例によって図書館から借りてきた本で「モルジブが沈む日」という本を読んだ。
サブタイトルには「異常気象は警告する」となっている。
翻訳ものであるが、そうとうに重厚な読み物であった。
内容的にはサブタイトルにもあるように、「今の地球は異常気象ではないか」ということで、温暖化が進んでいるように報道されているが、この温暖化は本当なのかどうか、ということを追い求めた内容であった。
温暖化がもし本当ならば、北極や南極の氷が解け出して、標題の言うように、モルジブという国は水没してしまうであろう、ということを述べている。
異常気象は地球規模であちこちにあらわれていて、その事例がかなり詳しく述べられているが、その一つ一つが、地球の温暖化に関連するかどうかは、結論としてはまだ判っていないということである。
この異常気象も、地球の大きなサイクルの中の変動の一環ではないか、あるいはそういう大きなサイクルから逸脱した、特異な現象かどうかの確定は、今のデータでは難しいということのせめぎ合いになっているということである。
地球の誕生は、何億年という単位で存在し続けているが、今、我々が直面している異常気象は、あくまでも我々の生きている何十年という単位の変化なわけで、それは地球規模での比較をすれば、僅かに一瞬の出来事なわけで、地球の気候変動のサイクルからすれば、比較検討さえ成り立たない瞬時のことかもしれない。
その変動に元の所に、人間による化石燃料の使用が、炭酸ガスを排出しているので、この炭酸ガスが異常気象の根源だ、という考え方の是非が問われようとしている。
地球上における人類の繁殖が、炭酸ガスを限りなく排出させているので、その炭酸ガスが地球上の異常気象の元だという論理であるが、考えて見ると、地球上の生物の中には既に絶滅したものも数限りなくあるわけで、その端的な例は恐竜である。
この恐竜の絶滅は、恐らく宇宙規模の変革がこの地球上に起きたからと考えられる。
巨大な隕石が地球と衝突して、地球上に大きな気候の変動が起きて、それで恐竜も自分の生命を維持できなくなったと思える。
地球に巨大な隕石が衝突するということも、地球の誕生以来の何億年という単位の時間の中ではありうることで、隕石が地球上に落ちてくれば、恐らく大きな気候変動を伴うと思う。
素人考えでも、隕石が地球と衝突した衝撃で、地球上の砂や石が舞い上がり、それが天空を覆い、太陽の光をさえぎって、異常気象を呈するとも考えられる。
その異常さの振幅は、我々の想像を超えるものであろうが、その程度は誰にも判らないわけで、氷河期になったのか、それとも温暖な気候になったのか、皆目見当もつかない。
しかし、地球の歴史は、そういう気候あるいは天候の変動を、内に秘めたまま今日があるわけで、その中には生命体の誕生と消滅も当然内包されていると思われる。
恐竜の消滅も、当然、その時間の流れの中の出来事であったわけで、石炭あるいは石油の存在も、そういう地球の生成の結果であったわけで、65億年という時空間の中でも、決して変わることのない真理は、命あるものは必ず死ぬと言うことである。
65億年の地球の歴史の中で、人類の誕生というのはわずか200万年前になる。
その200万年の内、199万年までは、まさしく猿並みであったわけで、人としての格好が付くのは、僅かに最後の2千年ぐらいの間でしかない。
この最後の2千年の内でも、人間が化石燃料を使って炭酸ガスを際限なく放出するようになったのは、これも最後の最後の僅か100年に過ぎない。
しかし、地球の生存にとって最大の問題点は、人間の生存ではないかと思う。
この地球上に人間さえ居なければ、地球の温暖化という問題はあり得ず、全ての現象が、自然の輪廻転生のままに、自然界の変動幅の中に収まるに違いない。
ところが、ここに人間の存在という因子を加味すると、自然界の変動幅に異常をきたしてしまうわけで、特異な現象ということに成りがちである。
この特異な現象というのも、ある意味で20世紀や21世紀の人間が未だ経験していないというだけのことで、自然界の自然の変動幅の中には、既にあったものかもしれない。
この本の中にはトルネードや、ハリケーン、大洪水のことが異常気象として捉えられているが、それは人間が体験したという意味で、想定外の被害を見て異常だと思っているにすぎず、その場に人間というものの存在がなければ、如何なる被害も、如何なる災害も、如何なる天災もありえないわけで、それはただ単に自然の営みそのもので済んでしまう。
大きな川の傍に人間が家をつくるから、大水でそれが流され、人が死ぬわけで、そんな川の傍に家を作らなければ、災害には成らずに済んでいる。
地球が誕生して65億年といわれているが、その間にきっと様々な生命が誕生し、そして消滅した生命も数えきれないほどあったに違いない。
しかし、約200万年前に誕生した人類という生命は、決して絶えることなく増殖する一方であった。
今、知的な文化人の間では、絶滅しそうな動植物の保護という動物愛護の運動が、さも文化度の度合いを計るバロメーターのように言われているが、これもまさしく人類の驕りそのもので、自然を冒涜する発想だと思う。
この地球上に存在するあらゆるものが、いずれは消滅するという発想こそが、自然に対する敬虔な態度だと思う。
この植物、この動物を、今ここで絶やしてしまうと、後はいっさい同じものが生まれない、というのは明らかに何の疑いもなくこの世の真理であるが、それこそが自然の営みであって、地球上の生命の誕生とその対極にある消滅の現実であって、それでこそ自然の営みというものだと考える。
「これは貴重な種だから絶やしてはならない」というのは人間の側の勝手な思い込みに過ぎず、知識人の驕り以外の何ものでもなく、自然を冒涜する発想だと思う。
20世紀後半から21世紀にかけて、人類が使う化石燃料が炭酸ガスを放出するので、それが地球温暖化の原因だという論法は、まだ結論が出たわけではないが、わずか100年の経験から、65億年も生存し続けた地球の気候を推し量ろうという発想は、発想そのものが不遜だと思う。
しかし、私レベルのアホな人間の思い付くこととしては、人間が自分の生活の便利さにかまけて化石燃料を使い続ければ、大気中の炭酸ガスの量が多くなることは間違いない。
そうなればきっとその揺り戻し、炭酸ガスの量の増加に伴う新しい兆候というか、従来の人間がまだ経験したことのない現象が現れるということは充分予想される。
その変動の幅が、自然界の変動の幅の中の収まるかどうかは、誰にも判らないわけで、今起きている現象は、今生きている人々がまだ経験したことのない大事件ではあるが、真に未曾有な出来事かどうかは、誰にも判らない。
問題は、こういう状況で、人的被害が出るということなわけで、人さえ死ななければ、大事件でも大災害でもないわけで、人が死ぬから大騒ぎをしているのである。
アフリカの草原でライオンの足にとげが刺さると、そのライオンは餌が取れずに餓死する。
同じように草原にいる野牛の群れは、病気や怪我で俊足に走れない個体が、肉食動物の餌食になるが、犠牲になった個体を、その仲間が悼むかというと、そういうことはないわけで、死を淡々と受け入れている。
しかし、人類だけは仲間の死を悼み、特に身内の死に対しては、その死を悼む感情は並々ならぬものがある。
これは一体どういうことなのであろう。
人の死を極度に忌み嫌い、生に固執する我々、人類の生き様というのは、どういう風に解釈したらいいのであろう。
地球の誕生が65億年前だとすると、その間に色々な生命が生まれては消え、消えては生まれていたと想像する。
恐竜などもその端的な例であるし、我々、人類の先祖も、限りなく類人猿に近い者から今の我々のよう完全なるホモサピエンスに至るまで、様々な種が生まれては消え、消えては生まれて、最期に生き残ったのが今の人間と言える。
この最期に生き残った人間は、際限なく増殖の道を歩んでいるわけで、死ぬことを罪悪ととらえ、忌み嫌い、生への確執がとめどもなく強く、何が何でも生き抜くことを善と見做している。
そして、その増殖した人々は、これ又、際限なく化石燃料を使うわけで、地球上は炭酸ガスで覆われてしまう。
そうなれば当然のこと、地球は炭酸ガスで充満して息が出来なくなってしまうので、今の内に何とか手を打たねば、という発想に陥るのも自然の流れではある。
この地球上に生を受けた人間が、仲間の死を悼む感情を持つようになったということは一体どういうことなのであろう。
人間というのは、母親の体内から生まれ落ちた時は、正常な分娩であったとしても完全に未成熟な個体で、その個体が親と同じ成熟した個体になるまでには約20年を要する。
この約20年間という間は、親の庇護の元に生きているわけで、その親の庇護という無償の愛の中で、他者を労わるという感情が醸成される。
生まれ落ちた時から成人に達する間に、それぞれの個体は親の愛情に育まれて、親の愛と指導と労わりの中で生育するので、近親者が死んだという時には、当然、そういうものが断ち切られる悲しみを感じる。
ここで大いなる愛を失うということを実感として体験するわけで、それが積み重なって他者の死を憐れむ、という感情が蓄積されたのであろうか。
他の人間以外の動物は、生まれ落ちた瞬間にもう立ち上がり、餌も自分で取るわけで、親の愛情に育まれるということは無いわけで、他者の死に対しても何の感情も湧かないに違いない。
それに引き換え人間は、他者の死を我が事のように憐れむ感情を持っているので、死者に対してより以上の愛情の発露を指し示すことを厭わないのである。
だから、生きた人間の基本的な潜在意識として、長寿願望があるわけで、いつまでも長生きしたいという思いが誰かれなく持つということになる。
そのことによって、死ということは生きた人間の最悪の事態なわけで、生きた人間は誰も彼もが死を悼み、死から逃れようとし、他者の死を憐れむのである。
地球上に生存するあらゆる人々、つまり人間の集団というのは、基本的に死を忌み嫌い、死から逃れるべく知恵と才能を酷使するわけであるが、いくら手を尽くしても、それから逃れることはできないわけで、ならば死んだ人を少しでも崇め奉って、その魂を救済しなければと考えるのである。
その結果として人間は災害を少しでも避けて、人々が死に直面しないように、手を尽くし工夫を凝らしているのだが、自然の威力はそういう人間の努力をまるで意に介していない。
最近、大災害が多発して、「気候が異常になったのではないか」という発想は、その根本のところに人間の命の消滅が数限りなくあったので、大騒ぎになっているに過ぎない。
トルネードであろうが、ハリケーンであろうが、大洪水であろうが、熱波であろうが、大寒波であろうが、そこに人間の存在さえなければ、災害でもなんでもないわけで、ただたんなる自然の輪廻転生に過ぎない。
そういう考え方に立ってみると、人間が化石燃料を使うから、炭酸ガスが増え、それが異常気象の元だという論拠は、極めて希薄になる。
ただ私が不思議に思うことは、アフリカの奥地というよりも、未開な地域というか、当たり前の国家の体をなしていない地域の人々が、旱魃で食糧難に陥り、何千何万という難民が出ているということである。
それを国連が食糧援助と称して救済しようとしている。
が、国連の名の元で行われている食糧援助ということが、果たして本当に必要かどうか甚だ疑問に思っている。
人が死にかけているから、何が何でも救済しなければ、生かさなければ、ということが果たして本当に善なのであろうか。
これはイスラム教徒とアメリカの対立の構図にも当てはまるが、近代的に進化した国が、食うや食わずの未開発の国や民族を、支援或いは援助することが果たして本当に善なのであろうか。
アフリカの食糧難民の上に、アメリカや国連が空から飛行機で食糧を撒き散らしたとして、その難民たちが生き永らえるものだろうか。
しかし、世界の知識人、有識者、学識経験者、賢者、大学教授、有名なジャーナリスト、或いは評論家という人々は、「こういうアフリカの難民を救済すべきだ」と言っているが、その発言は自分が良い子ぶって理想論を振りかざしているだけではなかろうか。
この類の人達は、大見栄を切っているだけで、そういう風に発言しないと、自分が干されてしまうからそういう風に見栄えの言い、大衆受けのする、理想を絵に描いたような事を言っているのではなかろうか。
そもそも人類の誕生は200万年前に遡ると言われているが、その時はアメリカ人を唯一の例外として、中国人も、日本人も、イヌイットも、マサイ族も、イギリス人も、フランス人も、アポリジニも、スタートラインは皆同じであったはずである。
それ以来、200万年という時間を共有する間に、一方は飛行機から食糧を落とす側に、もう一方は地上でそれを受け取る側に身を落としているわけで、この立場の相異が生まれたのは一体何なのだ、ということを誰も問い直そうとしない。
先進国が後進国を援助しなければならないという発想は、人間としての極めて傲慢な思い上がりだと思う。
地球上に最初に人類が登場して以来、他者に淘汰された人類、民族は数限りなくあったに違いない。
近代化に乗り遅れた民族は、淘汰されるのが自然の流れであって、そういう人々を救済するという発想は、自然の摂理を冒涜するものだと思うし、ただ単に「良い格好シイ」の自己満足の域を出るものではない。
現在の社会では、アメリカとアラブ諸国、先進国と後進国、開発国と開発途上国という色分けが歴然と存在するが、西洋先進国、アメリカ、日本という先進国があって、その後を中国とか韓国、インドが追い上げているが、それはその国、或いはその民族の一人一人の努力があってなされた実績なわけで、先進国においても過去にそういう努力があったればこそ先進国たりえたのである。
結果的に、後進国を搾取した部分がゼロではなかろうが、それを跳ね返すことこそ後進国の努力すべきことでもあったわけである。
そこの部分の努力を怠ったからこそ、食糧を投げ与える立場と、下で受け取る立場の相異があるわけで、大きな自然界の流れの中で捉えれば、他から食糧を分けて貰わねば生きていけれない民族は、とうに昔に淘汰されてもしたかのない立場だということである。
世界の知識人が「そういう人々を救済せよ」と声高に叫ぶのは、自分の身を傍観者の位置に置いて、「良い格好シイ」のポーズを振りまいているにすぎず、売名行為か偽善者なのであろう。
地球上の人間が際限なく増殖するとなれば、結果として、自然界に対して何らかの影響が出ることは必然的なことだろうと思う。
その結論が今の時点でははっきりとは判らないので、皆が疑心暗鬼に陥っているが、人間の際限ない増殖が、自然界に何の影響も及ぼさないということは、あり得ないと思う。
アメリカ大陸の大西洋と太平洋の海沿いの部分、日本を含む中国大陸の海沿いの部分の人の集まりのことを考えれば、このエリアで消費される化石燃料のことを想像するだけで、自然界に影響が出ない筈がないではないか。
私の極めて素人っぽい思考では、地球上にある物質のトータルの量は、ロケットで宇宙に放り出さない限り不変だと思う。
例えば水を例にとれば、地球上で何処かに大雨があれば、他の場所では旱魃になっているのではないかと思う。
温暖化で、南極や北極の氷が解ければ、水位が上がるというのもそれとの関連だと思う。
だとすれば、石炭と炭酸ガスの関係にもそれが成り立つのであろうか。
燃やした石炭の質量と、それで出た炭酸ガスの質量は同じということになるのであろうか。
しかし、そういうことは自然界からすれば何の違和感もないわけで、太陽の熱で蒸気が発生し、それが雨になって地上に降り注ぐという循環を律儀に行っているだけで、降る量が多少多くなったり少なくなったり、時期が早かったり遅かったり、多少ずれることもままあるわけで、そうそう驚くべき事ではなかったかもしれない。
ただ地上の災難というのは、人間にとっての災難であるだけで、自然界からすればごく普通のサイクルに過ぎないのかもしれない。
自然界はごく普通に輪廻転生を繰り返しているだけなのに、人間の方は絶え間なく増殖をしているわけで、ほんのわずかな時間単位で、人間の数が級数的に増えるのだから、そこにごく自然の成り行きで、風が吹いたり雨が降ったりすると、人間側にとっては未曾有の大災害になってしまうのである。
人間の数が級数的に増えることについても、人間側では何の対策、増殖を抑制する何の対策も取ろうともせず、「そういうことは人間の良心に反する極悪非道なる振る舞い」という感覚で語られている。
人間の集団を先進的な人々と後進的な人々という分け方をすると、限りない増殖を招いているのは、後進的な人々なわけで、この後進的な人々の存在は、先進的な人々の社会をも壊滅的な状態に追い込みかねない。
極く普通に考えて見ても、アメリカの農業は極めて効率的で、わずかな人間が巨大な機械を酷使して膨大な穀物生産を行って、アフリカの飢えた人々に空からそれをバラまいている。
だが、同じ人間でありながら、何故アフリカの人々には、アメリカ人と同じことができないのだ。
何故イラクの人々は、アメリカ人と同じ生産活動ができないのだ。
これを私流の荒っぽい言い方をすれば、アフリカの人々も、イラクの人々も、その他の後進国といわれる人々も、基本的にそういう人たちは馬鹿で、頭が悪く、怠け者だから、同じ人間でありながらこういう差が出てくるのだと言いたい。
前にも言ったように、人間のルーツをたどれば、地球上の如何なる民族も、そのスタートラインは同じであったわけで、同じスタートラインで同時にスタートを切ったにもかかわらず、21世紀の今日、これだけの差が生じたということは、それぞれに民族の個性があったわけで、その個性の中には、頭の悪さや、頑固さや、回転の鈍さや、進取の気性が欠けていたり、根っからの怠惰であったり、人間の資質として負の面を含んだ部分が多かったものと推察する。
地球上の如何なる場所に住みついた民族であろうとも、自己保存、生存競争を生き抜くという先天的な使命は、潜在意識として刷り込まれているはずで、21世紀において先進国と後進国の間にこれだけの差異が生じたということは、それぞれの民族の個性が大きく関与していると思う。
イギリス人のピューリタンが新大陸に渡ったのも、フランス革命も、明治維新も、ロシア革命も、中国の革命も、それぞれにそれぞれの民族が死に物狂いに生存競争を生き抜こうとした結果であったわけで、今の後進国といわれている国々に、或いは民族に、こういう歴史を持っているかといえば多分持っていないと思う。
その結果として、食糧を空からばら撒く側と、下でそれを受け取る側の相異が生まれたわけである。
サブタイトルには「異常気象は警告する」となっている。
翻訳ものであるが、そうとうに重厚な読み物であった。
内容的にはサブタイトルにもあるように、「今の地球は異常気象ではないか」ということで、温暖化が進んでいるように報道されているが、この温暖化は本当なのかどうか、ということを追い求めた内容であった。
温暖化がもし本当ならば、北極や南極の氷が解け出して、標題の言うように、モルジブという国は水没してしまうであろう、ということを述べている。
異常気象は地球規模であちこちにあらわれていて、その事例がかなり詳しく述べられているが、その一つ一つが、地球の温暖化に関連するかどうかは、結論としてはまだ判っていないということである。
この異常気象も、地球の大きなサイクルの中の変動の一環ではないか、あるいはそういう大きなサイクルから逸脱した、特異な現象かどうかの確定は、今のデータでは難しいということのせめぎ合いになっているということである。
地球の誕生は、何億年という単位で存在し続けているが、今、我々が直面している異常気象は、あくまでも我々の生きている何十年という単位の変化なわけで、それは地球規模での比較をすれば、僅かに一瞬の出来事なわけで、地球の気候変動のサイクルからすれば、比較検討さえ成り立たない瞬時のことかもしれない。
その変動に元の所に、人間による化石燃料の使用が、炭酸ガスを排出しているので、この炭酸ガスが異常気象の根源だ、という考え方の是非が問われようとしている。
地球上における人類の繁殖が、炭酸ガスを限りなく排出させているので、その炭酸ガスが地球上の異常気象の元だという論理であるが、考えて見ると、地球上の生物の中には既に絶滅したものも数限りなくあるわけで、その端的な例は恐竜である。
この恐竜の絶滅は、恐らく宇宙規模の変革がこの地球上に起きたからと考えられる。
巨大な隕石が地球と衝突して、地球上に大きな気候の変動が起きて、それで恐竜も自分の生命を維持できなくなったと思える。
地球に巨大な隕石が衝突するということも、地球の誕生以来の何億年という単位の時間の中ではありうることで、隕石が地球上に落ちてくれば、恐らく大きな気候変動を伴うと思う。
素人考えでも、隕石が地球と衝突した衝撃で、地球上の砂や石が舞い上がり、それが天空を覆い、太陽の光をさえぎって、異常気象を呈するとも考えられる。
その異常さの振幅は、我々の想像を超えるものであろうが、その程度は誰にも判らないわけで、氷河期になったのか、それとも温暖な気候になったのか、皆目見当もつかない。
しかし、地球の歴史は、そういう気候あるいは天候の変動を、内に秘めたまま今日があるわけで、その中には生命体の誕生と消滅も当然内包されていると思われる。
恐竜の消滅も、当然、その時間の流れの中の出来事であったわけで、石炭あるいは石油の存在も、そういう地球の生成の結果であったわけで、65億年という時空間の中でも、決して変わることのない真理は、命あるものは必ず死ぬと言うことである。
65億年の地球の歴史の中で、人類の誕生というのはわずか200万年前になる。
その200万年の内、199万年までは、まさしく猿並みであったわけで、人としての格好が付くのは、僅かに最後の2千年ぐらいの間でしかない。
この最後の2千年の内でも、人間が化石燃料を使って炭酸ガスを際限なく放出するようになったのは、これも最後の最後の僅か100年に過ぎない。
しかし、地球の生存にとって最大の問題点は、人間の生存ではないかと思う。
この地球上に人間さえ居なければ、地球の温暖化という問題はあり得ず、全ての現象が、自然の輪廻転生のままに、自然界の変動幅の中に収まるに違いない。
ところが、ここに人間の存在という因子を加味すると、自然界の変動幅に異常をきたしてしまうわけで、特異な現象ということに成りがちである。
この特異な現象というのも、ある意味で20世紀や21世紀の人間が未だ経験していないというだけのことで、自然界の自然の変動幅の中には、既にあったものかもしれない。
この本の中にはトルネードや、ハリケーン、大洪水のことが異常気象として捉えられているが、それは人間が体験したという意味で、想定外の被害を見て異常だと思っているにすぎず、その場に人間というものの存在がなければ、如何なる被害も、如何なる災害も、如何なる天災もありえないわけで、それはただ単に自然の営みそのもので済んでしまう。
大きな川の傍に人間が家をつくるから、大水でそれが流され、人が死ぬわけで、そんな川の傍に家を作らなければ、災害には成らずに済んでいる。
地球が誕生して65億年といわれているが、その間にきっと様々な生命が誕生し、そして消滅した生命も数えきれないほどあったに違いない。
しかし、約200万年前に誕生した人類という生命は、決して絶えることなく増殖する一方であった。
今、知的な文化人の間では、絶滅しそうな動植物の保護という動物愛護の運動が、さも文化度の度合いを計るバロメーターのように言われているが、これもまさしく人類の驕りそのもので、自然を冒涜する発想だと思う。
この地球上に存在するあらゆるものが、いずれは消滅するという発想こそが、自然に対する敬虔な態度だと思う。
この植物、この動物を、今ここで絶やしてしまうと、後はいっさい同じものが生まれない、というのは明らかに何の疑いもなくこの世の真理であるが、それこそが自然の営みであって、地球上の生命の誕生とその対極にある消滅の現実であって、それでこそ自然の営みというものだと考える。
「これは貴重な種だから絶やしてはならない」というのは人間の側の勝手な思い込みに過ぎず、知識人の驕り以外の何ものでもなく、自然を冒涜する発想だと思う。
20世紀後半から21世紀にかけて、人類が使う化石燃料が炭酸ガスを放出するので、それが地球温暖化の原因だという論法は、まだ結論が出たわけではないが、わずか100年の経験から、65億年も生存し続けた地球の気候を推し量ろうという発想は、発想そのものが不遜だと思う。
しかし、私レベルのアホな人間の思い付くこととしては、人間が自分の生活の便利さにかまけて化石燃料を使い続ければ、大気中の炭酸ガスの量が多くなることは間違いない。
そうなればきっとその揺り戻し、炭酸ガスの量の増加に伴う新しい兆候というか、従来の人間がまだ経験したことのない現象が現れるということは充分予想される。
その変動の幅が、自然界の変動の幅の中の収まるかどうかは、誰にも判らないわけで、今起きている現象は、今生きている人々がまだ経験したことのない大事件ではあるが、真に未曾有な出来事かどうかは、誰にも判らない。
問題は、こういう状況で、人的被害が出るということなわけで、人さえ死ななければ、大事件でも大災害でもないわけで、人が死ぬから大騒ぎをしているのである。
アフリカの草原でライオンの足にとげが刺さると、そのライオンは餌が取れずに餓死する。
同じように草原にいる野牛の群れは、病気や怪我で俊足に走れない個体が、肉食動物の餌食になるが、犠牲になった個体を、その仲間が悼むかというと、そういうことはないわけで、死を淡々と受け入れている。
しかし、人類だけは仲間の死を悼み、特に身内の死に対しては、その死を悼む感情は並々ならぬものがある。
これは一体どういうことなのであろう。
人の死を極度に忌み嫌い、生に固執する我々、人類の生き様というのは、どういう風に解釈したらいいのであろう。
地球の誕生が65億年前だとすると、その間に色々な生命が生まれては消え、消えては生まれていたと想像する。
恐竜などもその端的な例であるし、我々、人類の先祖も、限りなく類人猿に近い者から今の我々のよう完全なるホモサピエンスに至るまで、様々な種が生まれては消え、消えては生まれて、最期に生き残ったのが今の人間と言える。
この最期に生き残った人間は、際限なく増殖の道を歩んでいるわけで、死ぬことを罪悪ととらえ、忌み嫌い、生への確執がとめどもなく強く、何が何でも生き抜くことを善と見做している。
そして、その増殖した人々は、これ又、際限なく化石燃料を使うわけで、地球上は炭酸ガスで覆われてしまう。
そうなれば当然のこと、地球は炭酸ガスで充満して息が出来なくなってしまうので、今の内に何とか手を打たねば、という発想に陥るのも自然の流れではある。
この地球上に生を受けた人間が、仲間の死を悼む感情を持つようになったということは一体どういうことなのであろう。
人間というのは、母親の体内から生まれ落ちた時は、正常な分娩であったとしても完全に未成熟な個体で、その個体が親と同じ成熟した個体になるまでには約20年を要する。
この約20年間という間は、親の庇護の元に生きているわけで、その親の庇護という無償の愛の中で、他者を労わるという感情が醸成される。
生まれ落ちた時から成人に達する間に、それぞれの個体は親の愛情に育まれて、親の愛と指導と労わりの中で生育するので、近親者が死んだという時には、当然、そういうものが断ち切られる悲しみを感じる。
ここで大いなる愛を失うということを実感として体験するわけで、それが積み重なって他者の死を憐れむ、という感情が蓄積されたのであろうか。
他の人間以外の動物は、生まれ落ちた瞬間にもう立ち上がり、餌も自分で取るわけで、親の愛情に育まれるということは無いわけで、他者の死に対しても何の感情も湧かないに違いない。
それに引き換え人間は、他者の死を我が事のように憐れむ感情を持っているので、死者に対してより以上の愛情の発露を指し示すことを厭わないのである。
だから、生きた人間の基本的な潜在意識として、長寿願望があるわけで、いつまでも長生きしたいという思いが誰かれなく持つということになる。
そのことによって、死ということは生きた人間の最悪の事態なわけで、生きた人間は誰も彼もが死を悼み、死から逃れようとし、他者の死を憐れむのである。
地球上に生存するあらゆる人々、つまり人間の集団というのは、基本的に死を忌み嫌い、死から逃れるべく知恵と才能を酷使するわけであるが、いくら手を尽くしても、それから逃れることはできないわけで、ならば死んだ人を少しでも崇め奉って、その魂を救済しなければと考えるのである。
その結果として人間は災害を少しでも避けて、人々が死に直面しないように、手を尽くし工夫を凝らしているのだが、自然の威力はそういう人間の努力をまるで意に介していない。
最近、大災害が多発して、「気候が異常になったのではないか」という発想は、その根本のところに人間の命の消滅が数限りなくあったので、大騒ぎになっているに過ぎない。
トルネードであろうが、ハリケーンであろうが、大洪水であろうが、熱波であろうが、大寒波であろうが、そこに人間の存在さえなければ、災害でもなんでもないわけで、ただたんなる自然の輪廻転生に過ぎない。
そういう考え方に立ってみると、人間が化石燃料を使うから、炭酸ガスが増え、それが異常気象の元だという論拠は、極めて希薄になる。
ただ私が不思議に思うことは、アフリカの奥地というよりも、未開な地域というか、当たり前の国家の体をなしていない地域の人々が、旱魃で食糧難に陥り、何千何万という難民が出ているということである。
それを国連が食糧援助と称して救済しようとしている。
が、国連の名の元で行われている食糧援助ということが、果たして本当に必要かどうか甚だ疑問に思っている。
人が死にかけているから、何が何でも救済しなければ、生かさなければ、ということが果たして本当に善なのであろうか。
これはイスラム教徒とアメリカの対立の構図にも当てはまるが、近代的に進化した国が、食うや食わずの未開発の国や民族を、支援或いは援助することが果たして本当に善なのであろうか。
アフリカの食糧難民の上に、アメリカや国連が空から飛行機で食糧を撒き散らしたとして、その難民たちが生き永らえるものだろうか。
しかし、世界の知識人、有識者、学識経験者、賢者、大学教授、有名なジャーナリスト、或いは評論家という人々は、「こういうアフリカの難民を救済すべきだ」と言っているが、その発言は自分が良い子ぶって理想論を振りかざしているだけではなかろうか。
この類の人達は、大見栄を切っているだけで、そういう風に発言しないと、自分が干されてしまうからそういう風に見栄えの言い、大衆受けのする、理想を絵に描いたような事を言っているのではなかろうか。
そもそも人類の誕生は200万年前に遡ると言われているが、その時はアメリカ人を唯一の例外として、中国人も、日本人も、イヌイットも、マサイ族も、イギリス人も、フランス人も、アポリジニも、スタートラインは皆同じであったはずである。
それ以来、200万年という時間を共有する間に、一方は飛行機から食糧を落とす側に、もう一方は地上でそれを受け取る側に身を落としているわけで、この立場の相異が生まれたのは一体何なのだ、ということを誰も問い直そうとしない。
先進国が後進国を援助しなければならないという発想は、人間としての極めて傲慢な思い上がりだと思う。
地球上に最初に人類が登場して以来、他者に淘汰された人類、民族は数限りなくあったに違いない。
近代化に乗り遅れた民族は、淘汰されるのが自然の流れであって、そういう人々を救済するという発想は、自然の摂理を冒涜するものだと思うし、ただ単に「良い格好シイ」の自己満足の域を出るものではない。
現在の社会では、アメリカとアラブ諸国、先進国と後進国、開発国と開発途上国という色分けが歴然と存在するが、西洋先進国、アメリカ、日本という先進国があって、その後を中国とか韓国、インドが追い上げているが、それはその国、或いはその民族の一人一人の努力があってなされた実績なわけで、先進国においても過去にそういう努力があったればこそ先進国たりえたのである。
結果的に、後進国を搾取した部分がゼロではなかろうが、それを跳ね返すことこそ後進国の努力すべきことでもあったわけである。
そこの部分の努力を怠ったからこそ、食糧を投げ与える立場と、下で受け取る立場の相異があるわけで、大きな自然界の流れの中で捉えれば、他から食糧を分けて貰わねば生きていけれない民族は、とうに昔に淘汰されてもしたかのない立場だということである。
世界の知識人が「そういう人々を救済せよ」と声高に叫ぶのは、自分の身を傍観者の位置に置いて、「良い格好シイ」のポーズを振りまいているにすぎず、売名行為か偽善者なのであろう。
地球上の人間が際限なく増殖するとなれば、結果として、自然界に対して何らかの影響が出ることは必然的なことだろうと思う。
その結論が今の時点でははっきりとは判らないので、皆が疑心暗鬼に陥っているが、人間の際限ない増殖が、自然界に何の影響も及ぼさないということは、あり得ないと思う。
アメリカ大陸の大西洋と太平洋の海沿いの部分、日本を含む中国大陸の海沿いの部分の人の集まりのことを考えれば、このエリアで消費される化石燃料のことを想像するだけで、自然界に影響が出ない筈がないではないか。
私の極めて素人っぽい思考では、地球上にある物質のトータルの量は、ロケットで宇宙に放り出さない限り不変だと思う。
例えば水を例にとれば、地球上で何処かに大雨があれば、他の場所では旱魃になっているのではないかと思う。
温暖化で、南極や北極の氷が解ければ、水位が上がるというのもそれとの関連だと思う。
だとすれば、石炭と炭酸ガスの関係にもそれが成り立つのであろうか。
燃やした石炭の質量と、それで出た炭酸ガスの質量は同じということになるのであろうか。
しかし、そういうことは自然界からすれば何の違和感もないわけで、太陽の熱で蒸気が発生し、それが雨になって地上に降り注ぐという循環を律儀に行っているだけで、降る量が多少多くなったり少なくなったり、時期が早かったり遅かったり、多少ずれることもままあるわけで、そうそう驚くべき事ではなかったかもしれない。
ただ地上の災難というのは、人間にとっての災難であるだけで、自然界からすればごく普通のサイクルに過ぎないのかもしれない。
自然界はごく普通に輪廻転生を繰り返しているだけなのに、人間の方は絶え間なく増殖をしているわけで、ほんのわずかな時間単位で、人間の数が級数的に増えるのだから、そこにごく自然の成り行きで、風が吹いたり雨が降ったりすると、人間側にとっては未曾有の大災害になってしまうのである。
人間の数が級数的に増えることについても、人間側では何の対策、増殖を抑制する何の対策も取ろうともせず、「そういうことは人間の良心に反する極悪非道なる振る舞い」という感覚で語られている。
人間の集団を先進的な人々と後進的な人々という分け方をすると、限りない増殖を招いているのは、後進的な人々なわけで、この後進的な人々の存在は、先進的な人々の社会をも壊滅的な状態に追い込みかねない。
極く普通に考えて見ても、アメリカの農業は極めて効率的で、わずかな人間が巨大な機械を酷使して膨大な穀物生産を行って、アフリカの飢えた人々に空からそれをバラまいている。
だが、同じ人間でありながら、何故アフリカの人々には、アメリカ人と同じことができないのだ。
何故イラクの人々は、アメリカ人と同じ生産活動ができないのだ。
これを私流の荒っぽい言い方をすれば、アフリカの人々も、イラクの人々も、その他の後進国といわれる人々も、基本的にそういう人たちは馬鹿で、頭が悪く、怠け者だから、同じ人間でありながらこういう差が出てくるのだと言いたい。
前にも言ったように、人間のルーツをたどれば、地球上の如何なる民族も、そのスタートラインは同じであったわけで、同じスタートラインで同時にスタートを切ったにもかかわらず、21世紀の今日、これだけの差が生じたということは、それぞれに民族の個性があったわけで、その個性の中には、頭の悪さや、頑固さや、回転の鈍さや、進取の気性が欠けていたり、根っからの怠惰であったり、人間の資質として負の面を含んだ部分が多かったものと推察する。
地球上の如何なる場所に住みついた民族であろうとも、自己保存、生存競争を生き抜くという先天的な使命は、潜在意識として刷り込まれているはずで、21世紀において先進国と後進国の間にこれだけの差異が生じたということは、それぞれの民族の個性が大きく関与していると思う。
イギリス人のピューリタンが新大陸に渡ったのも、フランス革命も、明治維新も、ロシア革命も、中国の革命も、それぞれにそれぞれの民族が死に物狂いに生存競争を生き抜こうとした結果であったわけで、今の後進国といわれている国々に、或いは民族に、こういう歴史を持っているかといえば多分持っていないと思う。
その結果として、食糧を空からばら撒く側と、下でそれを受け取る側の相異が生まれたわけである。