ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「大江戸座談会」

2011-09-16 15:19:26 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「大江戸座談会」という本を読んだ。不思議な本だ。
昭和2年から6年の間に行われた座談会を、2006年、平成18年に本にしているわけで、実に不思議な本だ。
監修が竹内誠という人で、江戸東京博物館の館長ということだが、そういう人が昭和の初めの座談会を監修するということは理解できる。
明治元年が西暦でいうと1867年で、昭和2年は1927年なので、そういう意味で、この時期に明治維新を経験した人たちが回顧談に耽ったということなのであろう。
この時点でも明治維新から40年を経ていたわけだが、これが明治維新から50年目、半世紀経つと、昭和12年となり、日本はいよいよ奈落の底に転がり落ちかけた。
いつの時代も、「昔は良かった」という大人の感慨はあるものだが、この江戸時代、約250年というものは実に平和な時代であったように思う。
だから江戸時代というのは、もうそれだけで一つの時代を形成し、歴史の中の隆盛を極めた珍しい時期であったように思う。
それを成し得たのも、鎖国という、ある意味で唯我独尊的な利己主義の政策の結果であったのかもしれない。
鎖国をして、外来の文物の流入を水際で遮断してしまっていたので、余所から入ってくる様々なものが、そこの部分で濾過されてしまって、他の影響を受けにくかったということであったに違いない。
文字通り、「井戸の中の蛙」の状態で、自分達の仲間内だけで文化が熟成してしまったということだと思う。
他との比較がなければ、自己満足に浸りきれるので、余分な欲求は起きないわけで、文化は極限まで昇華するようになったに違いない。
私が江戸学に興味を持ったのは、NHKのお笑いバラエティ―番組『お江戸でござる』の杉浦日向子女史の解説を聞いてからである。
それで、江戸東京博物館も、出来た端にもう既にいったわけだが、江戸時代というのは非常に興味ある時代だったと思う。
江戸時代の文化が非常に高度に爛熟していたことは大勢の人が認めるところであるが、ならば明治維新の前の勤皇左幕という内乱のエネルギーは一体何であったのだろう。
徳川幕府の力が弱体化した為、地方の長州や薩摩が徳川幕府に変わって覇権を握ろうとしたのであろうか。
討幕運動が漁火のように広がった背景には、やはり外国からの外圧があったと言わざるを得ないであろう。
外圧に対して、門戸を開けるか閉めるかの考え方の相異が、討幕運動の基底には横たわっていたと思う。
やはり、そのもう一つ奥の深層心理は、ぺリーの来航で見せつけられたテクノロジ―に対するコンプレックスであったと思う。
日本が経験した明治維新という大革命は、外圧によって引き起こされはしたが、その外圧から多くのものを学びとったこともまた真実であった。
アジアの諸民族においても、近代化のレースという点では、スタートの条件は皆同じだったと思う。
しかし我々は、西洋人と接した時、彼らの良い所は素直に汲み取って、自分達の参考にしてドンドン積極的に真似た。
ところが、日本以外のアジアの諸民族は、その部分で発想の柔軟性に欠けていたわけで、西洋列強の良い所を参考にする、という柔軟な思考を持ち合わせていなかった。
だから日本が経験したような近代化への変革ができなかったわけで、その結果として、日本の支配に下ったのである。
けれども、我々は、明治維新を経るまでの文化は、それこそ見事なまでに爛熟していたが、そこでは人々は分に応じて人生を享楽していたのである。
戦後の教育では、江戸時代の身分制度の厳しい社会体制を封建主義として、悪の権化かのように糾弾しているが、人々はそれぞれに分に応じて人生を楽しんでいたのである。
昔も今も、大衆というのは、市井の中のたった一人のことをあげつらうのではなく、トータルとして「良い世の中と感じているかそうでないか」、あるいは「そう考えているかどうか」ということであって、何でもかんでも封建主義の元で、庶民は虐げられているという歴史観は間違っていると思う。
戦後の進歩的な人々は、この時代の「分に応じた生き方」というものを抑圧という捉え方で見るが、それは明らかに偏向した思考だと考える。
「分に応じた生き方」というのは、「既存の秩序に順応した」と言い換えるべきで、人々がこうであったから太平の世が250年も続いたのであって、「分に応じた生き方」を否定したのが、明治維新以降の日本の生き方ということになる。
明治維新の時の文明開化の理念は、「四民平等」というスローガンであったわけで、これは完全に「分に応じた生き方」を真っ向から否定しているではないか。
「分」、「身分」、「身分制度」というものを全否定した思考が、四民平等という思考であったわけで、別の言い方をすれば、究極の民主的思考ということにもなる。
事実、あの時代において究極の封建主義から、いきなり四民平等という究極の民主主義への変換は、世界的な規模からすれば驚天動地の出来事であったと思われる。
我々の祖国が大きな指針の変更を成した時は、我々の民族の内側に、何かしらそれを推し進める要因が湧き出て来ていると思う。
明治維新の変革の動機は、やはり西洋文化の浸透という外圧というか、地球規模の人類の変革の影響が我々の周囲にも及んで来た、と言っても過言ではないと思う。
我々の周囲に押し寄せて来た西洋列強の文物を見て、我々も、それらに追いつき追い越せという発想に至り、それが国民の潜在意識として我々の民族の深層心理に染みわたっていったと解釈せざるを得ない。
この座談会は、その40年後に行われているわけで、この頃から、我々日本人の、ものの考え方も、もう一つの進化というか、別の道に嵌り込んだというか、現状認識を軽んずる傾向が出て来たことは間違いない。
私の個人的な考え方としては、それを我々の同胞の驕り、精神的な傲慢さだと思う。
明治維新の前、江戸幕府の末期という時期に、西洋文化に接した日本人は、ごく限られた少数の人たちであった。
ところが、明治維新を経て文明開化を経験し、日清・日露の戦役を経験することによって、日本の大衆、民衆の多くの人が、兵役という形で日本以外の地を見聞きした。
日本の大衆、民衆。四民平等で百姓、町人、土方、エタも、全て日本人として、天皇の赤子として、何の隔てもない平等な立場という型で外国の人々を見ると、現地では明らかに人々は虐げられており、野蛮な生活をしていたわけで、我々はやはり一等国の国民だという自覚をしたと思う。
これが優越感となって相手を蔑視するようになったと思う。
相手を、つまり他者を蔑視するという行為は、如何なる民族でも、如何なる国でも容認されるべきことではないと思うので、我々の方でも表面上はそういう行為も隠ぺいされたが、問題は、それが目に見えない深層心理の中に浸透してしまった事にある。
日清・日露の戦役の時、兵役という形で現地の実情を見た日本の将兵は、戦争が終わったので日本に帰還して来たが、彼らが自分目で見聞きしてきたことを語ることによって、日本全国に、相手をバカにする気風が蔓延し、我々の民族の優秀さを自覚したのである。
これはいわゆる成功体験であって、成功体験からは余り学ぶものはないが、我々はこの時点ではまだ失敗体験が無く、失敗から学ぶということを経験していなかったのである。
だから、明治維新から約50年目になると、段々と奈落の底の方に転がり落ちる方向に向かって行ったのである。
四民平等という理念が、昔も今もデモクラシーの本旨であることに異論はないが、何事にもメリットとデメリットはついて回るわけで、如何に立派な理念にもデメリットというのは払拭し切れない。
この本の基底の部分に流れている、江戸時代における我々の同胞の「分に応じた生き方」の選択というのも、実に合理的な生き方だと思う。
明治維新で触発された四民平等という理念は、百姓、町人、土方、エタでも、「本人の努力次第で立身出世ができるよ」ということを指し示しているわけで、その理念に沿って、そういう階層から立身出世という「坂の上の雲」を目指して人々が蝟集してきたのである。
ところが立身出世をするということは、具体的には、統治する側に身を置くということであって、統治者、管理者になるということであるが、そもそも何代も何世代も、百姓、町人、土方、エタであったものが、一回のペーパーチェックをクリアーしたからと言って、帝王学が見につく訳はなく、マネジメントの奥義が理解できるはずもなく、ただただ権威を振り回すことしかできないということに尽きる。
この最も具体的な例が、昭和の軍人達の姿である。
戦後66年を経た今でも、陸軍士官学校を出た人や、海軍兵学校を出た人を優秀な人材と見做す人が大勢いるが、こういう認識こそが日本の奈落の底に落とした潜在意識である。
そういう認識が潜在的なものである、ということさえ理解し切れていないと思う。
つまり、この本が語っている、江戸時代の人々は「分に応じた生き方」をしていたので、250年も平和が続いたという、真の意味を真に理解していないということだ。
何代も何世代も百姓、町人、土方、エタであったものが、一念発起して立身出世をして、故郷に錦を飾ってみようと考えたから、世の中が極めて窮屈になったわけで、問題は、並みの人間が一念発起して、故郷に錦を飾るという発想が極めて個人的な利己主義に依拠しているということを見落とした点にある。
現代というよりも明治維新以降の近代的な思考の中では、現状を打破して一歩でも二歩でも前に進む上昇志向は、生き方の選択して最高のものだ、という考え方であろうが、これは明らかに江戸時代の「分に応じた生き方」を真っ向から否定するものである。
その上、上昇志向には満足するということは罪悪と捉えられているわけで、どこまでいっても終わりがない上に、それはあくまでも個人の願望の域を出るものではなく、個人的なことで終わってしまう。
この座談会の行われていた時代の世の中というのは、昭和の軍人が肩で風切って威張って歩いていた時代で、その軍人達が結局日本を奈落の底に突き落として、日本の都市を恢塵に化してしまったわけで、それも元はといえば、明治維新の四民平等で、何代も何世代も、百姓、町人、土方、エタであったものが、軍人になることによって故郷に錦を飾ることを良しとした結果である。
考えて見れば、何代も何世代も、百姓、町人、土方、エタであったものが、戦争の本質を知らないのも無理からぬことかもしれない。
こういう連中にとって、戦争が政治の延長線上の在り様である、という認識が理解できないのも無理からぬことだと思う。
明治維新の時、日本が手本とした西洋列強の軍隊においては、基本的に将校は元貴族であったが、日本においては四民平等で選抜された百姓、町人、土方、エタが、わずかな教育で将校になったわけで、こういう軍人が世界を相手に戦争をしたとすれば、最初から勝負が決まっているではないか。
だから歴史はその通りの軌跡を歩んだわけで、物事の真理は嘘をつかないということである。
しかし、この本には語られていないが、人間というものは常に上昇思考を持っている存在だと思う。
例えば、同じ作業の繰り返しを経験すれば、「何とか楽にする方法がないか」と考え、商人ならば「何とかもっと儲かる手法はないか」と常に考えていると思う。
この人間の基本的な思考と、「分に応じた生き方」というのは、どこで均衡を保っていたのであろう。
人々のもつ潜在意識としての上昇志向と、「分に応じた生き方」とは、どこかで均衡を保たなければならないはずで、その鬱積したエネルギーが討幕運動というクーデターになったのだろうか。
こういう見方をすると、約250年にもわたる平和な時期というのは、少しばかり長すぎる気がするが、その実績を見る限り、そういう平和な時期が続いたということは、統治、すなわち政治が良かったということになるのであろう。
人が生きるということは、他者との関わりなしではありえないわけで、この時代において、鎖国をしていたと言えども、外国との窓は開いていたが、それが外圧というほど大きなものではなかったに違いない。
時代が下がって外国との接触が増えると、「井戸の中の蛙」を決め込む訳にも行かなくなるわけで、当然のこと、武力行使という状況にもなりがちである。
しかし、我々は如何にも外国との折衝という場面で駆け引きが稚拙で、相手に愚弄されているが、自分達が騙されているということに気が付かない節がある。
それは我々の民族の置かれた地勢的な位置が大きく関わっていることは言うまでもないが、それであるが故に、今も昔も、ガラパゴス化に必然的に成らざるを得ない。
問題は、我々の日本民族は、このガラパゴス化を恥と認識し、他よりも劣っていると認識し、コンプレックスに陥ることである。
だが、我々が基本的に持っている美意識とか、美に対する感覚とか、象形のセンスというものは西洋人を驚かすに十分なインパクトを潜めているわけで、そういうものを他者に理解させるノウハウに欠けていると思う。
自分をPRする前に、コンプレックスに押しつぶされてしまう。
そこはやはり恥の文化のなせるわざであって、恥という概念がなければ、そういうことは安易にできるわけで、その意味で中国人と同じことをするには、恥の文化が邪魔になって、無意識のうちの腰が引けてしまう。
何の脈連もなく自己主張を突然言い出すなどという、厚顔無恥な行為は我々にはあり得ないわけで、我々は常に気配りをして、周囲の空気を読みながら、自らの行動を律しているわけで、こういう気配りは、我々に独特のものだと思う。
我々が外国人に対してこういう態度で接すると、相手は「弱い犬がゴマスリの為にすり寄ってくる」と受け取るわけで、先方はますます要求を高くして来る。
我々が憂べきことは、こういう気配りの精神と、傲慢さの態度を、我々の同胞が併せ持っているという現実の直視である。