ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「人間の地平から」

2011-09-28 08:04:17 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「人間の地平から」という本を読んだ。
サブタイトルには「生きること死ぬこと」となっている。
著者は川田順造となっている。
奥付きによると、現在は神奈川大学の日本常民文化研究所所員ということらしいが、東大出の相当な学識経験者ということだ。
冒頭からいきなりアフリカの奥地で起きた自分自身の交通事故の経過説明から始まっている。
その過程で、フランスで骨折の手術を受けたが、そのフォローを日本の国内で施術した。ところが、その時の日本側の医師の対応が極めて不味かったという話から説き進んでいる。
西洋の学問の洗礼を受けた人の、典型的な思考パターンではないか思う。
「日本は、何でもかんでも劣悪で、西洋先進国を見習うべきだ」という発想は、我々の明治維新以降の根源的な潜在意識となってしまっているようだ。
だから本来、我々の同胞が学問を治める本旨は、その深層部分を掘り下げて、「我々は世界的なレベルで真に劣等民族か?」ということを再認識すべきが日本における知識人の使命にならなければ可笑しいのではなかろうか。
私は自分に学歴がないので、高学歴の人には反射的に敵対的な感情を持ってしまうが、自分に学歴がないが故に、人の学歴が気になってしょうがない。
私自身は無学の身であっても、それを克服してひとかどの人間になってやろう、という欲望もないので、自分の人生に十分満足している。
しかしながら、世の中には立派な学歴を持ちながら、愚にもつかないことを言ったりしたりする人が余りにも多いので、世の教育、特に高等教育が日本人の在り様にどういう効果をあらしめているのか不思議でならない。
高学歴志向というのは、我々日本人ばかりではなく、地球規模で、どこの国でも、どの民族でも潜在意識としては高学歴志向を秘めていると思う。
出来うれば、可能な限り、高学歴を目指すというのが生きとし生ける人類の基本的な願望のようだ。
地球規模で見て、人々が、学校教育は高ければ高いほど良いと思う背景には、その教育の実績が立身出世の免罪符となっているからであって、立身出世することによって富を得ることができるので、富を得る手段として高学歴を目指すというのが基本的なパターンではないかと思う。
こういう考え方は、何も我々日本人だけではなく、あらゆる国、あらゆる民族に共通した思考なわけで、いわばグローバル化したコモンセンスでもある。
日本が、江戸時代を脱して明治維新を経て、学校教育を充実させて、国民の知的水準を底上げしたことは、その後の日本の発展に大いに貢献したと考えられる。
この時には、日本民族の底辺の知的レベルの底上げにも力を注いだが、社会のトップの人材養成にも力を注いだわけで、高等教育にも並み並みならぬ努力を傾注した。
ところが21世紀の今日では、日本という国を、地球規模で眺めた時、かなりハイレベルの先進国の仲間になってしまっているので、教育に対する考え方も見直す時期にあると思う。
国民のというよりも、若い世代の80%も90%もが高等教育を受ける状況というのは、どう考えても正常な状況ではないと思う。
江戸時代から明治時代までは「駕籠に乗る人、担ぐ人、その又草鞋を作る人」という社会的分業というか、階層の役割分担というか、分をわきまえるというか、そういう生き方に誰も疑いを持たず、それを社会全般が受け入れていた。
しかし、人間の根源的な願望としては、誰もが「草鞋を作る人」よりも「駕籠に乗る立場」を欲するわけで、その目的達成の手段として、高等教育を目指すのである。
これは地球規模で見て世界中で皆同じだと思う。
ここで私が問題にしたいことは、その高等教育がモラルの向上に関しては何の影響力も持ち合わせていないという現実である。
これも地球規模で見て万国共通のようであるが、民主主義の度合いによって、程度の差は顕著に散見できる。
この本でも冒頭に「フランスの医療は素晴らしいが、日本の医療は駄目だ」と説かれているが、これも明らかに西洋コンプレックスの表れであると同時に、我々の側のものの考え方の唯我独尊的な独善でもある。
「ヨーロッパは素晴らしいが、日本は駄目だ」という自虐的な思考の顕著な例だと思う。
この本の著者は、基本的には民俗学者であって、世界のさまざまな民族を研究しているが、それはそれで立派な学問であろうが、そういう人文科学という面から考えると、教育とモラルというテーマで社会を掘り下げて眺める学問もあっても良いのではなかろうか。
民主政治というのは、突き詰めれば衆愚政治になるわけで、大勢の人の言うことを聞いておれば、事態はなにも進化しないわけで、事態を何とか打開しようとすると「独裁だ」とか、「民主的手法を逸脱する」とか、「結果がでないのは為政者が悪いからだ」という論理が罷り通っているが、こういう現状に対して学識経験者はきちんとした筋の通った発言はしない。
大抵は、大勢の人のいう言い分に加担するわけで、そういう烏合の衆に対して「あなた達の言っていることは間違っているよ」ということは決して言わない。
大勢の人の言い分が、「多数派のエゴイズムで独善だ」ということは、決して言わないが、こういう状況下で、学識経験豊富な知識人といわれる人たちが正論を言わず、多数派の言い分を由とするから、世の中が混沌とするのである。
高等教育を受けた知識人が多数派にくみするのは、言い方を変えれば、或る意味の保身であって、正論を持っていながら、それを言うべき時に言わずに、嵐が行った後になって「あの時は、私もそう思っていた」と、後から言うようなものである。
高等教育を受けるような人は基本的に頭が良い。
戦前、陸士や海兵に進んだ人は頭が良いといわれていた。
戦後、高度成長の最中、銀行や証券会社に蝟集した大学出は秀才の誉れ高き人たちであった。
こういう優れた秀才たちが、結果としてどういう実績を残したかと問いなおせば、日本を焼け野原にしたのはそういう秀才たちであったし、戦後の経済を未曾有の低迷に追い込んだのも、日本の最も優秀といわれていた秀才たちであったわけで、ならば日本での秀才というのは一体どういう社会的貢献をしているのかと改めて問いただしたい。
教育というのはタダでは出来ない話で、国民の底辺のレベルアップの為の初等教育に掛かる金ならばいた仕方ないが、高等教育というのは一部の選抜された特に優秀だという人に集中的に投資されているわけで、その投資に対する見返りは当然考慮に入れてもいい話だと思う。
つまり、費用対効果という意味で、そういう人にはある一定の期間、国家に対する義務を負わせても良いのではないかと思う。
この本の作者の本職は民俗学者だ。
ぶっちゃけていうと、アフリカの奥地や、南米の奥地に分け入って、そこの現住民の生活をつぶさに観察して、それを論文に仕立て上げて、そのことを民俗学の研究と称しているわけだ。
国内では、日本でも僻地といわれる地方に行って、そこでもやはり同じようにその地の人々の生活を観察して、研究と称しているわけだが、その研究の実態は、現地の人々の邪魔をしているに過ぎないのではなかろうか。
和船の櫓の漕ぎ方がどうのこうの、苗床の均し方がどうのこうの、ということは東京大学を出た人にとっては学問の対象かもしれないが、そういう学問は知のセンズリ・自慰行為に過ぎず、人類の未来に対する貢献は何一つないわけで、ただただ研究費と称する金を浪費しているに過ぎない。
市井の無名の大衆は、学者の視点から見ると研究対象となる立ち居振る舞いを、日々の生業としているわけで、それだからこそ「草履を作る人」として、社会のすそ野を形作っているのである。
そういう人の上に、学校で選抜された人が、社会のリーダーに成るべく高等教育の機会を与えられるのであるからして、高等教育を受けた人は、当然、社会に貢献、恩返しをする気持ちを抱くべきだと思う。
それが倫理観というものではなかろうか。
社会が、優秀な人を選抜して、その人に社会のリーダ-たるべき学識経験を積む機会を与えた結果として、立身出世という形で社会のトップの座を占める様になったならば、その働きというのは社会に還元されて然るべきだと思う。
ところが社会が複雑になってくると、皆が皆、「駕籠に乗る立場」を渇望するわけで、その目的達成の為に高等教育を授かろうと考えるので、目的と結果が逆転してしまった。
我々が普通に言う「優秀な人」という場合、それはおおむね学校秀才を指しているわけで、この学校秀才というのは、学校というフィールドの中では確かに優秀かもしれないが、そういう人が社会に放り出されても、尚優秀の名をほしいままに出来るかというと、案外これは難しい。
学校というフィールドの中で培われる教養・知性というものは、ただ単に知識の量を増やすことだけではないはずで、その増やした知識で以て、人々が大勢うごめいている社会を、少しでも良い方向にしよう、しなければという方向性も同時に育まれていて当然だと思う。
問題は、この住みよい社会、良い社会、よりよい社会という、共通の目的である筈の物が、その人の受けた教育のレベルによって、とんでもなく幅が広いという点にある。
我々レベルの、ほぼ無学に近い大衆では、為政者の言うことを素直に受け入れて、それに協力することが良い社会の建設に繋がると単純に思い込んでいるが、高等教育を受けた人たちは、そう単純に為政者の言うことを信じず、為政者の立ち居振る舞いには常に批判的な態度を示している。
その結果として、世の中は一向に安定せず、不安定要素のみが浮草のように漂って、激動の世紀を呈することになる。
我々日本人のみならず世界の人々が高等教育に一種の憧れのようなものを抱いて、「教育は高ければ高いほど素晴らしい」と漠然と思っているようで、金と機会さえあれば、少しでも高みに登りたいと考えているようだ。
だが、これは高くて高度な教育を受ければ、それに応じて高給が得られるのではないか、という幻想に踊らされている姿である。
こういう発想自体が極めて幼児的な思考で、知識をいくら貯め込んでも、洞察力は全く進化していないという顕著な例だと思う。
当然と言えば当然で、学校というフィールドの中で「優れた人」という評価は、教えられたことを如何に覚えているか、という記憶力の競争の場であって、教えられたことを如何に応用するか、という洞察力はそこを出た後から身に付くことで、学校に居る間は評価の対象に成りにくい。
普通の社会の人達は、本人の持って生まれた資質を評価することなく、その人の出た学校の評価で個人を評価するので、世の中がいびつになるのである。
こんな解り切ったことを、本来、優秀であるべき人たちに解らない筈はない。
そんなことは重々判っているが、それでも世の中が少しも改善の方向に向かわないのは、当事者が自分の身の安全を最優先のこととして、事に当たるからであって、まさしく絵に書いたような保身の構図である。
何よりも我が身が可愛いわけで、自分の不利になることは、身が裂けても進言しない、という保身の術に固執しているからである。
人間の持つ自己愛というのは、最も基本的な自然の人間の在り様なわけで、自然の感情をそのまま素直に表した表現であろうが、文化というのは、その自然を如何に克服するかにかかっている。
足を踏まれたから条件反射的に踏み返す、というのは極めて自然人の立ち居振る舞いである。
殴られたから素直に殴り返すというのも、これと同じ自然の在り様であって、殴られた時に一寸考えて「何故、俺は殴られたのだろう」と考える時間差こそが文化の度合いと言うもので、知識人と言われる人ほどその時間差が大きい。
それと同じで、人間は自己愛が強いのは当然であるが、その自己愛をほんの少し他者を愛する方に向ければ、世の中はうんと住み易くなると思う。
ここでごく当たり前の人でも、教育を積む、いわゆる高等教育を受けて学識経験が豊富になればなっただけ、他者を思いやる気持ちが醸成されて然るべきではないか、というのが私の思考である。
ところが世の中の人というのは、いくら高等教育を受けて学識経験が豊富になっても、他者を思いやる気持ちが一向に旺盛になることはなく、自然のままの自己愛に耽っているから世の中は一向に進化しないのである。
平成23年3月11日の東日本大震災で福島県で原子力発電所の事故が起きて、被害が広範に及んで、未だに被災したままの人がいて、そういう人はまことに気の毒だとは思うが、だからと言って「直ちに原子力発電は禁止すべきだ」という議論はあまりにも拙速すぎると思う。
「原子力発電は危険だか直ちに止めましょう」では、まさしく幼児の発想ではないか。
確かに3・11の大地震で原子力発電所が大きな事故を引き起こしたことは事実であって、その対応の不味いところがあったことも事実であるが、たった一度の事故で、原子力発電を全否定する発想というのは余りにも子供じみている。
そういう単純な思考を声高に叫ぶ人に限って、「ならばそれを除いた発電と電力の需要をどう管理するのだ」という問題には頬被りするわけで、原子力発電を止めた後の対応については何の対策も持ち合わせていない。
ただ眼前に原子力発電所の事故があり、その被害者が巷に溢れており、復興は遅々として進まないので、大騒ぎを演じているが、今の日本にも原子力の専門家というのは履いて捨てるほど居る筈だ。
本来ならば、そういう人たちが、大衆と称する無知蒙昧な、有象無象の人の集団をコントロールすべきであるが、そういう専門家は専門家なるが故に、それぞれに一家言持っているわけで、話は簡単にまとまらない。
世の中の民主化が進んで、それぞれの階層から高等教育を受ける人が多くなって、学識経験の豊かな人が輩出するということは、それぞれの専門家が多くなるということで、そういう状態になると専門家は専門家なるが故に、自分の意見に固執して、「我こそが一番正しいのだ」という思い込みから抜け切れない。
言い方を変えると、意見の集約が出来ないということになるわけで、方向性が一つにまとまらないという結果を招く。
民主化の結果として、意見を持った人がそれぞれに自分の意見を言うことが許されれば、口角泡を飛ばす議論ばかりが盛んになって結論が何時まで経っても出ない。
結果として、事は一向に進展しない。
これを多少とも強引に意見の集約をしようとすると、独裁だとか、非民主的だとか、主権の侵害だとか、まさしく「風が吹くと桶屋が儲かる」式の議論が輩出する。
こういう状況を丸く治める知恵を育むことが高等教育であり、学識経験というものではなかろうか。
立派な大学で、高額な費用を掛けて高等教育を授かったものが、こういう場面で自らが口から唾を飛ばして議論の輪に入ってしまっては意味を成さないではないか。
そういう立場のものは、鵜飼いの鵜匠のように、それぞれに勝手に言いたい放題の事を言っている個々の鵜を、手綱さばきよろしく集約させるべきではないのかと思う。
それぞれの専門領域の中で、それぞれに自分の意見を開陳することは極めて優れたことであるが、それを一つに集約するのは、やはりそれぞれの学会なり業界の責任であって、それをコントロールすべきは、やはり政治の使命だと思う。
ここで問題となるのが、メデイアの使い方であって、メデイアを治世のツールとして十分に使い切る手法は極めて難しいと思うが、我々、日本人は「メデイアを統治のツールとして使い切る」という発想に思いが至っていない。
その事は同時に、我々日本人は、統治におけるメデイアの使い方において、発想の原点のところに、そのノウハウさえも持っていないということである。
我々は、同胞を統治するのに、メデイアを如何に使い、如何に使い切って、政治のツールにするかということを考えたことがない、ということだと思う。
明治維新以降の数ある教育機関の中には、優秀な人材が数多く輩出しているであろうが、メデイアを如何に統治のツールにするかと考えた者が居ないということは一体どういうことなのであろう。
という本を読んだ。
サブタイトルには「生きること死ぬこと」となっている。
著者は川田順造となっている。
奥付きによると、現在は神奈川大学の日本常民文化研究所所員ということらしいが、東大出の相当な学識経験者ということだ。
冒頭からいきなりアフリカの奥地で起きた自分自身の交通事故の経過説明から始まっている。
その過程で、フランスで骨折の手術を受けたが、そのフォローを日本の国内で施術した。ところが、その時の日本側の医師の対応が極めて不味かったという話から説き進んでいる。
西洋の学問の洗礼を受けた人の、典型的な思考パターンではないか思う。
「日本は、何でもかんでも劣悪で、西洋先進国を見習うべきだ」という発想は、我々の明治維新以降の根源的な潜在意識となってしまっているようだ。
だから本来、我々の同胞が学問を治める本旨は、その深層部分を掘り下げて、「我々は世界的なレベルで真に劣等民族か?」ということを再認識すべきが日本における知識人の使命にならなければ可笑しいのではなかろうか。
私は自分に学歴がないので、高学歴の人には反射的に敵対的な感情を持ってしまうが、自分に学歴がないが故に、人の学歴が気になってしょうがない。
私自身は無学の身であっても、それを克服してひとかどの人間になってやろう、という欲望もないので、自分の人生に十分満足している。
しかしながら、世の中には立派な学歴を持ちながら、愚にもつかないことを言ったりしたりする人が余りにも多いので、世の教育、特に高等教育が日本人の在り様にどういう効果をあらしめているのか不思議でならない。
高学歴志向というのは、我々日本人ばかりではなく、地球規模で、どこの国でも、どの民族でも潜在意識としては高学歴志向を秘めていると思う。
出来うれば、可能な限り、高学歴を目指すというのが生きとし生ける人類の基本的な願望のようだ。
地球規模で見て、人々が、学校教育は高ければ高いほど良いと思う背景には、その教育の実績が立身出世の免罪符となっているからであって、立身出世することによって富を得ることができるので、富を得る手段として高学歴を目指すというのが基本的なパターンではないかと思う。
こういう考え方は、何も我々日本人だけではなく、あらゆる国、あらゆる民族に共通した思考なわけで、いわばグローバル化したコモンセンスでもある。
日本が、江戸時代を脱して明治維新を経て、学校教育を充実させて、国民の知的水準を底上げしたことは、その後の日本の発展に大いに貢献したと考えられる。
この時には、日本民族の底辺の知的レベルの底上げにも力を注いだが、社会のトップの人材養成にも力を注いだわけで、高等教育にも並み並みならぬ努力を傾注した。
ところが21世紀の今日では、日本という国を、地球規模で眺めた時、かなりハイレベルの先進国の仲間になってしまっているので、教育に対する考え方も見直す時期にあると思う。
国民のというよりも、若い世代の80%も90%もが高等教育を受ける状況というのは、どう考えても正常な状況ではないと思う。
江戸時代から明治時代までは「駕籠に乗る人、担ぐ人、その又草鞋を作る人」という社会的分業というか、階層の役割分担というか、分をわきまえるというか、そういう生き方に誰も疑いを持たず、それを社会全般が受け入れていた。
しかし、人間の根源的な願望としては、誰もが「草鞋を作る人」よりも「駕籠に乗る立場」を欲するわけで、その目的達成の手段として、高等教育を目指すのである。
これは地球規模で見て世界中で皆同じだと思う。
ここで私が問題にしたいことは、その高等教育がモラルの向上に関しては何の影響力も持ち合わせていないという現実である。
これも地球規模で見て万国共通のようであるが、民主主義の度合いによって、程度の差は顕著に散見できる。
この本でも冒頭に「フランスの医療は素晴らしいが、日本の医療は駄目だ」と説かれているが、これも明らかに西洋コンプレックスの表れであると同時に、我々の側のものの考え方の唯我独尊的な独善でもある。
「ヨーロッパは素晴らしいが、日本は駄目だ」という自虐的な思考の顕著な例だと思う。
この本の著者は、基本的には民俗学者であって、世界のさまざまな民族を研究しているが、それはそれで立派な学問であろうが、そういう人文科学という面から考えると、教育とモラルというテーマで社会を掘り下げて眺める学問もあっても良いのではなかろうか。
民主政治というのは、突き詰めれば衆愚政治になるわけで、大勢の人の言うことを聞いておれば、事態はなにも進化しないわけで、事態を何とか打開しようとすると「独裁だ」とか、「民主的手法を逸脱する」とか、「結果がでないのは為政者が悪いからだ」という論理が罷り通っているが、こういう現状に対して学識経験者はきちんとした筋の通った発言はしない。
大抵は、大勢の人のいう言い分に加担するわけで、そういう烏合の衆に対して「あなた達の言っていることは間違っているよ」ということは決して言わない。
大勢の人の言い分が、「多数派のエゴイズムで独善だ」ということは、決して言わないが、こういう状況下で、学識経験豊富な知識人といわれる人たちが正論を言わず、多数派の言い分を由とするから、世の中が混沌とするのである。
高等教育を受けた知識人が多数派にくみするのは、言い方を変えれば、或る意味の保身であって、正論を持っていながら、それを言うべき時に言わずに、嵐が行った後になって「あの時は、私もそう思っていた」と、後から言うようなものである。
高等教育を受けるような人は基本的に頭が良い。
戦前、陸士や海兵に進んだ人は頭が良いといわれていた。
戦後、高度成長の最中、銀行や証券会社に蝟集した大学出は秀才の誉れ高き人たちであった。
こういう優れた秀才たちが、結果としてどういう実績を残したかと問いなおせば、日本を焼け野原にしたのはそういう秀才たちであったし、戦後の経済を未曾有の低迷に追い込んだのも、日本の最も優秀といわれていた秀才たちであったわけで、ならば日本での秀才というのは一体どういう社会的貢献をしているのかと改めて問いただしたい。
教育というのはタダでは出来ない話で、国民の底辺のレベルアップの為の初等教育に掛かる金ならばいた仕方ないが、高等教育というのは一部の選抜された特に優秀だという人に集中的に投資されているわけで、その投資に対する見返りは当然考慮に入れてもいい話だと思う。
つまり、費用対効果という意味で、そういう人にはある一定の期間、国家に対する義務を負わせても良いのではないかと思う。
この本の作者の本職は民俗学者だ。
ぶっちゃけていうと、アフリカの奥地や、南米の奥地に分け入って、そこの現住民の生活をつぶさに観察して、それを論文に仕立て上げて、そのことを民俗学の研究と称しているわけだ。
国内では、日本でも僻地といわれる地方に行って、そこでもやはり同じようにその地の人々の生活を観察して、研究と称しているわけだが、その研究の実態は、現地の人々の邪魔をしているに過ぎないのではなかろうか。
和船の櫓の漕ぎ方がどうのこうの、苗床の均し方がどうのこうの、ということは東京大学を出た人にとっては学問の対象かもしれないが、そういう学問は知のセンズリ・自慰行為に過ぎず、人類の未来に対する貢献は何一つないわけで、ただただ研究費と称する金を浪費しているに過ぎない。
市井の無名の大衆は、学者の視点から見ると研究対象となる立ち居振る舞いを、日々の生業としているわけで、それだからこそ「草履を作る人」として、社会のすそ野を形作っているのである。
そういう人の上に、学校で選抜された人が、社会のリーダーに成るべく高等教育の機会を与えられるのであるからして、高等教育を受けた人は、当然、社会に貢献、恩返しをする気持ちを抱くべきだと思う。
それが倫理観というものではなかろうか。
社会が、優秀な人を選抜して、その人に社会のリーダ-たるべき学識経験を積む機会を与えた結果として、立身出世という形で社会のトップの座を占める様になったならば、その働きというのは社会に還元されて然るべきだと思う。
ところが社会が複雑になってくると、皆が皆、「駕籠に乗る立場」を渇望するわけで、その目的達成の為に高等教育を授かろうと考えるので、目的と結果が逆転してしまった。
我々が普通に言う「優秀な人」という場合、それはおおむね学校秀才を指しているわけで、この学校秀才というのは、学校というフィールドの中では確かに優秀かもしれないが、そういう人が社会に放り出されても、尚優秀の名をほしいままに出来るかというと、案外これは難しい。
学校というフィールドの中で培われる教養・知性というものは、ただ単に知識の量を増やすことだけではないはずで、その増やした知識で以て、人々が大勢うごめいている社会を、少しでも良い方向にしよう、しなければという方向性も同時に育まれていて当然だと思う。
問題は、この住みよい社会、良い社会、よりよい社会という、共通の目的である筈の物が、その人の受けた教育のレベルによって、とんでもなく幅が広いという点にある。
我々レベルの、ほぼ無学に近い大衆では、為政者の言うことを素直に受け入れて、それに協力することが良い社会の建設に繋がると単純に思い込んでいるが、高等教育を受けた人たちは、そう単純に為政者の言うことを信じず、為政者の立ち居振る舞いには常に批判的な態度を示している。
その結果として、世の中は一向に安定せず、不安定要素のみが浮草のように漂って、激動の世紀を呈することになる。
我々日本人のみならず世界の人々が高等教育に一種の憧れのようなものを抱いて、「教育は高ければ高いほど素晴らしい」と漠然と思っているようで、金と機会さえあれば、少しでも高みに登りたいと考えているようだ。
だが、これは高くて高度な教育を受ければ、それに応じて高給が得られるのではないか、という幻想に踊らされている姿である。
こういう発想自体が極めて幼児的な思考で、知識をいくら貯め込んでも、洞察力は全く進化していないという顕著な例だと思う。
当然と言えば当然で、学校というフィールドの中で「優れた人」という評価は、教えられたことを如何に覚えているか、という記憶力の競争の場であって、教えられたことを如何に応用するか、という洞察力はそこを出た後から身に付くことで、学校に居る間は評価の対象に成りにくい。
普通の社会の人達は、本人の持って生まれた資質を評価することなく、その人の出た学校の評価で個人を評価するので、世の中がいびつになるのである。
こんな解り切ったことを、本来、優秀であるべき人たちに解らない筈はない。
そんなことは重々判っているが、それでも世の中が少しも改善の方向に向かわないのは、当事者が自分の身の安全を最優先のこととして、事に当たるからであって、まさしく絵に書いたような保身の構図である。
何よりも我が身が可愛いわけで、自分の不利になることは、身が裂けても進言しない、という保身の術に固執しているからである。
人間の持つ自己愛というのは、最も基本的な自然の人間の在り様なわけで、自然の感情をそのまま素直に表した表現であろうが、文化というのは、その自然を如何に克服するかにかかっている。
足を踏まれたから条件反射的に踏み返す、というのは極めて自然人の立ち居振る舞いである。
殴られたから素直に殴り返すというのも、これと同じ自然の在り様であって、殴られた時に一寸考えて「何故、俺は殴られたのだろう」と考える時間差こそが文化の度合いと言うもので、知識人と言われる人ほどその時間差が大きい。
それと同じで、人間は自己愛が強いのは当然であるが、その自己愛をほんの少し他者を愛する方に向ければ、世の中はうんと住み易くなると思う。
ここでごく当たり前の人でも、教育を積む、いわゆる高等教育を受けて学識経験が豊富になればなっただけ、他者を思いやる気持ちが醸成されて然るべきではないか、というのが私の思考である。
ところが世の中の人というのは、いくら高等教育を受けて学識経験が豊富になっても、他者を思いやる気持ちが一向に旺盛になることはなく、自然のままの自己愛に耽っているから世の中は一向に進化しないのである。
平成23年3月11日の東日本大震災で福島県で原子力発電所の事故が起きて、被害が広範に及んで、未だに被災したままの人がいて、そういう人はまことに気の毒だとは思うが、だからと言って「直ちに原子力発電は禁止すべきだ」という議論はあまりにも拙速すぎると思う。
「原子力発電は危険だか直ちに止めましょう」では、まさしく幼児の発想ではないか。
確かに3・11の大地震で原子力発電所が大きな事故を引き起こしたことは事実であって、その対応の不味いところがあったことも事実であるが、たった一度の事故で、原子力発電を全否定する発想というのは余りにも子供じみている。
そういう単純な思考を声高に叫ぶ人に限って、「ならばそれを除いた発電と電力の需要をどう管理するのだ」という問題には頬被りするわけで、原子力発電を止めた後の対応については何の対策も持ち合わせていない。
ただ眼前に原子力発電所の事故があり、その被害者が巷に溢れており、復興は遅々として進まないので、大騒ぎを演じているが、今の日本にも原子力の専門家というのは履いて捨てるほど居る筈だ。
本来ならば、そういう人たちが、大衆と称する無知蒙昧な、有象無象の人の集団をコントロールすべきであるが、そういう専門家は専門家なるが故に、それぞれに一家言持っているわけで、話は簡単にまとまらない。
世の中の民主化が進んで、それぞれの階層から高等教育を受ける人が多くなって、学識経験の豊かな人が輩出するということは、それぞれの専門家が多くなるということで、そういう状態になると専門家は専門家なるが故に、自分の意見に固執して、「我こそが一番正しいのだ」という思い込みから抜け切れない。
言い方を変えると、意見の集約が出来ないということになるわけで、方向性が一つにまとまらないという結果を招く。
民主化の結果として、意見を持った人がそれぞれに自分の意見を言うことが許されれば、口角泡を飛ばす議論ばかりが盛んになって結論が何時まで経っても出ない。
結果として、事は一向に進展しない。
これを多少とも強引に意見の集約をしようとすると、独裁だとか、非民主的だとか、主権の侵害だとか、まさしく「風が吹くと桶屋が儲かる」式の議論が輩出する。
こういう状況を丸く治める知恵を育むことが高等教育であり、学識経験というものではなかろうか。
立派な大学で、高額な費用を掛けて高等教育を授かったものが、こういう場面で自らが口から唾を飛ばして議論の輪に入ってしまっては意味を成さないではないか。
そういう立場のものは、鵜飼いの鵜匠のように、それぞれに勝手に言いたい放題の事を言っている個々の鵜を、手綱さばきよろしく集約させるべきではないのかと思う。
それぞれの専門領域の中で、それぞれに自分の意見を開陳することは極めて優れたことであるが、それを一つに集約するのは、やはりそれぞれの学会なり業界の責任であって、それをコントロールすべきは、やはり政治の使命だと思う。
ここで問題となるのが、メデイアの使い方であって、メデイアを治世のツールとして十分に使い切る手法は極めて難しいと思うが、我々、日本人は「メデイアを統治のツールとして使い切る」という発想に思いが至っていない。
その事は同時に、我々日本人は、統治におけるメデイアの使い方において、発想の原点のところに、そのノウハウさえも持っていないということである。
我々は、同胞を統治するのに、メデイアを如何に使い、如何に使い切って、政治のツールにするかということを考えたことがない、ということだと思う。
明治維新以降の数ある教育機関の中には、優秀な人材が数多く輩出しているであろうが、メデイアを如何に統治のツールにするかと考えた者が居ないということは一体どういうことなのであろう。