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ヒトラー政権初の国会演説と全権委任法に基づく政治

2024-06-19 14:41:41 | 緊急事態

 1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領はこれまで受け入れてこなかったヒトラー首相に任命した。ヒトラーがヒンデンブルク大統領の息子オスカー・フォン・ヒンデンブルクと大統領府長官マイスナーを味方につける事に成功し、この二人が大統領を説得したからである。

 1933年3月21日、ヒトラーは政権掌握後初めての国会を開いた。ヒトラーの最初の国会演説は3月23日、クロル・オペラ劇場(国会議事堂は2月27日に放火消失?していたため)で行った。議場正面の壁は巨大な鉤十字の旗で覆い、ヒトラーはナチ党服を着て登壇した。この日は「4カ年計画」を示し、議会承認を必要としない立法権の行使をナチ政権に認める「全権委任法」案を審議した。

 この法案に反対したのは社会民主党だけであり、党首ヴェルスは「国民社会主義党の皆さんが社会主義的な政策を本当に行いたいのであれば、全権委任法は必要ではない。しかし、皆さんは皆さんの言う革命を継続するために、先ずもって国会を排除したいとの考えだ。全権委任法が成立しても、皆さんは堅固な理念を打ち砕く権力を手にできるわけではない」と反対演説を行った。ちなみに、この演説はナチ党政権下において最後の自由な演説となった。

 ヴェルスの演説に対しヒトラーは、「あなたたちが賛成票を投じる事を私も望みはしない。私はドイツを自由な国にしたいと思うが、あなたたちを通じてドイツを自由な国にしたいわけではない」と返答した。また、「個人的幸福の時代は過ぎ去った。熱狂した大衆のみが管理可能であり、感情のない鈍感な大衆は共同体にとって最大の危険である」と述べ、「平和か戦争かの決定を下してほしい」という言葉で演説を終えた。すると大喝采が起こり全員が起立し国歌を斉唱した。

 こうしてヒトラーは、4カ年計画を遂行するための全権を掌握し、独裁政治を開始した。5月10日には焚書、6月22日には社会民主党を非合法化し、7月14日には「政党新設禁止法」を発布し、ナチ党を唯一合法な政党とした。ヴェルスら社会民主党の幹部は亡命しプラハに拠点を置かざるを得なくなった。

 1933年6月には各地域にあったラジオ放送局すべてを国民啓蒙宣伝省(ゲッペルス大臣)管轄下の「全国放送協会」に統一同質化し、7月には、「全国新聞会議」も国民啓蒙宣伝省管轄下に入れ、ニュース解説の仕方言葉の使い方を規制した。10月4日には「編集人法」を制定し、編集に関わる事柄を国民啓蒙宣伝省の直接管轄下に置き、記事内容に対する規制を強化した。

そして、1933年10月13日に実施された国会議員選挙では、ナチ党員が全議席を独占した。

(2022年4月5日投稿)

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