春の雨後の庭

2013年03月31日 | 日記
あっという間に3月が終わろうとしています。

チューリップも日に日に伸びていきました。
3月13日・22日・30日の様子です。
     
すくっと蕾が顔を出しました。
  
この芽は何の芽でしょうか?
  
これは、3年目のカサブランカの新芽です。

ミニバラは、12月の下旬に、5cm以下に強剪定しました。13日と29日の様子です。
  

2年目の黄色の「プリムラ」、6日はまだ蕾ばかりでしたが、

13日には、美しく開き始めました。
  

2月から咲きかけていたクリスマスローズの6日と13日です。 もう種が出来かけています。
   

黄色のパンジー6日、22日
 

スイートバイオレット(和名:においすみれ)は育てて4年目。『花の西洋史事典』によるとナポレオンが好んだ花で、
  「ナポレオンは、結婚記念日に妻のジョセフィーヌに必ず贈っていた」
とあり、
  「エルバ島に流される時に彼が最後に口にしたのは、「私は春にヴァイオレットとともに戻ってくる」であった。」
ともありました。
 

30日、八重ほどではありませんが香りがします。花の紫と葉の明るい緑の色が光に映えて綺麗です。
 

バラの芽吹きですが、木によって早い遅いがあります。毎年出揃うまで待ち遠しいものです。
同じ30日でも 木によってまちまちです。
 

枝の先端が茶色くなったり、芽の出ていない枝を見つけたときは、切るようにしています。
枯れこんだりするからです。右の写真は切り取ったあとです。
 

次の写真の枝も先端が枯れていたので、切り取りました。
 

1月の終わりにトレリスに誘引し直したシュラブや、つるバラも順調に伸びています。
ロココ
 

ピエール・ド・ロンサール


奥の面はこんな感じです。枝の誘引は、なるべく地面に対して平行になるように這わせています。
長く伸びて枝が柔らかいものは、一方だけでなくS字状に曲げて誘引するようにもしています。
平行に這わせると、均等に芽が上に出てくるからです。上に向けたままだと先端に少ししか芽が
でないからです。(頂芽優勢のためです。)

麻ひもをトレリスに結び、八の字になるように枝を止め、直接トレリスにくっつけないようにして
誘引しました。風で枝が擦れて傷まないようにするためです。


八重の匂いスミレです。毎年とても良い香りの花を咲かせてくれます。
  

これは別のとても丈が短い、日本のスミレです。年末からポリポットのままでしたが、沢山咲いてくれたので・・・・・
 

「新しいお家」に引っ越ししました。
  

27,28日と2日続きの雨の後、庭の緑が増え、草花が沢山咲いてきたように感じます。
毎日ドアを開けるたびに、あちらこちらに喜びがある、そんな春の毎日です。






枝垂れ桜が見ごろです。~醍醐寺の春~

2013年03月24日 | 
3月23日 午前中は、曇りがちでしたが、昼からすこし陽の光も射してきたので
醍醐寺まで散歩に出かけました。南門から入るとまだ何も咲いてないようでしたが、
駐車場を抜けていくと塀の向こうに、1本の美しいしだれ桜が見えてきました。
      

更に進むと、その塔頭の前には、もっと大きな桜がありました。
  

   


さらに、霊宝館に入ると、
  

ますます樹高が高い枝垂れ桜があります。
 

そして、まだ咲いていない大きな桜を過ぎると
  

見たこともない大きな枝垂れ桜に人が集まっていました。



木のそばに寄れないのですが、メジロが数羽、ちょこちょこ忙しそうに花の中を歩いていました。
真ん中の上あたりに1羽。

2羽います。




この木の近くには、まだ咲きかけの巨木もあります。

先端の花はこんな感じです。
  

三宝院の入り口の枝垂れ桜も素晴らしい風情です。
  

上ばかり見上げていると


ほら貝の音色が聞こえてきて、黄色い装束のお坊さんが列をなして入ってこられました。
  

醍醐寺は、874年に真言宗の宗祖・弘法大師の孫弟子にあたる理源大師・聖宝大師が醍醐山上に草庵を結んだのが
始まりです。この三宝院には、豊臣秀吉が「醍醐の花見」の際して、自ら基本設計した庭があります。

唐門 桃山時代のものですが、平成22年に当時の姿に復元されました。


唐門前より仁王門へ続く通路の桜は、まだまだこれからです。
 

正面の総門前です。ここにも枝垂れ桜があります。


歩いているうちにすっかり晴れて、青空の下、枝垂れ桜を満喫した午後でした。







寒梅~咲くやこの梅~

2013年03月04日 | バラ園・公共園 
3月4日快晴。思い立って、北野天満宮に梅を見に行ってみました。
  

天神さんと梅。といえば、有名なこの歌。菅原道真公(845-903)
  東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(出典:拾遺和歌集)

「春な忘れそ」と覚えていたのですが、初出は1006年ごろに成立した拾遺和歌集で、
「春を忘るな」となっています。

今年は例年よりも寒いのか、入口には3分咲きとありました。早咲きは見ごろのものもありますが、
ほとんどがまだまだ蕾。これからです。
  

  

 
 

  

  

   

 

  

50種類1500本があるとか。梅の花の特徴は、枝から1輪ずつ 花の軸が短く、突然出ましたという感じです。

梅は、観賞用の花梅と、果樹用の実梅があります。
花梅には、3系統あり。(野梅系、紅梅系、豊後系 )さらに7性があります。

野梅系は、原種に近い梅     (野梅性)
     花の香りが良い    (難波性)
     蕾の先が紅く尖っている(紅筆性)
     枝やガクは常に緑色。蕾も緑白色。花は青白色。(青軸性)

紅梅系は、花色が明るい紅色   (紅梅性)

豊後系は、アンズとの雑種、花は大輪、淡紅色 (豊後性)
     豊後性よりも枝が細く、葉も小さい (杏性)

さて梅は、日本でいつごろから愛でられていたのか?ちょっと調べてみることにしました。

   難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

この歌は、古今和歌集(905年編纂)の仮名序に出てくる歌で、それによると
王仁の歌で、「この花は 梅の花を言うなるべし」
とあります。
王仁については、日本書紀によると 百済から優れた学者を呼んだとされ、

一六年(405年)春二月、王仁來之。則太子兎道稚郎子師之、習諸典籍於王仁不通達。
所謂王仁者 是書首等始祖成。

(16年春二月 王仁は参った。そこで兎道稚郎子は王仁を師とされ、もろもろの
典籍を王仁から習われ、精通していないものは何もないようになった。いわゆる王仁は、
書首(ふみのおびと)らの始祖である。(『日本書紀』巻第十(応仁紀))Wikipedia参照)

古事記には、『論語』10巻と『千字文』1巻も、王仁に附けて献上されたとあります。
ただし、『千字文』は、王仁より、後代の、中国の南朝・梁(502ー549)武帝が
文官の周興嗣(470-521)に作らせたもので、時代の差異があります。

いずれにせよ、この花が梅の花を詠んだものなら、405年~ということになり古いものと
考えられます。

梅の花を詠んだと明らかにわかるものの初出は、日本最初の漢詩集、懐風藻(751年)
に出てくる、706年没の葛野王の「春日翫鶯梅」(春の日に鶯と梅を喜ぶ)があります。

万葉集には、梅の詠まれた歌が119首あります。そのうちの天平二年正月十三日(730年2月)
大伴旅人が、大宰府の宅で宴会をした時の歌「梅花の歌 三十二首」は、集まった32人が詠んだ
その時の梅を愛でる様子がよくわかります。815~846の32首中の4首を選びました。

正月(むつき)立ち 春の来たらば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しく終えめ(815 大貳紀卿)
(正月になって、春が来たらば、このように、梅の花を招き寄せて楽しいことの極みをつくそう)
  大貳は役職、大宰大貳であった紀氏の人。名は未詳。

梅の花 今咲けるごと 散り過ぎず わが家の園に ありこせぬかも (816 小貳小野大夫)
(梅の花は、今こんなに咲いているようにいつまでも散らずに、私の家にあってほしいものだ)
  小貳も役職、大宰小貳小野老

わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の ながれくるかも (822 主人)
(わが家の庭園に梅の花が散っている。いやこれは大空から雪が流れてくるのであろうか)
  主人は、大伴旅人(665-731)亡くなる1年前の歌である。

春されば まづ咲く宿の 梅の花 独り見つつや 春日暮らさむ  (818 筑前守山上大夫) 
(春になれば 最初に咲く梅の花を、ただ一人で見ながら 春の長い日を暮すことであろうか)
  山上憶良の歌。

32首のなかには、花をかんざしにする歌や、ウグイスを詠みこむ歌。散る花を雪と見立てる歌がある。
万葉集の梅は白梅といわれています。

さて梅の実のほうはいつ伝来したのでしょうか?
中国最古の薬物書(本草書)『神農本草経』(1~2世紀ごろ編纂されたもの。神農は、4~5千年前の
古代中国の皇帝で医薬と農業を司る神。)には、中薬の項に烏梅「ウバイ」があり。(半黄のものを採って 
煙で薫じたもの・鎮痛・解毒・健胃整調作用があるとされています。)

また『斉民要術』中国北魏の賈思勰(かしきょう)が著した総合的農業専門書92編全10巻
に、「烏梅・白梅・蜜梅」があります。(532~549年)

中国より直接日本に医学が伝来した最初とされるものに、562年、智聡が薬方書(「内経」や「本草書」)
明堂図(鍼灸の場所を示す人体図)など164巻を持って呉より来朝したとするものがあったので、
薬として、早くに伝わってきたかもしれません。

魏志倭人伝などがあるように、古くから大陸との交流はあり、梅が実際にいつ入ってきたとはなかなか
わかりませんでしたが、遅くとも遣隋使・遣唐使の600年以降には薬としても、食用としても有用な木であり、
花も愛でる木として渡来したと考えられるようです。

梅の別名は、好文木(こうぶんぼく)晋の武帝が学問に親しむと花が咲き、怠けると開かなかったという故事から。

894年遣唐使を廃止した道真公。さて、今日の天神さんの梅。本殿前の門横の梅の木が一際大きく、沢山咲いていました。


では今日はこの辺でお開きに。