ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「ナチが愛した二重スパイ」

2009-09-04 06:48:28 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「ナチが愛した二重スパイ」という本を読んだ。
結構面白い本であったが、なにしろ分厚で、ページ数が多く、読み通すのに難儀した。
読むだけで難儀と感じるのならば、この本を翻訳した人はもっと難儀であったろうと推察する。
ヨーロッパのスパイ合戦というのは実に興味深いものがある。
小説や映画にも十分なりうる。
そもそも、この世に生まれた人間で戦争を好む者はいないわけで、人は基本的に戦争を唾棄する存在だと思う。
戦後の日本の知識人が声高に叫んでいるように、話し合いでことが収まれば、それに越したことはないわけで、双方が鉄砲を撃ち合うなどということは、下の下の政策であることは洋の東西で変わらないと思う。
そのため、つまり武力行使を回避する話し合いということは、いわゆる外交ということで、外交ともなれば所詮キツネとタヌキの化かし合いということであるが、その化かし合いの根底に流れているのが、いわゆるスパイによる情報収集だと思う。
ただただ相手の情報を探るというだけではなく、こちら側から偽情報を流して、相手を混乱させるということも大いにありうるわけで、それも戦争遂行の有力な手段である。
ところが我々の古典的な認識では、こういう戦い方は火器を派手に使わないので、戦争とは認めず、その為非常に軽蔑するわけで、正面からの正々堂々とした一騎打ち的な戦法のみが、勇気ある戦い方だという認識で凝り固まっている。
江戸時代でもそれぞれの殿様は結構忍者を使って情報収集を行っているにもかかわらず、忍者の存在そのものを否定したり、素っぱだとか御庭番だとか影武者などと称して、自分達の兵力の一員とは見なしていない。
こういう潜在意識が今日まで尾を引いているので、今でいうスパイというような職域のものを案外軽く見る気風が抜け切れていないようだ。
基本的に、二つの国が正面から武力でぶつかり合う戦争というのは、政策としては一番の愚策であるはずで、一番利巧な政策というのは、外交交渉で一滴の血も流すことなく、自分達の思いを貫くことであって、その為には情報で武装しなければならない。
相手の情報を如何に多く持っているか、ということが外交上の大きなカードになるわけである。
その為には、話し合いの過程で「ここで譲歩すれば相手は武力行使に出ないであろう、ここを押し切ればきっと相手は武力行使に出るであろう」という腹の探り合いを経て、話し合いが進むわけで、その均衡を探り当てる為には、相手側の情報が不可欠である。
ところが今の日本というのは、最初から「武力行使はいたしません」と世界に広言してしまっているわけで、相手はこちらの腹を探る手間が最初から不要なわけである。
こちらのカードは最初から曝け出して手の内を見せびらかしている状態である。
こんなバカげた外交交渉というのはありえないと思う。
戦後の日本は確かにスパイ天国だと言われて、スパイにとってこれほど活躍しやすい国もまたとないと言われている。
この言葉の意味する真の意味は、日本は国家の体をなしていないということに尽きる。
確かに、日本という国家体制らしきものはあるが、国家という殻が存在しておらず、ナマコとかナメクジのように、形らしきものはあるが掴みどころがなく、一方を押せば反対側が延び、そちらを押せば再び形が元に戻る軟体動物のようなもので、のらりくらりと21世紀の地球上に生息する存在でしかない。
戦後の日本が今まで生きのびてこれたのは、アメリカという傘の下に庇護されていたからに他ならず、日本の存在そのものがアメリカの国益にかなっていたからに他ならない。
終戦直後の食糧難の時、我々はアメリカの食糧支援によって助けられたと思っていたが、あれはアメリカ国内の余剰農産物の有効利用であったわけだし、日米安保条約も日本を守るという側面と同時に、アメリカの不沈空母でもあったわけで、日本のためというよりも、アメリカの国益の部分が大きく存在していたわけである。
しかし、アメリカの国益という部分は、同時に日本の国益でもあったわけで、ナメクジに塩を吹っ掛ける者が現れたら、上からカラスがそれを退治するという構図である。
我々が国家という殻を持たない軟体動物であるとするならば、いっそのことアメリカの52番目の州になった方が、自分達の殻のことに思い煩う手間が省ける。
如何なる国家でも、自分達の国家としての殻を維持しようとすれば、殻の中の血肉を躍動させる神経というものが必要な筈で、その神経がいわゆる情報だと思う。
昭和初期のあの戦争の時代、我が同胞が羨望の眼差しで眺めていたのが前線の兵士であったわけで、あらゆる戦線のあらゆる前線で死闘を繰り返している兵士、戦士に限りない声援を送ったわけで、それは彼等が戦の最前線に立っているから、限りなく勇ましく映ったからである。
我々の同胞は、こういうポスト、いわゆる戦争の最前線にいる同胞に対しては限りない憧憬を惜しまないが、後方支援というような立場の者に対してはまこともに冷淡である。
「輜重兵が兵ならばチョウチョ、トンボも鳥の内」ということが言われたが、これほど戦争の事態を知らない言葉も他にあり得ない。
戦争の素人ならばそれも許される。
しかし、海軍兵学校とか陸軍士官学校というのは素人集団ではない筈で、そういう人たちの中でも、前線と兵站の認識は素人の域を出るものではなかった。
結果として昭和初期の戦争のプロたちは、日本の帝国軍隊というものが消滅するまで、前線と兵站の認識の違いを悟ることなく消え去ったわけだ。
輜重兵に代表されるように、戦争遂行のための補給の大事さということに、軍隊という組織が消滅するまで気がつかなかったわけである。
つまり近代的な、現代風の国家総力戦という戦争の本質を知らないまま、軍隊という組織そのものが消滅してしまったということだ。
この認識不足は今でも立派に生きているわけで、今の我々の生きている世界というのは、単独の国家が毅然と唯我独尊的に屹立するということはありえないわけで、必ずどこかの国と連携を持たずにはおれない。
ということは話し合いの場を何処かにセットアップしなければならないわけで、そこで取り交わされるのは情報である。
情報こそが21世紀の武器であるが、我々の国は、この点についても全く無防備というか、情報が国家戦略のツールだという認識すら持ち合わせていない。
我々は平和国家だから秘密など持ってはならないという言い分であるが、これこそ昭和初期の軍人が戦争を知らなった構図と瓜二つある。
沖縄返還や核持ち込みに関して、日本政府とアメリカ側に密約があったかどうかでメデイアが騒いでゐるが、分別ある大人の思考ならば、あって当たり前、無い方が異常である。
で、その文書を盗み出す、あるいは隠す、あるいは燃やすのが本来のスパイの仕事であって、それを役人が暴いて公開するなどということは、自らの国益に泥を塗るような行為であるが、我々にはもともと国益など最初からないのだから、ただただメデイアを喜ばすだけの効能しかない。
役人は基本的に職務で知りえた秘密は、墓場まで持っていくのが彼等の仁義の筈であるが、それを暴くのが基本的にはスパイの役目であって、暴いたからといって、それは必ずしも一般に公開すればいいというわけでもなく、そこで国益という秤に掛けて判断するのが賢明な為政者である。
メデイア側が雇ったスパイならば、当然、得た秘密を暴露して、そのことによって利益を追い求めることは、メデイアの側もスパイの側も当然の行為であろうが、体制の側というのは、必ずしもそういう構図には成りえないと思う。
我々の住む日本というのは、スパイ天国だと前々から言われているが、それを違った視点から眺めれば、いわば情報の開放区で、ここには隠さねばならない情報というのは、ありえないということになるのではなかろうか。
もう一つうがった見方をすれば、我々は「何を隠して何を公開するのか」という規範がわかっていないということである。
世間では情報開示が姦しく騒がれているが、道路を作る時、その道路が何処を通るかということを開示すると、土地の買い占めを誘発して、土地が高くなりすぎて道路が出来なくなということまであった。
片一方で「情報を開示せよ」と言いながら、もう一方では「プライバシーの侵害だ」と大騒ぎするわけで、我々は、その場その時々で、言いたい放題のことをいい様に言っているに過ぎず、物事の本質まで掘り下げて言っているわけではない。
情報の中には、こういう情報も掃いて捨てるほどあるわけで、こういう情報も本当はバカにできない。
というのは、こういう情報の集まったものがいわゆる世論というもので、それは大きなうねりとなって政治を左右することになるからである。
小泉純一郎の劇場型の民主主義から、今度は真逆の風が吹いて、小澤ガールスの登場という風に、人々の何気ない声が大きな共感を得ることもあるわけで、こういう動きを軽視するわけにはいかない。
日本におけるスパイ事件というと、どうしてもゾルゲ事件に収斂されてしまうが、この事件は完全にヨーロッパ風のスパイ劇である。
リヒアルト・ゾルゲは旧ソ連の赤軍情報部から派遣された、押しも押されもせぬ筋金入りの完全なスパイであったが、日本の官憲もよく彼の尻尾をつかんだものだと思う。
彼は新聞記者という触れ込みで、しかも日本と同盟国でもあるドイツの大使館に自由に出入りできる立場であったわけで、その尻尾をつかんだという意味では、日本の特高警察の大手柄である。
それに引き替え、朝日新聞の尾崎秀実の売国奴的態度を考えると、今でもはらわたが煮えくり変えるほどの憤怒を感じる。
この二人の情報に依拠して、旧ソビエットは、シベリアの兵力をドイツ戦線に向け、ドイツに勝利した後、再びそれを満州に向けたわけで、日本人としてこういうソビエット連邦の施策に、あるいはソビエットの戦略、作戦、戦争に加担した我が同胞の存在をどういうふうに考えたらいいのであろう。
ゾルゲと尾崎秀実が旧ソビエット軍に果たした貢献度というものは計り知れないものがあるが、それは言葉を変えれば、我々同胞のうちの六十万人余りをソビエットに売ったということにもなる。
ソビエットではあまりこの二人の評価ははかばかしくなく、彼の功績がたたえられたのはソビエット崩壊まじかの時期だったように記憶している。
当時のスターリン体制のもとでは、戦争の英雄はスターリン一人でなければならなかったのであろう。
スターリンから見て、どこの馬の骨かもわからないスパイの情報によって、偉大なスターリンの戦略が左右されたでは沽券に関わるわけで、ゾルゲと尾崎秀実の存在など歯にも引っ掛けなかったということだ。
しかし、たった一人のスパイの活躍で、巨大な軍隊を地球の端から端に移動させ、まさしく「濡れ手で粟をつかむ」ような、「漁夫の利」を地でいくような見事な戦略、施策をしたスターリンという人物は、偉大でかつ巨大な悪人だと思う。
日本にもこういう偉大なスパイはいた。
明石元二郎という人で、日露戦争のさなか、ロシアで共産主義革命を支援して、ロシアの内側から体制を蝕む作戦に寄与した例があるが、ゾルゲの行為はそれの裏返しのものと見なすことも可能である。
ただこういうスパイ行為というのは、いくら功積、実績をつもうとも、晴れてそれが顕彰されることがないわけで、だから我々はその実績と重責を正しく評価できずにいる。
最前線で華々しく立ち居振舞う者には限りない愛着を感じるが、陰の、陽の当たらないとろで、こつこつと情報を集め分析して、それを作戦にフィードバックするセクションを蔑にする発想というのは、日本人の顕著な思考だと思う。
要するに、陽のあたる場所と日蔭者という言い方なりがちであるが、そういう偏見を持つこと自体が、あらゆる場面でマイナスに機能すると思う。
人が日常生活を送るときにも、あらゆるセクション、職域、階層で、陽のあたる場所と日蔭の場所というのは存在し続けるわけで、陽のあたるところだけがちやほやされるのではなく、日陰で誰も注目してくれないところで黙々と仕事に励んでいる人たちを注視しなければならないと思う。
ただスパイというのは、まともな人間にはまともに扱ってもらえないことも世界共通のことで、彼等はどこに行っても蔑視されることは当然であって、自分からスパイと名のるバカはいない。
自分の本名や自分の仕事を人に言えないという立場もかなりつらいものではなかろうか。
それも2重スパイともなると、自分はどちらに忠誠を誓っているのか自分でもわからなくなって、結局は嘘の中の嘘の世界の住人ということになってしまい、最後は何が本当のことかわからなくなるに違いない。
しかし、本人はどっち側の人間かわからなくなっても、それを使う側はちゃんとその利用価値を握っているわけで、こういう場面になると完全に心理戦の世界に嵌り込んでしまう。
それはそれで、まことに気っ怪な世界が現出するに違いない。
まさしくキツネとタヌキの化かし合いであるが、その様相は知れば知るほど興味深いものになるのであろう。
この本は、読む人をそういう魅力に引き込んで、分厚な本であるにもかかわらず、最後まで引きこま読み通す魅力にあふれていた。
小説はフイックションで、どこまで行っても架空の話であるが、スパイの話というのは、実際の体験に基づいた部分があるので、それこそ「真実は小説よりも奇なり」というわけで興味深い読み物になっている。