2016年9月28日から4泊5日で岩手県を訪問する。被災地訪問の事が大きく取り上げられているが、本命は国体開会式の出席である。被災地訪問は本来予定には入っていなかった。なぜなら、震災は5年前に起こった事からである。そのため、予定していた国体の件だけで素通りできなくなったのである。もちろん、被災地訪問は「同情行為」でしか過ぎないが、象徴天皇としてはその「慈悲」の顔をアピールして置く絶好の機会なのである。同情や「慈悲の顔」は「差別行為」と「同質」である事を分かっていないらしく。
天皇は第三者的な差別的な立場に立つ「同情行為」をやめるべきである。そして、自ら「原発廃止」に力を尽くすべきである。そうしてこそ「差別者の立場」から脱する事ができるのである。しかし、彼にはできないだろう。地位と名誉を捨てられないから。人間は「同情行為」ほど屈辱を感じる事はない。しかし、彼は良い事をしているとしか思えないのだろう。それは、彼の国民に対して持っている意識なのである。国民は彼らが自分たちと同様の感覚や意識をもち物事を判断していると考えてはいけない。
被災地訪問については、これ位にして、本題へ入る事にしよう。本題は天皇と国体の関わりの件である。この事については以前、別稿「天皇は憲法尊重擁護の義務を果たしていない。安倍政権は政教分離原則の空洞化を狙う」で詳しく書いているのでぜひ読んでください。
さて、天皇がなぜ「国体の開会式」に関わっているのかという事であるが、率直に言えば、1946年に国体が開始されてから今年で第71回目になるわけであるが、この間、天皇は開会式に出席するだけでなく、その際必ず、各都道府県に存在する「護国神社」へ参拝してきたのである。つまり、開会式に出席する事を口実に「護国神社」への参拝をしてきたという事である。「護国神社」が「靖国神社」の傘下にある事を考えれば、天皇が何の目的で参拝しているのかは自ずから明らかでしょう。
1970年の第25回大会は岩手県で実施されているが、その時は、昭和天皇皇后は岩手護国神社に対して、「幣せん料」を奉納し、参拝した。
10月1日は岩手護国神社の「秋季慰霊祭」となっており、そのように計画していたといえよう。天皇は10月2日には、宿泊地の花巻市から、国体会場である「北上市」ではなく、わざわざさらに北方の「盛岡市」まで出向き、そこから東北新幹線に乗車する予定である。その理由こそ岩手護国神社が「盛岡市八幡町」の「八幡宮境内」に存在するからである。
この行為は、憲法第20条「信教の自由」第1項「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」や、第3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という定めに「違反」しているのである。また、第99条「憲法尊重擁護義務」の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し、擁護する義務を負う」の定めに違反しているのである。
このような事から、天皇の「慈悲の顔」にこそ注意が必要なのである。
(2016年9月25日投稿)