
ウイルソンにより、「リーガル・リリー」が1903年に中国四川省岷江の谷間で発見されました。
1911年には、落石事故で2か所の骨折するという重傷を負いながらも7000個の球根を持ち帰り
その美しさで、英国の庭にかかせないアイテムとなりました。

日本からの球根輸出は、大正から昭和にかけて2000万球~3000万球台となり、1937年(昭和12年)
4026万球を記録したのを最後に、激減。太平洋戦争の開戦により輸出は止められました。戦後は球根栽培を
再開したものの輸出は伸び悩み、かつてのような黄金時代は戻ってきませんでした。

「カサブランカ」は、オリエンタル系といわれ、日本原産の「ヤマユリ」「ササユリ」「カノコユリ」「オトメユリ」
などを交配して作出された園芸品種です。」~(b)

「カサブランカ」・・・・ポルトガル語やスペイン語では、「白い家」を意味します。

このユリの球根に出会ったのは、2年前の秋でした。切り花のユリを飾ることはあっても
育てることには、ためらいが長い間ありました。なぜなら、鉢栽培で、同じ球根から翌年も
咲くことはないとずっと思いこんでいたのです。でも3球入りで、お得な価格であったことも
あって植えることにしました。

今年はすでに、6月20日ごろに別のカサブランカが咲いていました。そちらを「第1」とすると
7月のこちらの花は「第2」。

写真左は、奥が花を切り取った後の「第1」 手前が今咲いている「第2」です。
第1の方は花が終わると種をつけないように、切り取りました。(真ん中)右の写真が「第2」です。
     


次の2枚は、去年2011年7月14日に初めて咲いた時の花です。
  

場所は同じ半日蔭のところに置いています。今年は去年より一週間遅れで咲き、少し花は小ぶりになった感じは、
しますが、蕾もたくさんつけています。

つまり、この「第2」のカサブランカは、去年と同じ球根から咲いてくれたユリで、私としては、咲かないかもしれないと
思っていただけに、「再会」の喜びです。

花後は、緩効性の肥料を置き、葉が枯れるまで育て続けます。また来年の「再会」を願って。

今朝、7月22日の様子です。花が次々と咲いています。この暑さに負けずに、いい香りが楽しめそうです。
  




「」内(a)~(b)は園芸雑誌『BISES』2005年8月号より、要約抜粋させていただきました。