ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「泥棒がねらう家、泥棒が避ける家」

2011-09-08 18:05:15 | Weblog
例によって図書館で、借りる本を書棚の前で選んでいたら、「泥棒がねらう家、泥棒が避ける家」という本が目についた。
それで借りて読んでみたが、内容的には以前やっていた地域ボランティアの防犯パトロールの内容と全く同じであった。
考えて見れば、泥棒という仕事も、人間が生きていく為に太古からある仕事なわけで、売春と同じで、人類最古の仕事と言えるに違いない。
そもそも、目の前にあるものをさっさと自分のものにする、という行為は魅力ある振る舞いだろうと思う。
一番簡単に、安易に、自己の欲求を満たす事が出来るわけで、だからこそ盗られた方は憤懣やるかたなく、恨みも深くなり、刑罰も重くなるものと想像する。
例えば、Aさんが粉骨砕身、一生懸命努力して集めた金銀財宝を、Bさんに一瞬の内に掠め取られたとすれば、AさんのBさんに対する恨みというのは察して余りある。
だから、そうなってはならじと、自分の得た財産は自分で守ろうと防御するわけである。
ところが我々日本民族というのは農耕民族で、農耕民族であるが故に人々はお互いの協力し合って、農作業を行い、稲の植え付けから刈り入れまで共同作業で行う事が習い性になっている。
だから、隣人の物を勝手に盗るという事は殆どなかった。
隣人の物を黙って盗るというよりも、お互いに貧乏であったので盗るものが最初から無かったという事が言えているのかもしれない。
だから日本の農村では、つい最近まで自分の家に鍵を掛ける、戸締りをするという概念すらなかったわけである。
しかし、これも同じ集落の中という狭いテリトリーの中で、お互いが顔見知りという状況であればこそ、家の戸締りをしなくても済んだが、不特定多数の人が出入りする状況では、不用心であった事は言うまでもない。
だが、自分の大事なものを盗られない様に保管する、という事は究極の自己責任ではないかと思う。
私も地域のボランティアー活動として、防犯と交通安全を呼び掛けて、車で町内を回るなどいうことをした事があるが、人から言われてする様なものではないと思う。
人から勧められて防犯対策をするような事ではないと思う。
防犯のノウハウは巷に溢れかえっているわけで、その気になればいくらでも参考書でも、防犯グッズでも手に入るわけで、それでも入られるという事は、入られる方がアホだったという事だと思う。
しかし、防犯と犯罪抑止とはいささか違う面があるように思う。
特に、海の向こうから日本を稼ぎ場として入ってくる専門の犯罪者となると、我々の常識的な対応では追いつかないのも無理はない。
世の中がグローバル化するという事は、こういう面でも一様にグルーバル化するわけで、そもそも我々の思考を越えた発想の犯罪となると、対処の仕様も従来の概念ではありえない。
海を越えて泥棒までが日本に来るという事は、日本がそれだけ豊かな国だという証拠であって、この地球上に富の格差がある以上、貧しい国から豊かに国に泥棒も移動する、と言う事は避けられないであろう。
だとすれば我々も、以前のように他者を善人と見る思考を替えて、「人を見たら泥棒と思え」という先人の智恵を真摯に受け入れなければならい。
とは言うものの、自分の大事なものは自分で守るべきで、人頼みではあり得ないと思う。