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横浜連合生糸荷預所事件と渋沢栄一が果たした事

2024-04-07 10:11:21 | 渋沢栄一

 日米修好通商条約(1858年。露・蘭・英・仏を含め安政の五か国条約)は、日本に在留する外国人の治外法権(領事裁判権)を認め、居留地制度、関税協定制度(自主権なし)、一方的無条件最恵国待遇などの条項を含む、神聖天皇主権大日本帝国政府にとっては不利な不平等条約であった。治外法権を背景にした貿易取引上の外国商人の横暴が相次ぎ、成長し始めた日本の商人や製造業者との対立が深まったが、その代表的事件が1881(明治14)年の横浜連合生糸荷預所事件であった。この事件の収拾に主導的役割を果たしたのが渋沢栄一であった

 当時、生糸の輸出輸出総額中40%以上をしめ、代表的輸出品であった。しかし、輸出入ともに大部分は外国商人が独占しており、加えて治外法権を背景に外国商人不正不法が横行し、横浜の生糸売り込み相場は外国市場価格に比べて大幅な安値を余儀なくされていた。こうした状況に対して、1881年9月、横浜の生糸売り込み商人たちは、横浜連合生糸荷預所を設立し、生糸の売り込みをすべてこの荷預所を通じて行う事とした。

 この対応に横浜居留の外国商人は、荷預所から生糸を一切買わない事を広告したため、内外資本が全面衝突したのである。これを横浜連合生糸荷預所事件という連合生糸荷預所には、横浜の生糸売り込み商人のほとんどが所属した。そして、有力な売り込み商人であった渋沢喜作(渋沢栄一と従弟関係)、原善三郎、茂本惣兵衛、馬越恭平(三井物産)、朝吹英二(貿易商会)、らが役員となった。

 荷預所外国商人取引の弊習是正=商権回復を標榜し、銀行・運送会社や、各地の荷主たちが荷預所支持の運動を広範に繰り広げた。外国商人はこの事件をきっかけに、売り込み商人を排除し、国内の生産者・商人との直接取引を目論んだ。結局、11月18日、将来「共同倉庫」設置、それまで暫定措置として商館取引を認めるが、荷物預かり証などを内外商人が交換し、取引を合理化する、という和解約定書を取り交わし、一件落着した。

 この事件の収拾に主導的役割を果たしたのが渋沢栄一であったが、渋沢栄一など有力荷預所株主=売り込み商人は、国内の流通と生産を支配しようとする目論見をもち、この闘争の過程で、大資本(有力荷預所株主)中小資本の対立が生じたのを、大資本中小資本を犠牲にして外国商人と妥協をした収拾内容であった。

(2021年12月19日投稿)

 

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