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天皇のフィリピン訪問「おことば」;真の日比友好は「傲慢と欺瞞」の自省から始まる。

2023-10-25 08:24:02 | 皇室

 天皇は、2016年1月27日のフィリピンでの晩餐会にあたり、「お言葉」を述べた。これに触れて、思い浮かぶ事を書いてみたい。

 天皇は、「この度の私どもの訪問が、両国民の相互理解と友好の絆を一層強める事に資する事を深く願い……」と最後を結んでいる。ここには、国民各自がそれぞれの意思でフィリピン人と友好関係を築いている事に対して、天皇は自分の行動や言葉が影響を与えるものだと考えている事をうかがわせるが、この発想は「上から目線」で、敗戦前の神聖天皇主権大日本帝国政府時代のように、国民を低く見ている事を表しているものである。実際に友好関係を築く場合、天皇の行動や言葉はまったく関係がないと言ってよい。友好関係はそのような事を主たる要素として築けているわけではなく、個人と個人の人格が主たる要素となっている事は明らかである。時代錯誤も甚だしいし物事をよく理解していないし恩着せがましい発想であると言ってよいものである。また、天皇の行動や言葉を主たる要素とすれば友好関係が築けない場合が出てきたり壊れる場合もあるのである。つまり、天皇の「お言葉」は手前勝手で無味乾燥で薄っぺらで内容がなく「大きなお世話」であるという事なのである。

 国民のための訪問という体裁をとらず、現在天皇としてある自身が今回改めて友好関係を築きたいという体裁をとって、日比両国間の歴史に対する認識や立場を表明する事を通してその意志を伝えればよいのである。その内容がどのような評価を受けるかは別にして。その評価から天皇は学ぶべきは学んで行く事が大切なのである。

 フィリピンでは「独立運動の父」とされている「ホセ・リサール」の記念碑を訪れ、「武力でなく、文筆により独立への機運を盛り上げた人であった。若き日に彼は日本に一カ月半滞在し、日本への理解を培い、来る将来、両国が様々な交流や関係を持つであろうと書き残している。リサールは国民的英雄であるとともに、日比両国の友好関係の先駆けとなった人物でもあった」と述べている。独立運動は大雑把に言えば、「ホセ・リサール」がスペインによって1896年12月30日に「処刑」された後もアジア・太平洋戦争で日本が敗戦するまで続き、1946年7月4日に「フィリピン第3共和国」として米国から独立したのであるが、この人物だけしか触れず、他の人物や独立までの経過には一切触れていない。これは意図的になされた情報操作であり、国民に対する世論操作を狙ったものである。ここには天皇(安倍晋三日本政府)の考え方が表れていると言ってよい。また、米国政府の要請もあったと考えられる。なぜなら、その後、フィリピン独立運動を裏切った「米国」と侵略してきた「日本」が前後して植民地支配をし、フィリピンの独立運動に介入したからである。日本国民の前に改めてその事実がさらされる事により、戦前の米国や日本そして天皇についての真実の姿を知らせない知られたくない思惑があったのである。知らない事をあえて国民に知らせる事は彼らにとって都合が悪いという考えである。国民に対してひじょうに欺瞞的な態度であり姑息な考え方であり、国民を馬鹿にしているのである。

  1898年4月に米西戦争が勃発した。米国は戦争を有利にするために独立に全面協力する事を条件に、アギナルド」に米西戦争に協力する事を求めた。1898年6月12日に初代大統領として「独立宣言」を発した。1899年1月23日、憲法を公布し、「フィリピン第1共和国」を樹立した。ところが、1898年12月10日に米西戦争の「パリ講和条約」が締結され、米国がフィリピンの領有権を2000万ドルで獲得すると、マッキンリー大統領は「独立を拒否」し約束を反故にした。そのため「米比戦争」(1899年2月~1902年7月)となったが米国は鎮圧し米国の植民地とした。その間に殺害されたルソン島民は61万人以上で6分の1に当たる。

 1901年7月、米軍政から民政移管。07年、「フィリピン組織法」により、陸軍長官「タフト」により植民地化を進めた。その間、「桂太郎」日本政府は、米英両国と関わりを持ち、

 1905年7月、「桂・タフト協定」締結。内容は、①日本は、米国の植民地となっていたフィリピンに対して野心の無い事を表明。②極東の平和は、日本、米国、英国3国による事実上の同盟により守られる。③米国は、日本の朝鮮における指導的地位を認める

 1916年、「ジョーンズ法(フィリピン自治法)」を可決し、将来の独立が宣言された。

 1934年、フランクリン・ルーズベルト大統領の下で、「タイディングス・マクダフィー法(フィリピン独立法)」可決により、10年後(1944年)の独立を承認した。

 1935年9月、ケソン大統領の米自治領政府(独立準備政府)フィリピン・コモンウェルスが成立した。

 1938年2月、ケソン大統領は日本に対して「フィリピンの中立化」を布告した。

 フィリピンは米国から「独立」の確約を手に入れたのである。

 ところが、ここでハプニングが起こった。1941年12月8日に日本が米英に「宣戦布告」をし太平洋戦争を引き起こしたのである。1942年1月2日には日本軍はフィリピン・マニラを占領した。米軍は撤退し、ケソン大統領のコモンウェルスも米国へ亡命した。

日本軍政の実態について

一、1942年1月13日、日本軍は「死刑及び重刑」にあたる17の行為を発表した。①日本軍に対して反抗する者、②日本軍の重要秘密を流すもの、③スパイ行為をする者、④日本軍が使用している家・自動車等を破壊する者、⑤橋・道路・電信電話の装置を壊す者、⑥日本軍の命令に従わない者、⑦飲み水を毒又はその他の方法で汚す者、などである。

二、日本軍の残忍性。強姦された女性が逆立ちにさせられ、性器を銃剣で突き刺されて殺されたり、家族のいる前で犯される事もあった。日本軍にお辞儀をしなかったという理由で殺された。

三、1942年8月、「隣組」を設立。スパイ防止、抗日ゲリラ防止が本来の目的であったが、表向きは「平和と秩序を保ち、人々の生活を安定させる」事が目的とされた。

四、「ロロ」(スパイ・反日ゲリラに対する見せしめ)行為。それは「日本軍が村人を広場に集め(理由は知らせない)、顔や姿がわからないように(眼の部分だけを開けた)大きな袋をかぶせられた一人の男を連れてくる。その男は何人かの村人を指さす。指さされた村人は何日か後にいなくなった。殺されたのである。証拠もなく。

五、1942年2月17日、陸軍司令官が「教育に関する6項目」を発布。①大東亜共栄圏の一員としてのフィリピンの立場、「新秩序」建設の真の意味を理解させ日比友好関係を発展させる事、②米国、英国へ依存するという古い考えを一掃し、「新フィリピン文化」を育成する事、③民衆の道義を高め、物質主義を止める事、④日本語の普及につとめ英語使用をやめる事、⑤初等教育を重視し、職業教育を発展させる事、⑥労働を愛する精神を起こさせる事。そして、「君が代」を教えた

六、1942年2月26日、「教科書検定委員会」が作られ、「教育に関する6項目」に当てはまると思われる部分は「削除」した。例えば、「フィリピン、アメリカの旗」「フィリピンのコモンウェルス政府」「ワシントンの誕生日」「アメリカの通貨、度量衡」など。公立小学校では正しい英語ⅢⅣ」「必須英語5年、6年」「フィリピンの歴史」などの教科書の使用禁止

七、1942年9月1日、15週間の「先生訓練コース」を作ったが、その内容は「6項目に関する教育について」「体育」「フィリピンと日本の歌」「日本語」「日本歴史」などであった。

八、1942年11月、「日本語専門学校」を開設。このような日本軍の開校した「学校カリキュラム」には必ず「ラジオ体操」を入れた。その意図は、参加する事により「責任と協同の精神を養う」事であった。

このような日本軍政下で、「食糧不足」に見舞われ、「失業者が増大」した。このような状況が、「反日抗日ゲリラ」を生んだ。

  

 1943年10月14日には、日本は、「大東亜共栄圏」への参加と対米戦争への参戦を条件に、「ラウレル」を大統領として日本の傀儡である「フィリピン第2共和国」を成立させた。しかし、日本の思うような支配ができないだけでなく、「抗日ゲリラ」活動が益々盛んとになった。

 1944年10月20日には米軍が「コモンウェルス」とともにレイテ島に上陸し、45年2月から1か月間の「マニラ市街戦」をへて米軍は日本軍を制圧した。

マニラ市街戦(1945年2月3日~3月3日)などについて、天皇は「貴国の国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、この事により貴国の多くの人が命を失い、傷ついた。この事は、私ども日本人が決して忘れてはならない事であり、私どもはこの事を深く心に置き……」と述べているが、市街戦となった原因は「日本大本営」がフィリピン日本軍に「市街戦を命令」した事にあり、日本の最高戦争指導者の意識にこそ重大な問題があったのであり責任を問われるべきものであった事を国民は知っておかなければならない。国民の16人に1人、111万人が死亡したフィリピンでは毎年2月14日に追悼式が行われている。

 そして、「私ども日本人が決して忘れてはならない事」と「国民全員」を意味する表現で述べているが、これこそ国民は「不快感」を明確に表明すべきであると思う。なぜなら、加害者であり許しを請わなければならない戦争加害最高責任者(その子孫であればそれを継承する事は当然である)である「天皇」が、相手国に対して「加害者」(それは加害行為を強要される被害者といえる)となる事を「強制」した、又「加害行為」を「強制」(それに反対した国民を「非国民」として扱い「治安維持法」によって「刑罰を科し、今日なお名誉回復をも認めていない)した「国民」に対して、口にできるはずがない「傲慢さ」を表す「言葉」であるからである。このような「言葉」からは、「天皇」は「国民」に対して「罪の意識」「謝罪の意識」はまったく感じられないし、「加害」の責任を「国民」に負わせようとする意識さえ感じられる。これは敗戦直後の東久邇宮内閣が発した「一億総ざんげ」論の考え方につながるものであり同根のものと考えてよい。なんと、日本政府は間違いなく敗戦前の「神聖天皇主権大日本帝国政府」へ回帰している。なんと恐ろしい時代日本になってきた事であろう。なんと恐ろしい「天皇・安倍政権」であろう。彼らの常識は世界の非常識である。彼らは民主主義を大切に思う国民と同じ「土俵」には立っていない。彼らはその事にうろめたさも感じていない。国民が「欺瞞」と判断しても彼らは自分たちが正しいと信じているのであり、一つの宗教信仰の域に入っている。それは天皇教(国家神道)である。安倍晋三が天皇家と親戚関係にある事からも納得できる。説得して彼らが翻意するというようなものではない世界に住んでいるのである。国民はそのような政権の持続を許しておくならば「人権尊重を基にした幸せ」を守る事はできない。

 メディア、故意に以上の内容に触れない事も主権者国民は忘れてはならない。メディアは企業であり、経営上利益を損なう事はあえてしないという事も忘れてはならない。国民は思考停止に陥らず、常に科学的な思考を保ち、絶え間ない努力によって真実を知る事が大切である。

 メディアは、昨年11月、「加納莞蕾美術館」の名誉館長をしている加納莞蕾の娘佳世子氏が、昨年11月にフィリピン元大統領キリノ氏の孫娘ルビー氏と面会したと報じていた。今回、天皇はフィリピン訪問に際して、ルビー氏と面会したようである。何かを知る何かに関わるという事はその事に対して自己の責任が生じると考えるのが常識である。加納莞蕾は自分の言葉に基づいてどのように責任を果たしたのだろうか。佳世子氏は父親の言葉に対してどのように責任を果たしてきたであろうか。今日の安倍政権下の日本に対してどのように責任を果たしているのであろうか。その責任が果たせていなければ、莞蕾氏の言葉は「欺瞞」でしかなかったという事になり、佳世子氏もメディアに出てきた事は「欺瞞」の上塗りであり、メディアは加納氏やその娘佳世子氏を美談に仕立て上げたという「欺瞞」を行った事になる。天皇も今後どのようにその責任を果たすのかという事が問われる事になったのであり、それから逃れる事は出来なくなったのである。そうでなければ、キリノ氏ルビー氏フィリピンの人々は日本の政府やメディアなど国家挙げての「詐欺」にひっかかった事になり、改めて恨みを持つ事になるだろう。

加納莞蕾の言葉「許されざる者を許す事が日本人が過去を反省し、懺悔し、軍国主義を拒否する事になる」と訴え、BC級戦犯の助命減刑嘆願書をキリノ氏に送った。

※フィリピン国民の反対を押し切って助命減刑を決断したキリノ氏の日比両国民への声明「私は日本人戦犯に対し、特赦(議会の承認を必要とする「大赦」でなく、大統領権限で行える「特赦」にした)を与えた。妻と3人の子ども(2歳の娘は銃剣でとどめを刺された)、さらに5人の親族を殺された者として、自分の子孫や国民たちに、われわれの友となり、我が国に長く恩恵をもたらすであろう日本人に対し、憎悪の念を残さないために。結局のところ、日本とフィリピンは隣国となる運命なのだ」(1953年7月6日)。 

 これまでの日本政府又現在の安倍政府は、被害者の心を察する気持ちが極めて薄い。それは自分たちは正しいという「傲慢さ」にある。それを押し通すために「欺瞞的な手法」がとられる。それは対外国に対しても、日本の国民に対しても一貫している。そのために政府間の友好関係が築けないし、国民の権利を尊重しないという姿勢をとる。その根底にはアジア・太平洋戦争に関わる一切の事柄について、「自衛のための戦争」「アジアの解放のための戦争」「仕掛けられた戦争」であったとする認識を疑わず固執しているからである。彼らは天皇家と一体化しており、天皇家とともにあるから、自らの地位と名誉と財産を守るためにも、天皇家に戦争責任が及ばないようにしなければならず、「天皇制」を守り続けなければならない宿命にあるのである。

最後に、今回の天皇のフィリピン訪問は、安倍政権がすすめる「集団安全保障体制の整備」政策の一環として実施されたのである。

 1945年、日本の敗戦により、翌年の「米比マニラ条約」で、「フィリピン・コモンウェルス」の組織を引き継ぎ、1934年の独立の約束により「フィリピン第3共和国」(1946年7月4日)が成立し独立を達成した。

(2016年1月29日投稿)

追記助命減刑嘆願署名運動日本人戦犯家族が全国的に繰り広げ、新聞やメディアも取り上げ、日比親善人形使節が7万体の人形をキリノ大統領に贈届した。それに対し、キリノ大統領は「死刑執行は慎重に検討するが、一括減刑は考えていない。一括減刑は侵略行為を大目に見る事に等しい」と方針を発表した。しかしその後、大統領は、フィリピン国民の中に敵を作る事になったが、「日本は大きな可能性を秘めている。わが国はまだ成長の途中にある。2つの国は地理的に近く、切り離せるものではない。協力し合う事で我が国の力になるだろう。いつの日かまた親友に戻れる日がくるだろう」と考え、1953年6月27日大統領は「議会の承認を必要とする大赦でなく、大統領権限で行える特赦を与える事にした。終身・有期刑戦犯全員釈放死刑囚は終身刑に減刑のうえ日本に送還し、日本の刑務所で服役させる」と決断した。そして、同年7月6日に日比両国民に上記のような声明を発表した。

同年7月22日、108人の戦犯は全員帰国(横浜港)した。うち死刑囚56人は「巣鴨プリズン」へ移送された。

これに対しキリノ大統領は国民から「軽率な釈放で戦犯を無意味に帰国させた」と非難された。そして、同年11月10日の大統領選挙では対決候補であるマグサイサイに大敗した。しかし、キリノ大統領は任期切れ2日前の同年12月28日に日本で服役中の元死刑囚全員にさらに「恩赦令」を出した。同年12月30日、戦犯元死刑囚は全員釈放された。1956年2月29日、キリノ元大統領は65歳で死去した。

(2023年8月13日投稿)

 

 

 


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