ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「女という病」

2011-09-12 06:30:19 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「女という病」という本を読んだ。
著者は中村うさぎという人だが、私の知った人ではない。
内容的には『新潮45』という雑誌に寄稿したものを寄せ集めということだ。
その中味は、まさしく女の事件簿であって、13の事件に関わった女性たちの在り様が描かれているが、女の犯罪だからといって、特別に奇異なものではないと思う。
女が犯罪を犯すというと、何だか最初から魔女の横行のような印象で見られがちであるが、人間には男と女しかいないわけで、男でなければ後は必ず女になるので、女が犯罪を犯しても何ら不思議でもなんでもない。
ただし、男と女では明らかに生物的な相異があるわけで、女性には次世代を育む男にはない機能が備わっており、その機能が備わっているが故に、その機能が作用し掛った時に、それを具備していない男には判らない、心の乱れ、精神の不安定さ、情緒の揺らぎがあることもある。
こういうことを人間は経験則で太古から知っていたわけで、だからこそ、人間の社会というのは、男性優位の社会が普遍化したものと思う。
農耕とか牧畜という生業の中では力仕事が当たり前にあったわけで、その力、腕力と言う点では、男性の方が断然有利であったので、20世紀末までの社会では、男性優位の社会が当たり前で、女性の出る幕は限られていた。
ところが、21世紀という時代は、あらゆるものに技術革新が進んで、力仕事というものがこの世から追放されてしまったので、男性でなければならない仕事いうのは無くなってしまった。
あらゆる職域に、女性の進出が可能になったわけで、「女性だからこの仕事は駄目だ」というタブーがなくなってしまった。
男性の仕事の領域にも果敢に挑戦しようとする女性には、「女という病気」はあり得ないが、従来の女の概念から脱し切れない女々しい女性には、やはり過去からの歴史を引きずっているかのごとく、従来の価値観から脱しきれていない者がいるのも確かな事であろう。
「女の事件簿」であるからには、週間誌の記事と同じレベルのものであって、一つの事件を面白おかしく報じているにすぎない。
ただ、どんな事件にも、ストーリー性はあるわけで、ただ単なる通り魔事件にも、犯人が何故に通り魔を演ずるに至ったか、という部分に物語りを汲みとるわけで、それは汲み取ると云うよりも、作り上げる部分の方が多いかもしれない。
この本に描かれた13人の女性の生い立ちも、それぞれに一つのストーリーに仕立て上げられているわけで、事件を起こさなくとも、一人一人の人間の生い立ちは、それぞれに一つ一つのストーリーを成していると思う。
この本も、13人の女性の犯罪者の13のストーリーを組み立てているわけで、それはいわば並みの人間の覗き見趣味を満足させることに貢献しているというだけのことである。
普通に生きて、普通に生活している人間にとって、人の噂話というのは面白いものであると同時に、つまらないという両面を兼ね備えているわけで、それを満たすべき存在するのがメディアということになる。
男が人を殺す事件は、巷にいくらでもころがっている事件であるが、女が人を殺したところで、これも世間にはいくらでもころがっている事件なわけで、特別に目新しいことではない。
だからといって、その事実を淡々と、事実のみを報じたところで、誰も興味を示してくれないので、人々が興味を引くようにストーリーをしたてなければメディアとしては価値が生じないのである。
男の犯罪も女の犯罪も、昔からあることには変わりはないが、その犯罪の取り上げ方は、時代とともに、あるいは地域とともに、あるいは民族とともに大きく変化してきていると思う。
例えば、今日の日本のメデイアの在り方は、視聴者の為にあるのではなく、メディアの為にメデイアがあるという感がする。
例えば、この本の出版のコンセプトでも、出版元が如何に儲けるか、如何に売るか、如何に買わせるか、という視点で貫かれているわけで、そこには世の中を啓発して、世の為、人の為という意向は微塵も存在していない。
資本主義社会の自由主義体制の元での商業行為であるので、メデイアと言えども、立派な大義名分を掲げなくとも、それはそれで存在意義はあるわけで、「金儲けして何が悪い」という論法は、当然あって当たり前である。
しかし、普通の市民、乃至は国民は、メディアというものは、世の中に警鐘を鳴らして、世の為人の為に悪しき強権者を糾弾し、弱い者を助ける義賊的な価値観を期待しているのではないかと考える。
けれども今のメディアというのは、まさしく江戸時代の瓦版と軌を一にしているわけで、市井の身の回りの奇異な事件を面白おかしく報じて糊塗を凌いでいるのである。
ところが江戸時代と今では情報の本質が全く変わってしまっているわけで、江戸時代ならば猫が7輪のサンマを食い逃げしてもニュースにもならないが、今では政府の要人が一言でも言い間違えると、自分の椅子を棒に振らなければならない。
冗談を言おうものなら、その冗談は冗談ではなく真面目に受け取られて、これも大臣の椅子を棒に振るという結果になりかねない。
冗談を言う方も聴く方も、冗談を冗談と解する器量もないわけで、そこに在るのはまさしく幼児並みの言葉狩りでしかない。
毎日のテレビのニュースを見ていると、政府要人に食い下がってマイクを突き付けているメデイアの人々の映像が映っているが、あの場面を見ていると取材されている方が馬鹿に見える。
もう少し気の効いた発言が出来ないものか、とニュースを見ながら見ている方が切歯扼腕している。
あの図は、取材を受けている側が余りにも真面目すぎるから、ボロが出るわけで、質問をはぐらかす手法をもっともっと勉強すべきだと思う。
不躾にマイクを突き付けてくる連中に、まともに対応しようとするから揚げ足取りをされるのであって、徹頭徹尾とぼける事を学ぶべきだと思う。
質問の核心をはぐらかして、本音の部分を決して漏らさない手法を学ぶべきだと思う。
メディアの報道の仕方というのは、女の三面記事も、政治の記事も、メディアが介在している限り、同じパターンを踏襲しているわけで、これはメディアというものが持つ宿命なのであろうか。
メディアというのは、人の噂話を食って生きているわけで、それが政治や行政の話であったとしても、その本質は噂話の域を出るものではなく、日本の場合メディアというのは、江戸時代の瓦版にその起源があると思うが、この瓦版は行政システムの中の上意下達のツールとして発達したわけではなく、あくまでも芝居の役者や市井の噂話を伝達して金を稼いでいたのである。
その事実の本旨は、人の噂話を報ずることが金になるということである。
逆の言い方をすれば、人々は、人の噂話を、金を出してでも買う、ということである。
そうであるとするならば、人の噂話に興味を持つ、人のひそひそ話に耳をそばだてる、という行為は普通に良識のある人ならば、忌み嫌う行為で、はしたない行為とみなされ、その人の倫理観を問われる行為であり、そういう行為を「良し」とはしないはずである。
だからこそ、自分でそれをするにはいささか良心の呵責に耐えきれず、他者に委託、つまりメディアに任せて、その結果だけを金で買うということになっているのであろう。
それ故に、ニュースを取材という言い方で誤魔化されているメデイアの仕事をする人々は、世間の顰蹙をモロに買う立場にあり、品性や品位が問われるのも当然のことではないか。
その延長線上に、人の知らない事を聞きだし、人が隠したいと思っている事を暴き、その事によって相手の弱みに付け込み、金品をせがむという行為に進展するのである。
これがインテリ・ヤクザと言われる所以である。
メディアに関わるものが、そういう行為を正義を振りかざして行うので、脛に傷持つ身としては、メデイアとの対決となると身を引いてしまい、メディア側はますます図に乗って来ると言うことになる。
市役所の人が真面目に仕事をしている、学校の先生が普通に授業をしている、警察官がきちンとパトロールしている、これではメデイアとしては何にもニュース・バリューがないわけで、この当たり前のことが当たり前でないからニュースになりうるのであって、こんな平和な世の中ではメディアは生き残れない。
だから何とかして悪人を仕立てなければならない。
その意味で、悪事を働く女は願ってもない標的なわけで、こういう女性ならば、何処をどういう風に切り裂いても、世間は悪女を糾弾する思考に加担するわけで、自分の方に向かって来る批判の矢は避けられるので安心して書き捲れる。
世間の人は、あまりにもメデイアを信頼しすぎていると思う。
毎日見るテレビも、毎朝届けられる新聞も、たった一人の記者が送り出しているわけではなく、大勢の人が関わりあってニュースが送りだされているが、メデイア界に関わり合っている大勢の人が、人としての倫理を著しく欠いた精神状態のままニュースを垂れ流している点が問題である。
メディアの言い分としては、全ての声が、市民の声とか国民の声とか有権者の声と、その他大勢の国民の共通認識であるかのような言い方をされているが、国民の声というのはメディアに踊らされるほど愚直ではないと思う。
だが、国民の側は、既存のメデイアに対抗するほど効果的な意見開陳の機構を持ち合わせていないので、既存のメディアに良いように利用されてしまうのである。
基本的には、出来の悪い女が、出来の悪い女を一人殺しても二人殺しても態勢に何ら影響はない。
けれども、それを新聞の3面記事が報じ、週刊誌がより一層面白おかしく掘り下げて記事を書き、その総仕上げに作家が通俗的な読み物として冊子に書くということは、それぞれのメディアがそういう事件を記事にすることによって、糊塗を凌いでいるわけで、自分達が食わんが為にああいう事件を食い物にしているのである。
片一方に、そういう読みものを買う人間もいるのだから、ここに需要と供給のバランスが生きるわけで、双方ともめでたしめでたしということになる。
我々が考えなければならないことは、何故に我々は人の噂話が好きかという点である。
こういう3面記事を読むことが、何故に娯楽になりうるかということである。
我々が芸能人やスポーツ選手の私生活を覗きたいという欲望、願望は一体どういうところからきているのであろう。
この我々の深層心理は、江戸時代にもあったわけで、それが瓦版という形で庶民の欲求にこたえていたと思う。
この我々の民族的な覗き見趣味というのは一体何なのであろう。