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ごまかしの「政治的中立逸脱」ではなく「憲法尊重擁護義務逸脱」への罰則を提言すべきだ!

2023-06-24 22:29:53 | 教育

 自民党(冨岡勉・党文部科学部会長)は7月8日、選挙権年齢を18歳以上に引き下げる事に伴う主権者教育のあり方について、高校教員に「政治的中立」を求め、逸脱した教員には罰則を科すよう法改正を促す提言を安倍首相に出した。提言には「学校における政治的中立性の徹底的な確立」を掲げて「教員個人の考えや特定のイデオロギーを子どもたちに押しつけるような事があってはならない」と明記。罰則については「教育公務員特例法」の改正を求めた。しかし、「政治的中立性」の明確な定義や、誰がそれを判断するのかは盛り込まれていない。また日教組が「教育を偏向させている」という考えのもとに、教職員組合に対し収支報告の義務づけも盛り込まれている。

 下村文科相は2010年、教員が違法な政治活動をした場合、「3年以下の懲役か100万円以下の罰金」を科せるようにする「教育公務員特例法」改正案を、みんなの党とともに国会提出したが12年に廃案。2014年4月には衆院文科委員会でも、「政治的中立性が教育現場で担保されている事を示す事も必要」と述べていた。政治的中立性の意味について「多数の者に強い影響力を持ちうる教育に、一党一派に偏した政治的主張が持ち込まれてはならない」「(自治体の)主張や教職員組合という主体を問わない」と述べていた。ただし、「違反しても刑事罰は受けない」とした。

 自民党内には日教組が「教育を偏向させている」(中立ではない)という意見が多いらしいが、彼らの言う「偏向教育」とはどういうものだろうか。安倍首相が日教組に関する事実でない「ヤジ」発言をした事をメディアが報道した事もあったが。自民党の言う「偏向」の意味とは、一言でいえば、「ある事が事実であっても、自民党が自身にとって不利益となると判断した事を、教員が授業などで生徒に話している場合」といえる。それを「政治的中立逸脱」という言葉で批判し処罰しようという事なのである。人権無視、憲法違反そのものであり理不尽も甚だしいことだ。だから、「政治的中立性」の定義をしないのである。というよりできないのである。さらに、逸脱した場合に「罰則」を科すべきだとしている事には、非常識も甚だしいといわねばならない。「偏向」という言葉で教師を「萎縮」させる事を狙い、それでも従わない教師に対しては「罰則」で脅すという考えだ。さらに言えば、「罰則」を科す教員が出た場合、彼らを「見懲らし」(勧善懲悪)として利用する考えだ。その目的は何かと言うと、教師を教育を子どもたちを、安倍自公政権にとって都合のよいように作り上げるという事だ。前近代的発想(例えば江戸時代の刑罰思想)そのものである。民主主義的ではない。人権を持つ個人として子どもたちを見る(子どもの権利条約)のではなく、安倍自公政権にとっては単なる人的資源(奴隷?)である。

 安倍自公政権ワールドは、国家(国民も国土も主権も)を自分たちのものだと考えており、彼らのいう「国益」という言葉は、、「彼らのワールドの利益」を意味し、「国民の利益」は考慮していない。考慮したとしても、それは「活かさぬように殺さぬように」考慮しているだけである。主権は国民にあるとの考え方ではなく安倍自公政権にあるのだ(国民は政府のためにあるのだ。「百姓とごまの油は絞れば絞るほどとれるものなり」)とし、国民は安倍自公政権に従っておればいいのだ(「由らしむべし知らしむべからず」)とする考え方に立っている。

これは、主権は天皇政府にあり、その政府が国民(臣民)を自己の利益のためだけに利用し存在する事を許した、敗戦までの「神聖天皇主権大日本帝国政府」の考え方そのものなのである。この点でも、安倍自公政権ワールドはこの「神聖天皇主権大日本帝国」への回帰を目指している事がわかるのである。(天皇も善人を装った「グル」なのだ)。

 主権者がどの政党に政治を託すかを判断する場合、現在の政党・政治家がどういう政治活動・政策を実施しているかを知る必要がある。そのためにはその政党・政治家がどういう事をしてきたのかを知る必要がある。そのためにはその政党・政治家に関わる過去の詳細な歴史を知る必要がある。そのためには学校教育でその事を保障しなければならない。その場合、特に地歴公民の教科書で現在社会とそれに至る過去がどのように説明されているかが大切であるが、現在の教科書の内容はそれに対して十分とはいえない。最低限の条件として「もっと詳しく」叙述される事が必要だ。細かく叙述される事によって理解が深まる。それによって誤解を少なくできるし、恣意的な解釈が生まれる余地も少なくなる。それこそが「政治的中立」とかの言葉遊びをするのではなく、教科書の目指すべき事であり、あるべき姿ではないか。そしてその教科書をベースにして、教師の教育活動は行われるべきである。その教育の目的は、その最大の目的は、すべての教科や活動が、その特性を生かして、この日本社会のあるべき姿を示す日本国憲法の理念や内容を、生徒が理解し、生活に生かし、幸せな生活を獲得できる能力、民主主義を支える能力を身に付けられるようにサポートする事だ。この考え方こそ「政治的」に「偏向」しているかどうかの判断規準とすべきものである。

 それを判断基準として、それを意図的に逸脱する教師の授業は「指導」に値するし、場合によれば教師不適切として「処分」の対象または「辞職」を求めてよいであろう。

 しかし、自民党の提言は冨岡勉・党文部科学部会長の記者団に対しての「罰則規定がないから、野放図な教員の政治活動につながるのではないか」という発言からは、ただ単に自分たちの求める教育をしていない教員に対しての不満にしか過ぎないのではないか。これこそ偏向発言でしかない。また、安倍首相からは異論はなかったとの事であるが、やはり「同じ穴のむじな」である事が証明されている。これこそ偏向であり、問題としなければならない。

 他の安倍自公政権ワールドの政策についても上記の判断基準で考えると、「国旗国歌の掲揚を強制」する文科相が偏向しているのか否か、同じく文科省が「大学の人文社会科学系学部の廃止」が偏向しているのか否か、同じく文科省が「道徳」を教科化する事が偏向しているのか否か、などについては、明確に結論を出すことができる。また安倍自公政権ワールドは、「日本国憲法」を判断基準としていない事が明確に理解できる。憲法制定以後、自民党は少しづつ着実に国民の反対に対して、むき出しの権力と欺瞞によって対抗しながら「日本国憲法」体制を空洞化し、敗戦前の大日本帝国憲法への回帰をすすめてきたが、今日の安倍自公政権ワールドは最後の仕上げをする役割を担っているのである。

 日本の教育は、どんなに表面的には自由であり、民主的であるように装っても、「国家」に奉仕する教育という根本的な性格からそれてはならないものとされてきた。これは明治以来の日本の教育がもつ性格であった。

 有島武郎1921(大正10)年3月『自由教育』「一人の人のために」によれば、

「自由教育なるものも……それを実行に移すに少なからず困難を伴うと私は考える」「現代において、社会生活の内容が……一人の人というものが無視されているに近いからだ」、その当時の社会生活においては「国家に有用なものでなければ学問でも学問ではないのだ。(社会の)柱石のお役に立つものでなければ技術でも技術ではないのだ。僻見なしに物を正視しようという人間や、自分の天分を思う存分伸ばしてみようというような人間は、いわばわが教育当事者にとっては継子である」「小学校は中学校のために、中学校は高等学校のため、高等学校は大学のため、大学の目的は先ず第一に国家有用の人物をつくるにあるということになっている」「つまり人間になるのは二の次にして、始めから石や柱になりたがるものになる稽古をするのが当時の教育だった」とある。

(2015年7月13日投稿)

 

 

 

 


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