ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「泥棒がねらう家、泥棒が避ける家」

2011-09-08 18:05:15 | Weblog
例によって図書館で、借りる本を書棚の前で選んでいたら、「泥棒がねらう家、泥棒が避ける家」という本が目についた。
それで借りて読んでみたが、内容的には以前やっていた地域ボランティアの防犯パトロールの内容と全く同じであった。
考えて見れば、泥棒という仕事も、人間が生きていく為に太古からある仕事なわけで、売春と同じで、人類最古の仕事と言えるに違いない。
そもそも、目の前にあるものをさっさと自分のものにする、という行為は魅力ある振る舞いだろうと思う。
一番簡単に、安易に、自己の欲求を満たす事が出来るわけで、だからこそ盗られた方は憤懣やるかたなく、恨みも深くなり、刑罰も重くなるものと想像する。
例えば、Aさんが粉骨砕身、一生懸命努力して集めた金銀財宝を、Bさんに一瞬の内に掠め取られたとすれば、AさんのBさんに対する恨みというのは察して余りある。
だから、そうなってはならじと、自分の得た財産は自分で守ろうと防御するわけである。
ところが我々日本民族というのは農耕民族で、農耕民族であるが故に人々はお互いの協力し合って、農作業を行い、稲の植え付けから刈り入れまで共同作業で行う事が習い性になっている。
だから、隣人の物を勝手に盗るという事は殆どなかった。
隣人の物を黙って盗るというよりも、お互いに貧乏であったので盗るものが最初から無かったという事が言えているのかもしれない。
だから日本の農村では、つい最近まで自分の家に鍵を掛ける、戸締りをするという概念すらなかったわけである。
しかし、これも同じ集落の中という狭いテリトリーの中で、お互いが顔見知りという状況であればこそ、家の戸締りをしなくても済んだが、不特定多数の人が出入りする状況では、不用心であった事は言うまでもない。
だが、自分の大事なものを盗られない様に保管する、という事は究極の自己責任ではないかと思う。
私も地域のボランティアー活動として、防犯と交通安全を呼び掛けて、車で町内を回るなどいうことをした事があるが、人から言われてする様なものではないと思う。
人から勧められて防犯対策をするような事ではないと思う。
防犯のノウハウは巷に溢れかえっているわけで、その気になればいくらでも参考書でも、防犯グッズでも手に入るわけで、それでも入られるという事は、入られる方がアホだったという事だと思う。
しかし、防犯と犯罪抑止とはいささか違う面があるように思う。
特に、海の向こうから日本を稼ぎ場として入ってくる専門の犯罪者となると、我々の常識的な対応では追いつかないのも無理はない。
世の中がグローバル化するという事は、こういう面でも一様にグルーバル化するわけで、そもそも我々の思考を越えた発想の犯罪となると、対処の仕様も従来の概念ではありえない。
海を越えて泥棒までが日本に来るという事は、日本がそれだけ豊かな国だという証拠であって、この地球上に富の格差がある以上、貧しい国から豊かに国に泥棒も移動する、と言う事は避けられないであろう。
だとすれば我々も、以前のように他者を善人と見る思考を替えて、「人を見たら泥棒と思え」という先人の智恵を真摯に受け入れなければならい。
とは言うものの、自分の大事なものは自分で守るべきで、人頼みではあり得ないと思う。

「悪口という文化」

2011-09-07 07:20:49 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「悪口という文化」という本を読んだ。
かなり学術的な記述であったが、面白かった。
人の悪口というのは基本的に面白いものだと思う。
しかし、人の悪口の面白さというものにも大きな幅があって、その面白さの本質は人によってかなり差がある様に思う。
人の悪口という意味で、今日の日本の低俗な週間誌というのは、有名人のスキャンダルを報ずる事で成り立っているようなものであるが、このスキャンダルの報道と悪口とは紙一重の違いだと思う。
だから、あの週間誌を見て本当に面白いと思う人と、ああいう内容には達観して、面白さなど何も感じない人もいると思う。
しかし、我々日本人は、こういう悪口で相手をののしる行為を、はしたない行為と認識しているのではなかろうか。
ところがこの本のよると、戦国時代の武将は、陣の先頭に立って、大音声で以て相手側をののしる事でもって、相手の戦意をくじき、味方の戦意を向上させると云うのだから驚きである。
鬨の声というのは理解できる。
これから決戦に向かうという時に、景気づけの為に一斉に嬌声を発するというのは、今でも選挙の時に見れる事であるから理解できるが、大将が大声で敵に罵声、悪口雑言を言いふらすというのは全く思いもよらない知見であった。
私は日本の戦国時代の大将たるもの、テレビのコマーシャルではないが「男は黙って……」というのが武士の美意識だと思っていたが、それは完全に間違っていたようだ。
しかし、この「男は黙って……」という美意識は、私にとってはまことに都合の良いフレーズである。
というのも、私は生まれつき極めて訥弁で、人と話をする時に当意即妙に言葉が出て来なくて、口ごもってしまうし、そもそも人前で自分の意を相手に判らせるという芸当が不得手であるので、ついつい寡黙になってしまう。
言葉が人の生き様に大きく影響を及ぼす事は重々判っているが、その意味からも、私はひとかどの人間には成り得ない事を自ら自覚している。
しかし、この本の内容に立ち返って、戦国時代の武将が大声で相手に向かって演説をする、その演説は当然の事、相手の戦意を殺ぐ方向に向かうことは至当であって、勢いその内容は相手の悪口になるのも当然の流れであろう。
相手を悪口で言い負かすという行為も、その元の所に、語彙の豊富さが重要な要素だと思う。
俗に「悪態をつく」と言った時、それは相手に悪口雑言を浴びせる事を指し示しているが、それをするにも語彙が豊富でなければ有効な口喧嘩にはならないわけで、下卑な言葉でも数多く知っていた方が断然有利である。
この本の中では、西洋の事例は述べられているが、中国の事例はほとんど述べられていない。
悪口雑言の応酬、口喧嘩という意味の悪口ということになれば、中国人に叶うものは他にないと思う。
夫婦喧嘩でも、わざわざ通りまで出て、自分の言い分を通行人にまで判らせようとする態度は、まさしく彼らの天与の性分だと思う。
この恥も外聞もなく、自分の主張の正当性を万人に知れしめようという発想は、我々の民族にとっては考えられないことで、想定外の振る舞いに映る。
唐突に問題が飛躍するが、言葉というのは統治や政治に大きく影響を与える要因を含んでいると思う。
先に述べた戦国武将の開戦での大音声でも、戦争という政治手法の一種のパフォーマンスなわけで、中国人の口喧嘩の妙も、明らかにそのまま政治に繋がっている。
我々の先輩諸氏の中には、立派な大学で教養・知性に磨きを掛けられた人が大勢居るにもかかわらず、相手の本質を見抜く人が極めて少ない。
中国人の口喧嘩というものを真剣に考察した日本人はほとんどいないのではないと思う。
彼ら中国人の論理は、我々のいうところの「風が吹くと桶屋が儲かる」式の、論理的に何の整合性もない事を延々とまくしたてるわけで、それに対して我々は「男は黙って……」ということになり、整合性のない話には付き合いきれないということになる。
最近の中国の、日本に対する態度は、明らかに「風が吹くと桶屋が儲かる」式の、何の整合性もない根拠で日本を突いておいて、政権交代したばかりの民主党政権の出方を探っているのである。
これも国際間の交際の仕方からすれば、まだまだ口喧嘩の段階で、腕力の行使とまでは行かないという見込みの上で、ジャブを繰り出しているということである。
こういう場合に、我々の政治下手、外交下手がモロに露呈するわけで、整合性の合わない無理難題を押し付けられた場合、そういう事例は速やかに国際会議の場に持ち出して、公の場で裁定を仰ぐという判断というか、決断というか、政治的判断、外交的判断をしないという点である。
2国間で解決しようとする余り、先方の口車に載せられてしまって、馬鹿を見るという結果を招いているのである。
日本人は語彙の豊富な民族で、一つの事象を表すにも、多種多様な言い回しがあると言われているが、話し相手を罵倒する言葉というのは案外少ないのではなかろうか。
ここにも我々の民族の民族性が現れていて、我々は、他者と相争う事を忌むべき事として、忌避する深層心理が民族的に内包されているので、そういう相手を罵倒する語彙があまり発達しなかったのだろうか。
それともう一つ、我々の持つ価値観の中に「品」とか「粋」とか「雅」という感性の事も合わせて考えなければならないと思う。
こういう概念に価値観を置くともなれば、余りも野卑は言葉、品のない言葉、下品な言葉というのは、その状況に合わないわけで、どうしても淘汰されがちである。
相手を言葉で言い負かすためには、どうしても強烈な負のイメージを伴う下卑で、野卑で、品がなく、卑しい言葉を連発しなければならないわけで、そういう言葉は、我々の感性には受け入れ難いことであったのではなかろうか。
喧嘩の時の言葉とは別に、人間の性器を表現する言葉には、様々な隠語が使われている事は、万国共通のようであるが、これは一体どういうことなのであろう。
性、セックスを新しい生命の元と見做すところまでは世界中の共通認識であるが、それが故に、敬い奉ることも万国共通であって、それに関与している器官を口にする時、その名称を言い表す言葉を、隠語に言い換えるということは一体どういうことなのであろう。
アダムとイブがイチジクの葉で前を隠したのは何故なのであろう。
そういえばアマテラスオオミカミに代表される日本の神様は、始めから衣のようなものをきていて、アダムとイブのように裸ではないのは何故なのであろう。
次世代を産みだす性器を、人目に曝さないという価値観は、如何なる民族にもある様で、それは性器の保護という意味も当然あるのであろうが、その部分が隠微な印象を継承しているという価値観も、どうも万国共通なようである。
だからこそ、そこをあたかも見てきたように言う事が、相手を罵倒する言葉として威力を発揮するのであろう。
生きた人間である限り、口から食物を摂って下から排泄することは万人に共通の事であるが、食事という行為は、皆で仲良く会話しながら摂ることが良い事だという認識も、万人共通のようだが、摂ったものを出す段になると、皆、嫌悪というか忌み嫌うというか、人知れず密かに行うというのも、恐らく万人共通であろう。
ところが、これもよくよく考えて見れば不思議な事ではなかろうか。
人間の構造を考えて見ると、食ったものを排泄する場所と、次世代を引き継ぐべき生稙の場所が極めて近い場所にあるので、だからこそ人目に曝さないように覆い隠すという理屈も、判ったようで判らない部分がある。
その部分を覆い隠すというのは、排泄の部分を隠したいのか、それとも生殖器官の部分を隠したいのか、果たしてどちらだったのだろう。
この隠すという行為は、人類誕生の時からある行為で、どんな未開な民族でも、その部分をモロに露出して平気というものはいないようだ。
だから他者は見てはならないものだ、隠しておくべきものだ、覆いを取ってはならないものだ、ということでそこを表す言葉が、直接的ものではなく、歪曲に表現するために、隠語が増えたのではなかろうか。
私自身も、スケベと言われれば強く否定はし切れない部分があるが、果たして人間の生殖器官を表す正式の言葉というのは、どれが真の言葉か判らなくなってしまった。
私のように極めてボキャブラリーの乏しい人間でも、それに関してはかなりの隠語を知っているわけで、その隠語の語彙の豊富さが、口喧嘩の時の有力な武器になる事は間違いない。
ただ我々日本人の美意識としては、どうしてもテレビのコマーシャルのように「男は黙っ……」という寡黙な方に価値観を見出しがちで、口から唾を飛ばして、下劣で、卑猥な言葉を機関銃のように発する態度に好感を持たないのが普遍的な事ではある。
多弁は、どうしても我々の価値観の中では、軽薄な態度に見られがちで、我々の仲間内では、以心伝心とか腹芸というものが大きな価値を見出す。
これは我々の民族、日本民族、大和民族という内輪の中では有効な意思疎通のツールとして成り立つが、異民族にたしては全く効果もなく、理解もされず、先方にしてみれば何を考えているのかさっぱり分からず、ますます疑心暗鬼を募られるばかりで、不信感のみを大きくなるという結果を招きがちである。
異民族に対しては、多弁で、言うべき事は口を酸っぱくしてまでも、執拗に主張しないと、先方の都合の良いように解釈されてしまいがちである。
このやり取りにおいては、口喧嘩の手法が極めて有効なわけだが、我々はその口喧嘩のノウハウに極めて疎いので、どうしても相手に打ち負かされてしまう。
西洋人でも中国人でも、有史以来、異民族との関わりの中で生きて来ているので、自分達の意思を相手に判らせるノウハウには長けている。
ある時は外交交渉で、ある時は実力行使の戦争という手法で、自分達の意思を相手に判らせるが、我々にはそもそも相手にこちらの意思を判らせる、ということ自体を理解していない。
自分が良いと思った事は相手も良いと思っていると勝手に思い込んでいる。
自分が相手の事を慮って行動すれば、相手はそれを好意を以て受け入れてくれる、と勝手に思い込んでいる。
自分がこう言い、こういう態度を摂れば、相手はどう思い、どう判断して、最終的にはどういうアクションを取るか、という思考回路が存在していないということだ。
しかし、言葉による言い争いというのは、政治とか外交交渉の場面で非常に重要な事だと思う。
人間同士の、お互いの相互理解というのは、言葉でしか出来ないことで、戦争という実力行使は、政治とか外交の場の最悪・最低の手法・手段であって、腕力で人々を屈服させるというのは、いわば腕白坊主の思考であって、餓鬼大将の知性でしかないということである。
真に悧巧な人間ならば、口先の言論でもって自分の祖国の国益を擁護し、人の褌で相撲を取るほどの才覚を自認すべきだと思う。
その意味で戦後の日本は既に66年間も戦争という事態に巻き込まれなかったが、それは当然の事、日米安保に守られていた結果ではあるが、此処で注意しなければならないことは、この66年間の平和は、日本の努力と国益で継続されたわけではないということである。
この66年間の日本の平和は、アメリカの国益に便乗していただけののことで、日本はアメリカの国益のお下がりを有難く受け取って、甘い汁を吸わせて戴いていただけであって、ただ単なる偶然の賜物であった に過ぎないということである。
我々は、自分達の平和志向の努力が実って、66年間も平和でこれたと思いがちであるが、これはアメリカの国策が日本周辺での戦争を回避させたのであって、それはアメリカの国益であって、日本の平和主義の成果であったわけではない、という事を忘れてはならない。
アメリカは、日本が少々アメリカの悪口を言ったとしても直截に反応して来る事はないが、中国と韓国は、すぐに反応を示してくるという事は、彼らの民族的特質として、日本に対しては異常に感情が高ぶるということである。
彼らは、我々と比べると明らかに口舌の徒であって、荒唐無稽な「風が吹くと桶屋が儲かる」式の整合性を欠いた議論が好きなわけで、整合性など全くなくとも、口から唾を飛ばして議論をする事が好きだし、それに長けている。
こういう部分では、我々とは全く価値観が合わないわけで、価値観が合わないという事を肝に銘じて、相手と付き合わねばならない。
ところが此処でも我々は相手の本質を善意に解釈しがちで、彼らに対して下手に出れば、つまり謙譲的な態度で出れば、相手はこちらの立場を慮って、少しは妥協に応じてくれるだろうと期待するところが、それが我々の側の認識不足という事に気が付かない。
中国人や韓国人には、謙譲の美徳という概念は最初から存在していないわけで、彼ら対しては、最初から喧嘩腰て事に当たらねば、こちらの言い分を理解しようとはしない筈だ。
最初から喧嘩腰で交渉に当たる、という話し合いの仕方は、我々は全く不得意なわけで、そこは言葉のよる戦争と考えなければならないが、我々の側はどうもそういう考え方にはなじめないままでいる。
言葉の応酬を繰り返している間は、その交渉が戦争と同じ駆け引きの場という認識に至らず、外交交渉と戦争はあくまでも別のものという風に分けて考えがちであるが、その部分こそ我々の側の浅はかな部分である。
我々の側にも立派な大学が沢山あり、そこを出た有識者が掃いて捨てるほど居るにも関わらず、中国人や韓国人の民族的特質に疎い人間があまりにも多すぎる。
彼らに対して、金さえバラ撒けば、一応は彼らも我々の顔を立ててはくれるが、やはり彼らにはの思考が抜けきれないので、金の切れ目が縁の切れ目という事も十分ありうる。
我々には「品」とか、「粋」とか、「雅」という概念が古来よりあるが、彼らにはそれに相当するものが果たしてあるであろうか。
彼らにあるのは金持ちと貧乏人という二種類の人間しかないわけで、

「江戸に学ぶ『おとな』の粋」

2011-09-05 07:33:10 | Weblog
図書館から借りてきた本で「江戸に学ぶ『おとな』の粋」という本を読んだ。
著者は神埼宜武という人だが、民俗学が専門らしく、奥付によっても詳細は不明である。
私自身、何故この本を手に取ったかと自問自答してみると、恐らく表紙の中にある「粋」という言葉が知性の琴線に触れたのではないかと思う。
「粋」という態様は、実に難しく、私ごときものが話の俎上に載せるべきものではないことは重々周知しているが、だからこそ自分なりの見識を示したい、という面も否定できない。
「粋」は江戸時代の「遊び人」の心意気を示すものであるが、ここで「遊び人」という言葉を使うと、今流に言葉でいえばプレーボーイと同義語になりがちであるが、そんな底の浅い表層的な表現では表せないもののだと思う。
まず第一に、相当な金持ちでなければならず、今でいえば堀江隆文とか、村上世彰とか、孫正義クラスのお大尽でなければならない。
そんじょそこらの遊び人ではないわけで、その事を頭の中に入れていない事には「粋」の話など出来ないように思う。
そもそも遊郭で遊ぶということは、そういう散在することを目的とした場所なわけで、ただ単に売買春の場所を提供するだけではないのである。
金さえ積めば何でも思う通りになる、などという安易な場所ではないわけで、そういう心がけの人は野暮天と言われて、こういう場でも軽蔑されるのである。
「粋」の対極に位置する言葉が「野暮」なわけで、廓での遊びにはやはり廓でのルールを順守して、そのルールに従って事を勧めてこそ、お大尽であり粋な遊び人と言われるのである。
この世界になると、もう我々ごとき庶民の在り様とは全く違っているわけで、その意味では住む世界が違うということであり、別世界だということになる。
しかし、庶民にはそれ相応の施設も別にあるわけで、分に応じた遊びをすればいいだけの事ではある。
けれども、江戸文化における「粋」という価値観は、一朝一夕では身につかないものとは思う。
この「粋」と言う概念は、「品」とも又違うような気がしてならない。
「粋」ではなくとも「品」があるという状況は往々にしてあるのではないかと思う。
「粋」は金に飽かせて身の回りの所持品に贅を尽くして憚らないが、「品」というのはこれとは逆に、数少ない持ち物の中から、如何に気品ある状況を醸し出すかに知恵を絞らねばならないわけで、金のあるなしとは関係ないと思う。
金はなくとも品のあるたたずまい、品に満ちた立ち居振る舞い、という事はあるわけで、その「品」というものは、にわか仕込みの付け刃では成り立たないものだと思う。
それに引き換え「粋」というのは、ある意味で自己顕示欲の発露であって、人の意表を突くことに、する側の智恵と知性がにじみ出るわけで、その為には見えない所に贅を尽くす事によって、人の意表をついて自己満足に浸る行為だと思う。
着物の裏地に凝ったデザインを使ったりする行為は、不良学生が学生服(ガクラン)の裏に凝ったりするのと同じ思考回路だと思う。
表から普通に見ればありきたりのものであるが、それが風に吹かれたり、裾が跳ね上がったりしたときに、ちらりとその裏側の派手なデザインが人目に触れる様に着こなす事が、粋な着物に着方というものなのであろう。
よって「粋」というものはどういう風に解釈したら良いのであろう。
「キザ」とはどこでどういう風に違うのであろう。
「粋」と「品」の良さを対比させても、粋な生き様という言い方はありうるし、粋な立ち居振る舞いという表現もありうるが、品の良い生き様というのは何だか少し妙だし、品の良い立ち居振る舞いというのは、女性に関んしては言葉としてありうるように思うが、何だかなじみが薄いような気がしてならない。
「粋」とか「品」という言葉は、もう今は死語になりつつあるわけで、自分でいくら粋がっていても、それ見る人が粋を全く理解していないでは、折角、「粋がって」も意味を成さないわけで、「暖簾に腕押し」、「馬の耳に念仏」になってしまう。
廓というのは、そういう事が理解し合える空間なわけで、そこで自分の財を見せびらかす事が、「遊び人」の真髄なのであろうが、此処での自分の財を見せびらかす手法にも、さまざまな手練手管があるわけで、そこに粋な人とそうでない人の差異が現れるのであろう。
私の生まれた年が、昭和15年、西暦でいえば1940年で、丸まる戦後教育を受けた世代で、遊郭とか色街というものを知らない世代である。
戦後の民主化の波の中で、売春防止法の施行によって、こういう行為そのものが罰せられる時世になったが、こういう廓とか色街の存在意義を全く理解し切れていない女性議員の音頭取りで、この法律が施行されるようになったと認識している。
売春という行為が褒められる行為でない事は言うまでもないが、金で春をひさぐ女性の存在というのは、人類の誕生とともにある行為で、それは女性の生き方の一つの道でもあったことは間違いない。
その女性の生き方を、第3者が不道徳と決めつける事は、知識人の驕りだと思う。
ただし現実の問題として、そういう生き方を選択する女性は、押し並べて教育を受ける機会も少なく、まともな教育も受けていないので、無知なるが故に男に騙されやすい。
よって老獪な女衒に騙され、搾取される機会が多い事も確かであろう。
そして昭和の初期の日本では、日本全体がまだまだ貧乏であった故に、農村地域では娘の身売りなどということもしばしばあったことも確かであろうが、そういう女性を救済するという意味での売春防止法であったと思う。
貧乏の象徴として、農村の娘の身売りという話がごく普通に語られるが、こんなアフリカの奴隷の売買のような人身売買が日本であったわけではなく、農村の娘さんも最初は下女奉公のような、まともな職業に就くために家を出るが、出た後で老獪な女衒に騙されて、苦界に身を落とすという結果になったものと推察する。
そのことは、この法案を推し進めた進歩的な戦後の女性議員達が、真の郭遊びというものに対して全く無知であったわけで、そういう色街がただ単に男性の精液のはけ口としか認識していなかったという事だ。
言い方を替えていえば、彼女達は日本文化、自分達の本質的な文化について全く無知であったということを如実に指し示している。
巷間に言いふらされていた根も葉もないうわさ話を真に受けて、人身売買を糾弾するかのような浅薄な正義感に駆られて、「売春婦は搾取されているから世直しをするのだ」というような根の浅い思考で以て、偽善に酔いしれていたという事だ。
「売春が良いか悪いか」という二者択一の問答になれば、悪いに決まっているが、悪い中にも人情の機微があるわけで、その人情の機微を全否定することが、戦後の進歩的な女性議員の知性の本質であったわけで、つまり彼女達は日本文化について何も知らず、封建主義という実社会の表層面にしか視点が向いておらず、我々同胞の生活、実生活についてはまさに無知であったということに他ならない。
知に溺れた頭デッカチなこういう知識階級に属する婦人議員は、青臭い女学生のような理想主義を追いかけまわして、多分、「粋」とか「品」という人間の本質を規定するような価値観は理解し難い概念ではないかと思う。
現実を知ろうともせずに、女学生の夢のような理想を、現実の政治の中に引きずり込んでも、人間性の真髄を知らない綺麗ごとの理念が、そのまま現実のものになる筈もなく、結局のところ偉大なるざる法になってしまったわけである。
ただし、江戸時代の郭にはその場にふさわしい雅の極致とも言えるような高度な女性の文化が醸成されたが、これも昭和の時代まで下がってくると必然的にその成熟度も退化して、下衆な人間の性のはけ口に成り下がってしまい、戦後の婦人議員が金切り声を上げざるを得ない状況まで品位が落ちた事は否めない事実だと思う。
端的に言えば、花魁と遊ぶにふさわしい「粋」と「品」を兼ね備えた「遊び人」が居なくなったという事だ。
それは金の面ばかりではなく、「茶屋遊び」という本質、あるいは江戸情緒に満ちた文化そのものが廃れたということではないかと思う。
江戸時代を経て明治、大正という近代化の波の中で、遊ぶ場所も、遊び方も、遊ぶ人も、昔のようにならなくなって、退化してしまったと言うことだと思う。
大正時代から昭和の初期にかけては、糸へん成り金とか、船成り金と言われるような成り金という金持ちが数多く誕生したが、こういう成り金が遊びの本質を下方修正したように思う。
成り金と称せられる人々は、元々が教養・知性を欠いた人たちで、そういう人がたまたま幸運に恵まれて、当たりくじを引いたようなもので、その氏素性の卑しさがそのまま遊びにも出る。
廓の基準からいえば「野暮」そのものであるが、時代が変わって、そういう粋人が居なくなったとなれば、遊ばせる側も、やはりカネ儲けだし、食って行かねばならないので、どうしても客に妥協せざるを得ず、お高くとまっては居れなくなったのであろう。
近代化の結果として、世の中にはサラリーマンが多くなって、この時代の職業軍人も基本的にはサラリーマンなわけで、とても粋人のように遊ぶというわけにはいかなくなった。
話を飛躍させて、江戸時代の文化で今の我々が見習うべき事はやはりリサイクルの思想であろうと思う。
これを当時の人々は「始末」という言葉で表現していたようであるが、別の表現を借りれば「もったいない」という言い方も成り立つと思う。
今の我々がゴミの山に苦しまされている最大の理由は、自然に還元できない材料を使っているからだと思う。
プラスチックとか合成樹脂とか、こういうものは簡単には自然に戻せないわけで、今のゴミ収集のさいに不燃ゴミとして扱われている物は、基本的には元の自然に戻せないわけで、無理やり焼却処分すればしたで、またまた有害物質を放出するわけで、そういうもので囲まれて今の我々は生きているのである。
江戸時代の末期、アメリカのペリーが黒船4隻で浦賀に来た時には、我々の同胞はさぞかしびっくりしたに違いない。
その当時、江戸時代の我々は、船といえば和船しかイメージとして浮かばず、それは木造であったわけで、それが鉄で出来た船ともなると、恐らく驚天動地の事であったに違いない。
それがきっかけで我々は近代化にまい進したわけであるが、その過程において、様々なものを作る段になると、その素材の選択も大きく近代化に影響を及ぼすようになった。
その時には、その素材が廃棄処分する時の事まで気が回らず、当座の近代化、合理性にのみに気を奪われていたという事が言える。
私は20年ほど前、ひなびた漁村を訪れた事があるが、その時の光景は見るに忍びない有様であった。
というのも、その漁村には壊れた小さな漁船が海岸べりに放置してあったが、それが全てプラスチックか、あるいは合成樹脂の船なので、燃やすに燃やせず、腐らせるにも腐らせず、ただただ不燃ゴミとして山積みしておくほかない光景を目の当たりにして愕然とした記憶がある。
不燃ゴミの問題は、すべからくその素材の問題だと思うが、その意味で、江戸時代にはそういう当時の技術で処理できない素材というものが無かったに違いない。
衣類なども、その素材ごとに徹底的に再利用したわけで、社会そのものが、すべて再利用可能な素材で成り立ってので、江戸という町、いや大阪でも、堺でも、全て当時の街、都市は、今以上に清潔であったかもしれない。
その中で面白い話は、し尿処理の組合があって、利権構造が既にこの時代からあったという点は、非常に興味深いものだと思う。
人が口から食物を食べて下から出すということは、貴賎を問わず必然的なことなので、どうしても排せつしたものを処理するという行為が付きまとう。
しかし、こうした排泄物は農作物にとっては大切な肥料でもあるわけで、農家にとっては欲しくてたまらない代物であった。
街の住人にとっては不用なものでも、欲しい人が居る限り、資本主義社会が自ずと出来上がって、需要と供給の原則が成り立つようになり、それが商品価値を産むわけで、此処に利権の生ずる元が横たわっていたわけである。
一旦利権が確立されると、後は統治する側とされる側の、キツネとタヌキの化しあいの体を成すわけで、それは見ようによっては今日まで引き継がれているように思う。
しかし、庶民の再利用に掛ける情熱というのは、実に涙ぐましいもので、そこに人間の知恵の極限を見る思いがする。
当然のこと、ものの再利用というのは、馬鹿では思いつかないわけで、ある程度使い込んで、「もうそろそろ限界だな」と思った時、「さて後はどうするか」というアイデアは、知恵と才覚という以外それをフォローするものはないわけである。
使えなくなったから捨てると云うのならば、馬鹿でもチョンでも出来るが、「本来の機能は失われたが、何か他のものに再利用できないか」と、知恵を絞るのは、その人のもつ才覚以外の何ものでもない。
それを後押しする思考が「もったいない」という発想だと思う。
ここで急きょ価値観を回復した「もったいない」という言葉の意義を再認識させ、我々の民族としての根源的意識を再確認する動機づけをしたのが、アフリカのケニアの女性、マータイさんである。
私自身アフリカのケニアなどに行った事はないが、恐らく未開発の混沌とした街、開発途上国の典型的な所だと思うが、そういう地から先進国に来て見ると、あらゆるものが捨てられている様子を見て、「ああ、何ともったいない」と心底思ったに違いない。
捨てられているゴミを見て、「工夫すればまだ何とか再利用できるのではないか、これを捨てるのは余りにももったいない」と心から思ったに違ない。
江戸時代の我々の先人たちは、そういう事を全く意識せずとも既に実践していたわけで、そういう生活態度を放棄したのが戦後の経済復興であった。
物事の変遷を経済の面から捉えれば、スクラップ・アンド・ビルドこそ経済発展のけん引力だと思う。
作っては壊し、壊しては作るというサイクルこそが、経済発展の根源だと思うが、現代になるとその壊すという部分で、壊し切れない素材を使うようになったから、不燃ゴミが出るようになったのではなかろうか。
木製の船より鉄製の船の方が丈夫で長持ちするであろう。鉄製の船よりプラスチックの船の方が安くて運動性が良いから買い替える。という発想が基底にあるからこの世が不燃ごみで埋もれかかっているのだと思う。
木造の船なら燃やしても灰まで利用出来るし、鉄製の船ならもう一度溶かして再生出来るが、プラスチックでは何ともしょうがない。
江戸時代には、我々の同胞は「始末」という言葉で徹底的にものを大事にする生き方をしていたが、それが大量生産、大量消費の風潮に押し流されてしまったというのは、我々の民族の中で、魂の在り方に大きな変化があったのではないかと思う。
我々は、やはり西洋流に合理化された生き方を、何となく良いものと認識していたが、西洋の文物を我々の手本とすべきだ、という発想の根源に既に日本文化を否定的に見る潜在意識があったのではなかろうか。
我々は、西洋文化に接した途端から、既にその合理性に圧倒されて、コンプレックスに苛まれてしまったということではなかろうか。
それは当時の我々の同胞は、西洋の文物を見るのも触るのも初めての経験なわけで、他を知らないから比較検討することが出来なかったので、何でもかんでも一度は真似してみる他なかったという事だと思う。
我々が考えなければならない事は、最初は確かに見た事がないものを見たわけだから、真似する他なかったが、それが一通り普及した後も、最初のインパクトを克服しきれず、そのままの状態を継続したということである。
今ある状態は、一刻一秒とも前と同じ状態ではありれず、常に変化し、変わっているという現実を認識し切れなかったということだと思う。
こういう認識を欠いている、ということは極めて子供っぽい思考でしかないという事で、相手の心情をさっぱり解さない唐変木ということになり、極めて「野暮」ということでもある。

「昭和恋恋」

2011-09-04 07:09:00 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「昭和恋恋」というを読んだ。
山本夏彦氏と久世光彦氏の共著というか、写真をふんだんに使ったエッセイ風な文章であって、非常に読みやすい本であった。
山本夏彦氏は大正4年生まれ、西暦でいえば1915年生まれ、久世光彦氏は昭和10年生まれだから西暦でいえば1935年生まれである。
私が昭和15年生まれで西暦でいえば1940年生まれである。
まさしくその生涯の大部分で昭和の時代を生き抜いてきたことになるが、奇しくも私は今年の夏、自分の母親の、私自身の育児日記というものを読む機会があった。
昭和15年に私を産んだ母親は、大正元年生まれで、西暦でいえば1912年ということになり、私は母親の28の子であって、当時としてはかなり遅い結婚であり、出産であったようだ。
この母親がその当時つけていた日記を読んでみると、当然のこと、その当時の社会の事も垣間見れる。
最初に、物資の統制の事があって、炭の配給のことから、たまたま買い置いた炭があったので、正直に申告すればバカを見るから、いくらか誤魔化して申告するという生活観のにじみ出る事が記されている。
私の生まれた昭和15年という年は、まだ日米戦争は始まっておらず、世の中は好景気に浮かれていたとも言われているが、今あの戦争を振り返ってみた時、こういう平和な時に我々は何をどのように考えていたのか、という事を真摯に考えなければいけないと思う。
戦争が始まってしまえば、その後、考えるべき事は、勝つ事しかないわけで、「如何に勝つか」を戦争指導者は考えなければならない事は言うまでもない。
だが、この平和な時にこそ「万一戦争になったとき、如何に身を処すべきか」という近未来の事を考えなければならなかったと思う。
こういう発想は、我々の日本民族の中に、昔も今も果たしてあるであろうか。
それに引き換えアメリカは、日本が対米交渉で如何に妥協案を引き出そうかと模索している最中にも、対日戦の構想を練り上げていたわけで、「日本を如何に料理するか」ということが最初から政策決定という丼の中に入っていたのである。
日本が日米交渉で如何に妥協しようとも、彼らの目的は、日本を戦争に引き込むことであったのである。
私がここで言いたい事は、日本の昭和初期のこの好景気の時に、世界戦略という大風呂敷の構想を考える度量が無かったということである。
そもそも好景気だと、それに溺れて自分の身の程をわきまえずに尊大に振舞う、というの思想から荷け切れていないところに我々の民族の浅はかさが漂っている。
これは戦後復興を成して、アメリカに次ぐ経済大国になったと云われた時にも、同じ構造パターンを呈しているわけで、まさしく身の程をわきまえない驕り高ぶった立ち居振る舞いを、恥ずかしいと考える知性さえも失った証拠である。
日本とアメリカは、その国力の差をGDPで表される以上に隠れた差異があるわけで、その隠れた差異を我々日本人は未だに見落としている。
私も丸々戦後世代の人間であって、自分でも軽佻浮薄なアメリカかぶれと自認し、ジャズを好みアメリカ映画の好きな人間であるが、日本人とアメリカ人の本質の違いは充分に判っているつもりである。
アメリカに移り住んで英語を自由自在に使いこなしても、日本人とアメリカ人の本質の違いを指摘する人はいない。
その本質の違いとは、発想の相異であって、日本人とアメリカ人では、同じことを成すにも発想の原点が根本的に違っている。
既に述べたように、日本とアメリカが真っ向から正面衝突をして、戦争になるかもしれないという時、我々の側は、その戦争を出来だけ回避しようと、天皇陛下を始め政府要人から戦争指導者まで、最期の最後まで開戦回避を願っていた。
ところがアメリカ側は、それとは全く反対の行動を取っていたわけで、早々に対日戦の戦争プランを立ち上げて、それをオレンジ作戦と称して、日本を罠に掛ける事をもくろんでいたではないか。
問題は、我々の同胞の中にも、「アメリカと戦争しても勝ち目はない」ということがわかっていながら、それを言葉と態度に表す事が出来なかった政治風土、社会風土、民族的特質の存在である。
物事の本質をつまびらかに開陳すると、その人を疎ずる政治風土を、深く、仔細に、掘り下げねばならないが、我々の同胞の中でこれをする人は一体誰なのであろう。
あの昭和の初期の時代に、我々の同胞の中でも、アメリカと戦争して勝ち目はない、中国から手を引かなければ アメリカがしゃしゃり出て来るという事がわかっていた人も大勢いると思う。
そういう人に発言の機会を与えず、黙らせてしまったのは、いうまでもなく軍国主義ということになるが、それはやはり我々の国が、国全体として冷静な知性と理性を失ってしまっていたということではかと思う。
この二人の論者も、昭和の初期の日本は景気が良くて、国民はのびのびとしていたと述べているが、のびのびとしていたという点に危機感の欠如と、近未来への思考の怠惰が潜んでいたのではないかと思う。
つまり、中国戦線で「勝った勝った」という戦勝気分の本質を考える事もせず、ただただそのムードに酔いしれて、点と線の勝利でしかないものを中国全土を征服したような気で見ていたのではないかと思う。
こういう時の政府や軍部の対応は、全てが泥縄式の対処療法であったわけで、計画性は全く無く、その場その場で付け刃式の政治であり、戦争指導であったという事だ。
これは今でも我々の民族では改善し切れておらず、今回の東日本大震災における東京電力の福島原子力発電所の対応でも、見事に従来の我々の手法を踏襲しているではないか。
話が大きく飛躍してしまったが、私も昭和の時代を生き抜いた人間の一人ではあって、物事が変化するということは、人間が生きている限りついて回る事だと思う。
それは文化のバロメーターでもあると思う。
近代文明が発達して、我々の生活が便利になったので、本来の人間性が阻害されるというのは、知識人の傲慢な思考だと思う。
この本に載っている写真を見ていると、今の我々の生活は隔世の感がする。
この本の表紙の写真は、金魚売りの周りに集まったお母さんとその子供の姿であるが、この子供こそ私と同世代なわけで、この時の子供が成人して、コンピューターで文章を綴ったり、携帯電話でメールを打つなどという事が想像し得たであろうか。
私自身についていえば、私が小学校の6年生、あるいは中学生、あるいは高校生の時でも、今の私の生活は想像だに出来ないことであった。
自分が、自分の家を持ち、自分の車を持ち、自分のコンピューターを持つなどということは、想像だにできなかった。
文化がこれだけ進化すれば、その弊害も当然あると考えなければならないし、その進化について行けれない人のやっかみの感情も無視するわけにもいかない。
そいう人が進化の裏側をことさら強調するのも、トータルとしては人類の平安に寄与している部分もあるには違いない。
しかし、昔の事が懐かしく思われるようになったということは、自分が年取ったという事と同義語なのであろう。
だが、回顧からは新しいものは生まれないのではなかろうか。
昔の事を回顧して懐かしがっているだけては何にもならないと思う。
歴史から何かを学ぶという意味での回顧ならば意味があるが、人間の生き様というのも案外面白いもので、歴史から教訓を得るということは案外難しく、人は前例を踏襲しがちである。
昭和の軍人は、日清・日露の戦役の成功事例のみを手本として、失敗から学ぶということをしなかったが、この点でも我々とアメリカ人の発想の相異を検討することが可能である。
成功事例を踏襲するということは、「同じ柳の下で二匹目のドジヨウを狙う」と言うのと同じことなわけで、そんな事がありうるわけがないのに、それに終始するということは一言でいえばバカだったということである。我々が成功事例を踏襲しようと考えることは、安易な方法で事に当たるということを指し示しているわけで、その時、相手は彼らの失敗事例から何かを学ぼうと考えているわけで、ここに発想の相異があり、この発想の乖離は結果として大きな影響が出ると思う。
それは別の言い方をすると、現実を直視して、その現実を深く深く考察して、そこから何がしかの本質を探り当てなければならないということである。
我々の戦争前の体験も戦後の体験も、現実を直視することなく、思い込みに陥り、ありもしない虚像に目を奪われ、無責任なメディアに翻弄されたということに他ならない。
この本の中に、防火演習の話が出ているが、これは町内会が主催する今でいえば避難訓練であるが、これの音頭取りというのが、それぞれ町内の長老的存在の年寄りであった。
ところが、この連中が極めて単細胞で、上から言われたことを、事の他、厳格に順守しようとするので不評を買っていたようだ。
そもそも1万メートルの上空から落とす爆弾に、バケツリレーやハタキで対応しようという発想そのものが最初から陳腐なわけで、それに病弱者や老人まで一様に参加させようということからしてナンセンスそのものである。
昭和の時代において、もっとも不可解な事は、私に言わしめれば、あの終戦の日、昭和20年8月15日という日においても、日本の軍人の中の一部の者は、本土における徹底抗戦を心から信じ切っていたという事実である。
あの東京の焼け野原を自分の目で見ていながら、それでも尚徹底抗戦をしようという、旧大日本帝国の軍人の発想は一体どこから出て来たのであろう。
こういう考え方の軍人、高級将校、高級参謀があの戦争を指導して来たと考えると、我々は負けるべくした負けたと言わざるを得ないではないか。
国を挙げての戦争が、軍人の面子の維持の為の戦争に成り変わってしまっていて、天皇陛下の戦争でもなければ、日本国臣民の為の戦争でもなく、ただ大日本帝国軍人の軍人の為の戦争であったとしか言い様がないではないか。
その事を考えると戦前の日本の政治は実に愚昧だったと言えるが、この愚昧さは戦後も同じように続いていたと思う。
それはそうだと思う。
戦争に負けたからといって、日本人がすべて入れ替わったわけではなく、中味の人間は合いも変わらず日本民族の生き残りであったわけで、そうそう大きな変革を経験したわけではない。
確かに戦前と戦後では我々の価値観は大きく変わって、その変わり様はまさしく180度、真逆に変わったといっても良い。
ただしここでも我々の変革は、表層面の上面の変革だけで、本質は全く変わってない。
その部分に民族としての普遍的な潜在意識が潜んでいたに違いない。
戦前の我々の同胞の思考は、完全なる軍国主義で満ちあふれていたが、戦後はこのベクトルが逆向きになって、平和主義というか左翼思想に被れてしまって、左翼的な言辞を弄さないものは人であらずという風潮になった。
この考え方の変化の原因は、要するに、我々は自分の頭でものを考えないということに他ならないわけで、人の言辞に左右されて、右に行ったり左に行ったりと右往左往するということである。
昭和の時代が63年間続いたということは、今現在、戦後66年を経た事を考えると、大きな時空間の流れであったと思う。
その中には、昔はあったが今は廃れて目にしなくなったものも当然数えきれないほどあるわけで、それを見て懐かしむということは完全に懐古趣味である。
ここで考えなければならない事は、廃れたものにはその理由があると思う。
例えば、日本人の主食はコメの御飯と熱いみそ汁であるが、これは我々が殆ど有史以来引き継いできた食文化だと思う。
これが21世紀の現在においても廃れないというのは、それだけ人々の期待を担っているからだと思う。
それでも米以外の食材の押されて、米の需要そのものは下降線をたどっているらしいが、日本人の食材から米がなくなってしまうということは多分ありえないだろうと考える。
今まであったものがなくなるということは、それだけ人々の心がそれから離れたという事で、その意味では趣向の変化、思考の変遷という問題も大いにあるわけで、この変化のサイクルが近代文明の隆盛の見えざるエネルギー源であったと言わなければならない。
例えば、身の回りの誰かがテレビを買う。隣近所の人もそれが欲しくて欲しくて仕方がないが、すぐに買うという訳にもいかず、しばらくの間はそのテレビを見させて貰わざるを得ない。
だが、「自分も頑張って自分のテレビを買おう」と考える事が、戦後の日本の経済成長の基底の部分に流れていた潜在意識だと思う。
日本の戦後復興とそれにつづく高度経済成長はこうして実現したに違いないが、問題は、その後の我々の身の処し方にあったわけである。
『坂の上の雲』を目指して一目散に切磋琢磨している間は、人々の努力はした分だけ見返りがあった。
ところが、峠の頂に自分が立ってしまうと、さて次は何をすればいいのか皆目分からないという状態になってしまったのである。
我々の身の回りでも、家も作った、車も持った、テレビも買い替えた、大型冷蔵庫も買い替えた、海外旅行もそれなりに行った、さて次の目標は何に定めようかという時に、その目標が設定し切れていないのが今の日本の低迷の原因だと思う。
人間社会の栄華盛衰ということは、矢張り、如何なる民族や国家にもついて回る事で、繁栄が頂点に達してしまえば、後は下り坂を転げ落ちるのが世の習いだとは思う。
私の世代がまだ若かった頃、昭和30年、1950年頃、イギリスの社会福祉が「ゆりかごから墓場まで」と言われて称賛の的であり、我々もそれを目指して福祉を充実させなければというわけで、それこそこの場面でもコンプレックスに苛まれていたが、結果として福祉の充実は人間を怠惰な思考に向かわせたわけで、人々の善意が悪意のある人間に食い物にされてしまって、サッチャー首相の福祉の見直しをせざるを得ない状況に追い込んでしまった。
国家が、弱者救済という大義名分で貧者に金をばら撒くということは、人間の基本的な自尊心を踏みにじる事だと思う。
昨今の日本の知識階層の福祉に対する見識は、ただただに人気取り以外に何の意味もないプロパガンダに過ぎない。
帝国主義はなやかりし頃の植民地の映像であろうが、コロニアル風の家の玄関先で、西洋婦人が硬貨をばら撒くと、現地人の大人も子供も群がってそれを拾う光景を見た事があるが、今の知識人の言う福祉、つまり国が国民に金をばら撒くということは、この映像と同じなわけで、貧乏人に金をばら撒くことによって人望を得ようと画策している図である。
それに群がる国民も、そんな端した金で、自分の魂を売り渡していることに気が付かず、当座の小使いを得た事で喜んでいるのである。
21世紀の日本人の心の内がこうである限り、日本の復興、リニューアルはあり得ないと考えなければならない。
第2次世界大戦が終わって、東西冷戦が終わって、中国が経済成長を達成して、世の中は大きく変わった、この大きな変化の中には、日本の変化も内包されているわけで、21世紀の日本の存在意義は限りなく小さなものになって、地球上に、世界規模でみて、日本という民族の存在意義は無に帰すのではないかと思う。
アメリカには白人も、黒人も、ヒスパニックも、中国人も、あらゆる民族が内包されているが、その一人一人は全てアメリカ人であり、アメリカの市民である。
21世紀の日本も、あのアメリカ合衆国と同じように、国の主権とか地方の自治ということは成り立たず、ただ単なる烏合の衆以外の何ものでもなく、ただたんに人間の集団であって、統治という機能が存在しない集団に成り下がっているのではないかと思う。
別の言葉で表現すれば真のグローバリズムということになり、究極の無国籍者ということになる。

「褌の旅」

2011-09-03 06:26:24 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「褌の旅」という本を読んだが、著者は越中文俊という人で、当然これはペンネームである。
本名は南正時という人だ。
本人のいう職業が旅行作家という事で、方々を旅して歩くことが職業だとして、その旅先において人々が如何に褌と関わり合っているかという事がこの本の主題となっている。
しかし、人間の生活圏内において、物事の流行りすたりがあるというのは、人間の合理性の追求がその根源にあるように思われてならない。
我々が何故に褌を捨ててパンツを履く様になったか、と改めて問い直せば、矢張り、パンツの方が生活の上で合理的だと思ったからだと思う。
大勢の男性の中には、当然、パンツよりも褌の方が好きだという人がいるのも当たり前の事で、そういう人の数が少なくなったから敢えてこの著者が古の褌の良さを強調せざるを得ないという事なのであろう。
この著者は、外国に行く時も、和服を一式携えて行くと述べているが、これは見上げた精神だと思う。
まさしく大和魂の発露のように見える。
日本の伝統を、どうどうと異国人の前に披露すると言うことは、肝の据わった大人の行為だと思う。
我が家の家内と娘がトルコに旅行した時、矢張り和服を一式持参して、先方で世話になった家庭で披露し、その家庭の幼い娘さんにも試着させた事があったが、こういう行為こそ、真の国際理解の端緒だと思う。
我々は明治維新であらゆるものの考え方を西洋風にすることが文明開化だと思い違いをしてしまったが、これは我々の民族が、物事の本質を見極めるのではなく、表層の変化に身を委ねがちで、薄っぺらな表層の変位のみに気を取られるから、処世術を間違えるのではなかろうか。
先に述べた風呂の話の中でも、我々は、元々男女混浴であったが、それを西洋人から「野蛮だ」と言われると、真っ先にその混浴を禁止してしまった。
この話に関連して、我々の持つ羞恥心も、この明治維新の時に入って来たキリスト教文化圏の価値観に大きく揺さぶられて、羞恥心そのものも大きく変化したのではなかろうか。
江戸時代の職人は、その大部分が褌一つで大手を振って仕事をしていたように思う。
飛脚から駕籠かき、川越人足から普通の大工まで、仕事着といえば褌一つであったのではないかと思う。
その恰好を見た西洋人、要するにキリスト教文化圏の人々は、我々を野蛮人と同一視したのも無理はない。
近代化という事は、そういう状態から如何に脱皮するか、という事だったと思う。
我々は、キリスト教文化圏の人々から「野蛮」と言われる事が事の他恥ずかしかったわけで、その状態から一刻も早く脱皮して、西洋人と同じ生活スタイルを獲得したかったのである。
キリスト教文化圏に対するコンプレックスを持たずに、自分達は自分達の生き方に変えるつもりはないという選択をしたのが、アフリカのマサイ族や、アマゾンの奥地の現住民や、ポリネシアのアポリジニと言われる人々だが、そういう人たちは今でも野蛮人と思われている。
日本の褌という、衣装というか、下着というか、身だしなみというか、この小さな布切れも、こういう野蛮人の一種の象徴でもある様に思う。
そもそも褌というのは、男性性器を覆い隠すもので、何故そうするのかと問い直せば、当然の事、男性性器を保護することが第一の目的だと想像する。
男性性器を保護するということは人類の普遍的な思考であって、如何なる民族でも共通した概念であって、それが大和民族では褌であり、ポリネシアのアポリジニでは腰蓑であり、寒いヨーロッパではズボンなり、パンツというものになったと想像する。
ならば江戸時代の日本男性の褌も、日本民族の生活の知恵であったわけで、この本の表紙に描かれている尻ハショイして、褌が見え隠れする姿を恥ずかしいと思い、そう感じる感性は、文明開化で醸成された新しい認識なのではないかと考える。
こういう姿を西洋人が見て、「何と野蛮なことか」と言われたので、我々は「ああいう格好は野蛮で下品な振る舞いだ」と思い込んでしまったに違いない。
我々の仲間内ならば、何の違和感も持っていなかったものを、西洋人というエイリアンから「何と野蛮な破廉恥な行為か」といわれると、それこそコンプレックスに苛まれてしまって、自制心を失ってしまったという事だと思う。
我々の場合、この時のカルチャーショックが、次なる飛躍のエネルギーに昇華して、西洋列強に追いつき追い越せれという国民的合意形成になった事は言うまでもない。
その中で、西洋文化の表層面のみを見聞きして、その部分だけで追いつき追い越せとたち騒いだが故に、もの事の本質を極めないまま、その表層面にのみに振り回されている部分がかなりある。
恥の概念においても、西洋人と我々の間には大きな乖離があって、必ずしも価値観が合致しているわけではなく、むしろこの価値観の相異、価値観の位相が対立の原因になっている節がある。
我々は、近代化の手本として西洋列強を見る癖があるので、西洋のすることは何でも見習うべきだ、と知らず知らずのうちに思い込んでいるが、西洋人、ヨーロッパ人のアジア人を見る目、モンゴリアンを見る視線というのは決して油断してはならない。
彼らから見てアジア人、モンゴロイドというのは、人間の内に見做していないということを、我々は肝に銘じて認識しておく必要がある。
その端的な例として、19世紀後半の東南アジアの光景であろうが、西洋の婦人が硬貨を玄関先でばら撒くと、播かれた餌に群がるニワトリの様に、アジア系の大人も子供を競い合って拾い集める光景の映像を見た事があるし、戦争中の日本人捕虜の前では、西洋の女はいくら裸体を見せても平気でいたということは、彼らは日本の男を彼らと同じ人間の男と見做しておらず、まるで犬か猫のように家畜並みしか認識していなかったということである。
もっと極端な例を示せば、日本がアメリカと戦争しなければならなくなった根本のところには、日本がドイツと同盟を結んだ事が大きな理由になっているが、当のドイツは日本に対して、我々が思い描いていたほどの強い絆を意識していたわけではなく、ただ単にドイツの対ソ戦の補助線として日本を利用しただけのことで、この認識の甘さが日本の命取りになった事を、よくよく深く深く考察すべきである。
しかし、戦後の日本では、相変わらずドイツに対する信頼は厚く、ドイツに畏敬の念を持ちがちであるが、向こう側から日本人を見れば、イエロー・モンキー以外の何物でもない。
ただ西洋人も、日本民族の優秀さは知っているわけで、それが故に、我々の前ではあからさまに侮辱的な事は言わないが、仲間内ではジャップ、あるいはイエロー・モンキーという認識だと思う。
我々の民族の中の古い言葉にも「出る杭は打たれる」というものがあるが、余りにも出来過ぎるという事は、相手の反発を買う事は世の習いと考えなければならない。
我々が明治維新で成し遂げた近代化ということは、ヨーロッパではフランス革命やイギリスのマグナカルタ、あるいは産業革命という代償を払って獲得した事柄であったわけで、それを日本ではあっさりと真似してしまい、それが見事に成功させてしまったということは、西洋列強にとっては言い様のない恐怖心と畏敬の念を抱かせた事は間違いない。
ジャップやイエロー・モンキーがジャップやイエロー・モンキーなど蔑んでいるわけにはいかないわけで、自分達を凌駕しかねない存在にみえたものと想像する。
これが日本人ではなく、中国人やインドネシア人、あるいはインド人ならば、そういう認識は成り立たないが、日本人なればこそ、油断がならず、いずれヨーロッパに立ち向かって来るかもしれないという畏怖の念に陥ったものと思う。
この事は、我々が優秀であるが故に、相手の反感を買うということである。
第2次世界大戦中、ドイツはユダヤ人に対してホロコーストを実施したが、アメリカは地球中のあらゆる人種を差し置いて、日本人、日本民族だけを強制収容所に収監したことがあり、何故、日本人だけが特別に扱われたかと、深く深く考察すべき事だと思う。
そこにあったのは、ヒットラーのユダヤ人殲滅とルーズベルト大統領の日本人観とは同じ考え方が彼らの深層心理の中には流れていたということに他ならない。
言い方を変えれば、アジア人蔑視、モンゴロイド蔑視の考え方で、そのアジア人、モンゴロイドの中でも、日本人だけは特異な存在で、彼らヨーロッパ系の人々にとって、日本人の優秀さは恐ろしくてならないのである。
にもかかわらず、我々は「日本人は野蛮だ」と言われると、それを頭から真に受けて、我々は「心底、野蛮に違いない」と思い込んでしまうのである。
それは自分の頭でものごとを考える習慣がないので、何時も人の言動に左右されて、人が言うことに一喜一憂するということに表れている。
その意味ではヨーロッパに出向く我々の同胞は、現地では和服で押し通すぐらいの大和魂の自己顕示欲を満たしても良いと思う。
日本人が、男でも女でも、ヨーロッパで和服で押し通せば、彼らにカルチャーギャップをいくらかでも認識させることが可能だと思う。
おしゃれの基本はTPOだと言われているが、合理的な社会生活の場、様々な仕事をする場においてまで和服で押し通せ、というような馬鹿な事はないわけで、和服を着るという場合でも、当然それにふさわしい場というものがあるわけで、それがわからないものは最初からおしゃれをする資格がないと言わざるを得ない。
問題はオシャレとか、身だしなみという前に、恥、恥ずかしい行為、公序良俗に反する、という概念がわからないことには、何ともしょうがないわけで、人前に人間の肉体を何処まで曝しても良いか、という問題は極めて曖昧なものだと思う。
かつて日本が戦争に負けた時、アメリカの人類学のアーネスト・べネジェクト女史は、「日本人の特質は恥の文化だ」という事をいったが、今の我々は、恥という事をすっかり忘れてしまっていると思う。
新聞の3面記事を賑わしているもろもろの事件を見ても、まさしく恥という概念は全く存在しておらず、ただただ生物学的な生存競争に身を委ねているに等しい姿だと思う。
ここで日本人に突き付けられている根源的な思考は、教育の効果である。
我々が民族として恥の文化を喪失した根本的な理由は、日本の教育、特に戦後の民主教育が、恥という概念をまったく教えずに、人と違ってもそれは恥ではなく個性だと教え込んだ事になる。
言い方を変えれば、競争原理の否定で、それを端的に示せば、「赤信号,皆で渡れば怖くない」という概念の押し付けであったわけだ。
赤信号だから皆は渡っても自分一人は決して渡らない、という矜持を示すことが、逆に恥ずかしい行為とになってしまったのである。
我々、日本民族の歴史をひも解いてみると、我々は外国というか異民族から大変に多くの事を学び、それを実践し、自分達の文化に昇華してきたように思える。
日本の男性が褌からパンツになったというのも、その一つの例であろうが、良いものは積極的に使ってみるという発想は、これで案外優れた思考かもしれない。
地球上に誕生した人類は、住みついた場所でそれぞれに独自の文化を作り上げて、まさしく生存競争を演じて来たわけで、生き残ったものは、それだけ知恵と才覚に恵まれていたことになる。
それぞれに離れた場所で生きていた者が、時代の進化と共に徐々に融合するようになると、当然、進んだグループそうでないグループの格差が生まれてくるようなり、その時に進んだ文化に順応する思考の柔らかい人々は、生き延びる知恵と才覚に恵まれた人々と言える。
ところが21世紀という時代は技術革新によってその差異が消滅しかかっている。
もう進んだ文化圏と遅れた文化圏という概念が成り立たなくなってしまっている。

「お風呂考現学」

2011-09-02 06:54:14 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「お風呂考現学」という本を読んだ。
自分史の最近の例会で、お風呂に関する作品の公表があって、その中で五右衛門風呂とか行水の話が出ていたので、行水の話で話題を下ネタの方に誘導できれば、雰囲気がいくらか柔らかくなるのではないかと思ったが、根が真面目な人ばかりで一向に下ネタの話には引っ掛からなかった。
日本人が風呂好きという事は世間一般に云われていることであるが、そんなところにも仏教の影響が及んでいたとは知らなかった。
風呂屋の起源がお寺にあったなんて信じられない。
風呂といえば、我々の世代の中でも、特に助兵衛を自認する人間には、どうしても混浴というキーワードに興味が引き寄せられる。
江戸時代には、江戸の町の中には銭湯が沢山あったと言われているが、それらの風呂屋は当然の事、男女混浴であったに違いない。
この男女混浴と人間の羞恥心の間には、大きな相関関係があるように思う。
何かの本で読んだ記憶があるが、この時代の日本の女性は、銭湯と自分の家が近ければ、平気で裸のまま往き来したと聞いた事がある。
という事は、この時代、つまり江戸時代の日本女性は、人に裸体を見られても羞恥心を感じていないと云う事だと思う。
だからこそ混浴であったし、裸で平気で外にも出れた、ということだと思う。
今でもアフリカのマサイ族や、南米のアマゾンの奥地の現住民や、ポリネシアの現住民は昔のままの姿、つまり裸で平気でいるわけで、それこそ人類の自然のままの姿で暮らしていると云う事になる。
女性の羞恥心というのは、あくまでも後天的に醸成された、新しい価値観にすぎず、文化の進展によって自分一人が原始のままの思考でいる事に対するコンプレックスが、恥じらいという奥ゆかしさとして尊重されるようになったのではないかと思う。
今の日本の若い女性は、温泉地の大浴場で入浴する際に、前を隠す事もなく、堂々と両手を振ってまっすぐ歩いてくるので、そこには男性の期待する女性としての恥じらいが微塵も存在していないらしい。
自分ではそういう状況に遭遇した事がないので正確には判らないが、メディアの報ずるところのよると、どうも男性陣が辟易するような状況が散見されているらしい。
こういう風評が真実だとすると、これこそ正真正銘の原始人の立ち居振る舞いに戻ったわけで、そこには文化としての恥じらいも、女性としての奥ゆかしさも完全に喪失して、文化性、知性、理性は微塵も存在していないと云うことである。
そういう恥じらいの感覚や、奥ゆかしさの欠如した女性は、まさしくアフリカのマサイ族や、南米のアマゾンの奥地の現住民やポリネシアの現住民と同じなわけで、こういう女性は限りなく野蛮人に近い存在であるが、本人達はそれを「性の解放」と勘違いしているのである。
ビーナスの裸体を見て、「何と素晴らしい美だ」と感じるのは、極めて精密に研ぎ澄まされた美意識という文化の度合いが高い人のセンスである。
胸を軽く腕で覆い、腰をゆるく布で覆っているポーズは、裸体を直視されることに対する恥じらいであり、奥ゆかしさであるわけで、裸体を覆い隠すと云う純粋な目的からすれば何の効果もないが、「私の裸体はそう安易に見せびらかす代物ではありませんよ」という自己主張としては十分役目を果たしていると思う。
自分の裸体を何処まで人に見せて、どこからは見せないという価値観は、それぞれの人の自己顕示欲によって規定されると思う。
先に述べた江戸時代の女性の恥じらいの延長線上の話として、女性の恥じらいとか奥ゆかしさという価値観もメデイアによって作り上げられた部分が非常に多いと思う。
この世の中には「覗き」という犯罪がある。
いうまでもなく、女性の見られたくない姿を敢えて覗くという行為であるが、これが犯罪になるという発想の根源には、「文化人は原始人と同じ発想に立ってはなりませんよ」という文化の驕りがある様に思えてならない。
私に言わしめれば、覗きをする方の心理も不可解であるが、覗かれたといって騒ぐ方の心理も、今一不可解である。
大の大人が何故女性の入浴場面を見たがるのかまことに不可解千万であるし、覗かれた女性の方も、出バ亀の顔に湯をブッカ掛けてやれば、それ以上は騒ぎ立てる程の事もないように思う。
それをあたかも吸血鬼が風呂に入っている女性を喰い殺しでもしそうに、「女性の敵」などと大げさに騒ぎ立てるというのは、メデイアの食いぶちとしてのニュースソースになっていると云う事に他ならない。
羞恥心というのは、恥という概念に対して、個々の人間がそれぞれにミニマムの基準をもっていた、その基準を超えると、あるいは基準以下になると、「恥ずかしい」という概念が湧き出くるもののようだ。
女性でも男性でも、同性同士ならばかなり気を許して、裸体であっても恥じらいという感情は湧いてこないが、その中に異性が混じると途端に恥ずかしいという感情に支配される。
という事は、人間の羞恥心というのは、周囲の環境に支配されていると云う事で、「覗き」が犯罪を構成するのも、その行為が犯罪として認知される環境の中で起きた時のみ犯罪であって、マサイ族やアポリジニのでは、いくら女性の裸体を見ても犯罪には成り得ないと云う事だ。
だとすると覗きをする出バ亀を「女性の敵」として告発する行為は、文化人としての驕りではなかろうか。
こういう事を言う私は、出バ亀を容認しているわけではないが、大の大人が人目を忍んで、女性のあらぬ姿を見ようとする情けない心境を心から軽蔑するものである。
人として、あるいは男として、生きるに値しない下等極まりない人間だと思う。
それに関連して、こういう人間を「女性の敵」として告発して悦に行っている女性の側も、その下劣さにおいては50歩100歩だと思う。
江戸時代の風呂屋は全て男女混浴であったが、それが明治維新の文明開化を経ると、西洋人から「野蛮だ」と笑われて、男湯女湯と別れて営業するようにお上から言われ、それに従わざるを得なかった。
このお上の言いつけを後生大事に墨守するというのが我々の民族の特質であり、我々の先祖であったわけで、この延長線上に女性の恥じらいも他者に依存するようになったものと思う。
男女混浴であった時は、男に裸体を見られても何とも思っていなかったものが、混浴が禁止されて女性同士で入る様になると、そこに好奇の目で見る異性がいると、それを自分達の領分を侵すという認識で排除しようとするのである。
「見るな」と言われると余計興味が湧くものだし、「してはいけない」と言われると余計やってみたくなる心理に通じるものがあるように思う。
野蛮が一歩近代思想に近づいてわけで、そういう態度が女性の意識の改革にみえたわけで、出バ亀が「女性の敵」という認識に普遍化したものと想像する。
ビーナスの美は胸を何となく自然のポーズで覆い隠し、腰のまわりをゆったりとした布でふくよかに包んでいるところに、女性の恥じらいがあるわけで、その恥じらいが女性の精神の内面を浮き出させているようなところに淵源がある様に思う。
女性の裸体の美しさというのは、その体形の線の流れ、肉体の曲線の流れ、そういうものがこの世にない造形の美しさを醸し出していると思う。
自然の造形の美しさだと思う。
しかし、人間の美醜というのは地域により、民族により、国によって基準が違っているから面白い。
多様な価値観という言葉があるがまさしく美に対する価値観も実にさまざまな多様性があるから面白い。
ビーナスの像も、「あんなもの美しくもなく、醜悪な像だ」という価値観もきっと何処かにあるかもしれない。
若い女性が大浴場で何の恥じらいもなく、堂々と闊歩する姿も、過去の日本女性の恥じらいというものは喪失しているが、自然の健康さという点では勝っていると言えるかもしれない。