ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「誰がための官僚」

2009-09-23 13:23:27 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「誰がための官僚」という本を読んだ。
著者は塩田潮氏。
彼は何年か前、田原総一郎の「朝まで生テレビ」にも時々登場していたので、顔はテレビを通じて知っていた。
しかし、本の内容はそう大いしたものではない。
自民党政治が今年(平成21年9月)において終止符を打ったが、この本を読んで見ると、今、民主党が唱えている政治改革の大部分は、10年前に自民党が唱えていた内容と寸分と違わないわけで、つまり自民党としては10年経っても何一つ実績として残せなかった。
だったら民主党に政権を渡せという論理で、世の中が動いたものと私は推察する。
鳩山内閣が始動して2週間余りが経過したが、鳩山氏は亀井静香氏を郵政改革、金融相に任命しているが、これは小泉首相の郵政改革民営化を真っ向から否定することになるわけで、これは一体どう考えたらいいのであろう。
小泉氏の郵政改革は、いくら小泉チルドレンといわれようとも、国民の支持を得て郵政民営化が進められたわけで、鳩山氏が小泉首相の思考と正反対のものを大臣に据え、改革を元の黙阿弥に戻そうということをどういう風に解釈したら民主主義との整合性を説明できるのであろう。
麻生太郎の自爆は、彼自身が「郵政改革には私も反対だった」などと妙なことを口走ったものだから、自民党そのものが信用を失ったに違いない。
小泉首相の時は、国民の大勢が郵政改革推進の方向になびき、今度はそれが逆風となって、郵政改革反対の方向に国民の大勢が変化したのであろうか。
郵政民営化を押した民意と、それを逆戻りさせようという民意は同じものなのであろうか。
小泉首相の時は小泉チルドレン、鳩山首相の代になると小澤ガールスと呼ばれるわけで、こういう人々の民意というのは、時と場合によってあっちに行ったりこっちに行ったりと、まさしく浮動票なのであろうか。
民主党の政権になって、巨大プロジェクトの見直しということも現実化してきたようだが、そもそも巨大プロジェクトというのはなんの目的意識もなしに、ただただ税金の無駄使い、あるいは地元の土建業者を食わせるためにだけに存在していたわけではない筈である。
プロジェクトが計画された段階では、それぞれに時代の要求にこたえるべく、地元の住民の要求にこたえ、将来を見越した展望に立って計画がなされたものと思う。
しかし、巨大プロジェクトなるが故に、時間も金もかかり、その間に周りの状況の方がさっさと変化してしまったわけで、現時点では不要という状況もありうるであろう。
民間企業でも時代の波に乗って大きく飛躍する企業もあれば、時代の波を読みそこなって、倒産する企業も掃いて捨てるほどあるわけで、官主導のプロジェクトでも、成功するものもあれば失敗するものもあるのは当然で、時代の推移で出来上がったプロジェクトが、出来上がった時点で既に時代遅れだったということも往々にしてあることは事実だと思う。
ここで官が大きく力量を発揮することが本来の政治の最も肝要な部分だと思う。
出来上がった時には時代遅れのようなプロジェクトを、計画の段階でチェックすることが官の大きな使命だと思う。
有能な官僚というのは基本的にはある種のシンクタンクでなければならないと思う。
普通の日本人の発想からいえば、官僚は行政サービスのサービス業でなければならないと思っている向きもあるが、現場の官僚は確かにサービス業に徹してもらわなければならないが、官僚のトップ、高級官僚というのはシンクタンクに徹すべきだと思う。
今回の政変では、民主党は政権を取りたいがためにバラ色のマニフェストをばら撒いたが、その中味は10年も20年も前の政治改革、行政改革のオンパレードであって、何ら目新しいものはない。
問題はそれが出来なかった自民党政権の側にあるが、自民党で出来なかったことが、民主党になればできるかどうかである。
官僚と政治家を対比させれば、官僚の方が頭脳的には上だと思う。
我々レベルの言い方でいえば、「頭が良い」ということになる。
当然といえば当然であって、官僚というのは国家公務員試験という関門を潜ってきているので、世が世ならば科挙にパスしたようなもので、その時点ですでに身分は保障されていることになる。
官僚の問題は、すべてがこの部分にあるわけで、国家公務員試験に合格した時点、つまり科挙の試験にパスした時点で、身分が保障されるという点に、官僚のすべての問題が起因している。
人間の生育過程の極めて初期の時点で、その人の将来が保障されるとなれば、当人は何を目指して生きるのかと考えた時、答えは一つしかないわけで、御身大切と、決して危ない橋を渡らないよう身を慎むわけで、これを別の言葉でいえば何もしないということに尽きる。
何かを変えようとするから、何かと問題が起きるわけで、何もせず、いつもいつも現状維持でおれば、問題は決して起きてこないわけで、若い時に一度科挙の関門を通過して、身分が保障されたとなれば、新しい挑戦を試みれば失敗した時には将来の安泰した生活保障を失うリスクを抱え込むことになり、誰もそういう冒険には挑まない。
そもそも、若い美空で官僚の道を選択するという発想からして、若さの発露である他者との競争心や、困難な目標に挑戦するチャレンジ精神が欠けているわけで、そういう人間が将来の身分保障を得た後で、新たな問題に果敢に挑むことは考えられない。
この本は、省庁再編成に絡む各省庁内の人事を克明に記しているが、私はそういうものにはあまり関心がなく、それよりも各省庁の掲げる理念に大いなる関心がある。
ところが、官僚にとっては、そういう理念など最初から問題にしていないわけで、彼らには理念も理想も最初から存在していない。
無理もない話で、彼等は究極のサービス業であるにも関わらず、自分達の仕事が国民へのサービスであるということを考えた事もない。
またそれを後押ししているのが、これまた日本の国民であって、国民の側には官僚の「ご指導賜りたい」という謙譲の美徳がぬぐい切れず、何でも「お上」と称して、挙げ奉る風潮を払しょくしきれずにいる。
公務員と自分は対等の立場のいるということを、双方で気が付こうとしていない。
「国民は納税者だ」ということをもっと強く言いだせば、官僚の国民に対するサービスの内容も、少しは変わるのではなかろうか。
今回の民主党政権は、人気取りとも思える気前のよいバラ捲きをして、教育の無料化だとか、生活保障だとか、綺麗事を並べているが、基本的に生活保護を受けている人間が朝からパチンコをしている現状をどう考えているのであろう。
生活保障とか、弱者救済という綺麗事の裏には、人の善意を踏みにじるような行為が臆面もなく横行しているわけで、生活保護を受けているものが朝からパチンコをしている現状を納税者としてどういうふうに考えたらいいのであろう。
汗水たらしてせっせと働いた納税者が、朝からパチンコに現を抜かしている怠惰な人間を、何故に救済しなければならないのだ。
汗水たらして働いた人の給料よりも、生活保護の方が金額が多い、というのも腑に落ちないことであるし、教育の無料化も、児童手当の拡充も、国が国民に金をばら撒くことに変わりはないわけで、政府の人気取りということは紛れもない事実であり、国民としても金が国家から垂れ流されれば良いに決まっているが、ならばどこにそのしわ寄せが集中するかも改めて考えておかねばならない。
こういうことを考える事が、官僚の基本的な存在感だと思うが、その意味で官僚はシンクタンクだというのである。
政治家と官僚を対比させれば、官僚の方が優れていることは誰の目にも明らかなわけで、政治家が官僚を使いこなさなければならない、ということは10年も20年も前から言われている。
自民党ではそれができなかったが、民主党はそれをすると言っている。
国民はお手並み拝見ということで傍観するほかないが、官僚システムというのは如何なる時代状況になろうともシステムが変わるということはあり得ない。
この本では、橋本内格の時の省庁再編は明治維新以降最大の変革だと褒め称えているが、確かに省庁再編で所管事業の変更はあったかもしれないが、組織の構図そのものはいささかも変わっていないわけで、科挙の制は立派に生き残っているではないか。
我々が統治者を「お上」と、挙げ奉る最大の理由は、我々の民族の根源にかかわる太古からの潜在意識だと思う。
つまり我々は、従来、農業を主体とする封建主義思想の中でながい間暮らしてきたので、農村集落の在り方として長老に依存することを不思議とも何とも思わなったが、これは長老という体制側に身を寄せていれば、何かと都合が良い事を体験的に悟ったからである。
身の回りの集落の中では、長老に代表される体制側に身を寄せれば、それで身の安泰は確保されたが、これが規模拡大して国家公務員試験にパスしたとなれば、国家の体制側に身を委ねられる最大の保証を得たことになり、「お上」に一歩も二歩も近付いたことになる。
農村の集落の中で、長老の存在に何ら違和感を感じなかったということは、そういう政治の中では一切の変革がなかったということであって、全てが伝統と因習という言葉で片付けられていたということだ。
若いはつらつとした青年が、そういうものにあこがれて、若いうちに科挙の関門を潜ったら、後は何もせずとも将来安泰とした生活が保障されること信じて生きるということは、私の価値観では信じれないことであるが、現実に今の官僚というのは、そういう狙いで官僚になっているものと推察している。
彼らには「国民の税金で生かされている」という意識は最初から欠落しているわけで、むしろ許認可権を持っているが故に、自分達は国民の上に君臨する存在だと思い違いしている向きが多い。
どんな組織でも、長い年月がたてば組織そのものが堕落し、組織疲労が生じ、組織の活性化が退化しがちであるが、これを生き返らせるにはトップの若返りしか道はない。
トップの若返りということは、いわゆる組織のトップグループの意識改革であるが、官僚を目指した人の大部分が同じ科挙の関門を潜ってきているので、能力的にはそれぞれに優劣がつけ難たく、もし付けるとするならば、減点法でミスの少ないものが生き残るという判断材料にならざるをえない。
だとすれば、彼等の中で如何にミスを誘発しないかと考えれば、当然のことな何もしないことに尽きるわけで、何もしなければミスはありえない。
こういう若者が、官僚という組織の中には一杯いるわけで、だとすれば組織そのものが活性化しないことは当然のことである。
民間企業ならば、大きな飛躍をなす動機つけは、若者のチャレンジ精神であることが往々にして散見されるが、官僚の世界においては、若者のチャレンジ精神が発揮する場は最初から無いに等しいし、第一生身の人間、官僚という人々、国家公務員そのものに、何かに挑戦するという気概は最初から存在していない。
日本はアメリカと戦争して完膚なきまで完全に屈服させられたが、その経緯を子細に眺めてみると、我々はともすると軍人という職業人の傲慢な振る舞いにその淵源があると思い込んでいるが、あれは軍人であると同時に官僚でもあったわけで、日本の官僚の悪弊が見事に昭和の軍人、昭和の高級軍人に反映されている。
彼等は軍人である前に、完全に立派な官僚でもあったわけで、それをそういう風に仕立てたのは案外国民の側でもあるように見える。
例えば、昭和初期の時代に、陸軍士官学校や海軍兵学校に進学した人は、国民の総意としてそういう人達は優秀な人で、村一番町一番の秀才であったという評価が独り歩きした。
結果として、そういう優秀な人たちであったればこそ、政治や行政に嘴を差し挟んでも、国民やメデイアも黙って見て見ぬ振りをし続けてきた。
その結果として、日本は奈落の底の転がり落ちたわけであるが、戦後の評価においても、「陸士や海兵の出身者は優秀だ」、という評価はいささかもゆるいでいないが、ならば日本を奈落の底に落としたのは一体誰なのかという反省は全くない。
日本を奈落の底に落としたのが、陸士や海兵を優秀な成績で卒業した先輩達であった、という認識はついに出ずじまいである。
昭和の初期の時代において、日本の青年有志の大部分が、陸士や海兵に憧れたわけで、そのあこがれの根底には、一度科挙の選抜を潜れば、後は輝かしい未来が輝いている、という未来思考であったわけで、この時代の若者はその輝かしい未来の中に、国家の為に我が身を殉ずることを内包していた。
だからその意味では、まだまだ純で可愛い考え方が残っていたが、戦争という切羽詰まった状況がなくなると、あるのは安逸な堕落した生き方しか残らない。
よって科挙の門を潜って、官僚という仲間の中に身を投じてみると、彼等の関心は、同期の中で誰が一番先頭を走るかという、自分達の世界だけの話題になってしまったのである。
国に奉仕する、国民のために働く、国の発展の礎になるというように、彼等の頭から自分の国家というものが抜け落ちてしまって、彼等は彼等のグループの中だけの世界に埋没してしまったのである。
戦争に負けるまでは、国の存在、国家の在り方、それを理論武装するための天皇制というものが立派に生きていたので、国のため、国家のため、銃後の民のため、故郷の先輩・後輩・同僚のためという言葉に心が通っており、真実味があったが、戦後の世相では、忠君愛国の裏側の真実を知ってみると、従来、優秀だと思っていた連中に自分達が見事に騙されていたことがわかってしまったわけで、科挙の試験をパスするような本当の秀才は信じるものを失ってしまった。
何を信ずればいいのか分からなくなってしまったので、行きついた先が、自分自身を信じるほかなく、何もせずに無為なまま、立身出世の順番を指折り数えて時を過ごすことになったわけである。
官僚、国家公務員であるからして、彼らにはコスト管理という概念がない。
また費用対効果という概念もないわけで、要するに金というのはいくらでも地から湧き出てくるものだという発想でしかない。
ですから一つの事をなすのに、如何に安く仕上げるか、どういう工夫をすればいくら経費を抑えられるか、ということを考える習慣が全くない。
国鉄民営化の時も、今の道路の建設の問題でも、いつも政治路線というのが話題になるが、政治路線というのはいわゆる地元選出の国会議員の意向を汲んで、利用頻度の向上が望めない路線まで作る、ということが批判された。
族議員の横グルマを官僚が引き受けるということは、官僚自身が自立した判断能力に欠けているからに他ならない。
こういう場面を目にすると、一見、政治家が官僚をリードしているかのように見えるが、こういう理屈の合わないごり押しに抗しきれない官僚は、自分の金でないから政治家のごり押しを飲んでいるのである。
個人の投資としてならば、決して儲けの出ない話に、いくら国会議員の口添えがあったとしても、それを信じるバカはいないわけで、政治路線というのもこの話と同じことである。
要するに政治家の票集めの政治路線が跋扈するのは、政治家も官僚も共に無責任だからこういうことになるのである。