ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「海の昭和史」

2009-09-11 22:00:01 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「海の昭和史」という本を読んだ。
冒頭、あの戦争中における海運業の犠牲者の多さに驚いた。
その犠牲の大部分は、日本の海軍が輸送船の護衛を蔑にしていた結果であった。
それは、日本という国が船で物資を運ばない限り国そのものが成り立たないという現実を無視していた事による。
昭和の初期の我が同胞の多くが、その現実をいささかも理解していなかったということは、まことに不思議なことだ。
私は、あの戦争において、当時の日本の軍人、軍隊、いわゆる帝国陸海軍の軍人たちは、基本的に戦争というものを知らずに、戦争を推し進めていたのではないかと思う。
確かに明治維新以降、西洋列強の軍事技術を導入して、ある程度の近代化は成して、日清、日露の戦役は勝利したが、ここで勝利したが故に、その後の精進をおろそかにして、戦争の本質を見ることを怠ったものと推察する。
これはどういうことかというと、戦争というものを考えた場合、人間の生き様から推し量って、我々は目の前に展開している部分、あるいは眼の前の現象のみに目を奪われて、その背後にある思想、思考を考えることがなかったということである。
つまり、戦争を通じて人間を見るという余裕に欠けていたわけで、目の前の兵器や、武器や、編成にのみに視点が向いてしまって、その現象の裏側、あるいはその向こう側にある世の中の移り変わりに全く考慮することがなかったということである。
世の中というのは常に日進月歩しているわけで、それと同時に、生きた人間の思考も世の中の変化に付随して進化しているのだが、それには全く気を配ろうとしなかったのである。
我々には古来から「勝って兜の緒を締めよ」という俚言があるが、これは実に良いことを言っているにもかかわらず、自らそれを忘却してしまったわけだ。
あの戦争に負けて、我々はマッカアサー元帥の占領下に置かれたが、その彼が最高司令官を解任された後で、アメリカ議会で演説した時、「日本の民主主義は12歳の子供のものだ」と言ったとされているが、まさしくその通りだと思う。
昭和初期の軍人の思考の中には、戦国時代の武将が「やあやあ我こそは何の誰べえで……」と名乗りを上げて一騎打ちをする古典的な戦争のイメージしかなかったわけで、20世紀に至ってもそういう日本古来の戦争のイメージから脱却出来ずにいたわけである。
そのことがあの時代の海軍においても、海戦というのは戦艦と戦艦の一騎打ちこそが誉れ高き帝国海軍軍人のイクサだと認識していたのである。
これを一言でいえば、旧帝国海軍は国家総力戦という戦争の概念を組織全体が消滅に至るまで気が付かなかったということだ。
つまり、この時代日本の軍人が国家総力戦の本質を知らなかったということは、人間そのもの、文化そのものを知らなったということに尽きる。
無理もない話で、軍人というのは戦術的なことは学ぶが、戦略思想についてはいささかも学ぶ機会はなかったわけで、鉄砲の撃ち方、鉄砲の配置の仕方は教わるが、戦わずに勝利を得る方法については全く教わる機会もなかったわけで、そういうことこそ軟弱だと決めつけていたのだからさもありなんである。
この本の冒頭では、日本海軍が戦地へ物資を運ぶ輸送船の護衛にいささかも気を配らなったので、有用な物資がことごとくアメリカの潜水艦に沈められてしまって、結果としてそれが敗北につながったと、述べられている。
歴史から何かを学ぶとすれば、我々のソフトウエアーの完成度を高めるものの考え方を学ばねばならない。
社会の、あるいは国家のソフトウエアーといえば、当然、人文科学に類することで、生きた人間の思考や思想を如何に人類の発展につなげるか、ということになると思う。
日本の海軍が、海戦というものを戦艦と戦艦の一騎打ちと捉える思考は、明らかに戦国武将の思考を一歩も出るものではないわけで、その意味で昭和初期の日本海軍の首脳は、江戸時代前の思考で凝り固まっていたことになる。
20世紀の国家総力戦という戦争形態にはまったく無知であったということが言える。
日本海軍では敵の輸送船や潜水艦を沈めても、それを戦果として計上しなかったと聞いている。
このことは明らかに補給という認識に欠けているわけで、いかなる時代でもイクサをするのに補給を考えずにするバカはいないが、日本の海軍軍人は、補給、ロジスティクということに全く無頓着であって、それがため敵の補給を断つことに無頓着であったが故に味方の補給についても全く無頓着であったわけだ。
「昭和史」という部分を抜き出して考えてみると、軍人というのは基本的に戦術を学ぶというのは、たぶん万国共通だろうと思うが、戦略となるとこれは政治家の領分になるわけで、日本の場合、戦術家としての軍人が戦略家の領分を犯してしまったので、素人政治になり、国家そのものが奈落の底に転がり落ちたわけである。
私が昭和史を眺めて不思議に思うのは、我々の同胞に根ざしている理性とか知性は、世の中の動きに如何様に機能しているのかということである。
昭和初期の陸軍士官学校、海軍兵学校、その他に当時でも我々の国には帝国大学というものがあって、そこには我々の同胞の秀逸が数多くいたに違いないと思うが、そういう秀逸が何故に戦争を知らない軍人になってしまったのであろう。
帝国大学の学生あるいは卒業生は、何故に日本が奈落の底に転がり落ちることを阻止できなかったのであろう。
言うまでもない事であるが、陸軍士官学校、海軍兵学校に行った人は、それこそ村一番、町一番の秀才達であったわけで、そういう秀才が何故戦争を知らない軍人になってしまったのであろう。
帝國大学に行った秀才たちは、何故軍部の独断専横を阻止できなかったのであろう。
私が推察するに、昭和初期の軍人の独断専横は、当時の日本の国民の大部分から支持されていたからだと思う。
軍縮には国民の大部分が大反発をし、南京陥落では国民はちょうちん行列までして大いにうかれていたし、真珠湾攻撃の報に接した国民は、胸のつかえが落ちたように正に溜飲を下げた感を味わったわけで、これらの動きは完全に国民の声を代弁していたことになる。
ここで再び問題提起になるが、こういう状況下において、日本の知性とか理性のある人達は、どういう風に行動の規範を律すればいいのかということに行き着く。
昭和初期の世相を見てみると、結構知識人というのも大衆に迎合して、素直に大衆と同じ行動様式をとっている。
石橋湛山のように異論を述べても、それは大きな波にかき消されてしまって討論の場にさえも上がってこない。
斎藤隆夫のように正論を吐いたとしても、それを同じ仲間が押しつぶしてしまったわけで、これを今我々はどう考えたらいいのであろう。
美濃部達吉を抑え込んだ当時の知識人の存在をどのように考えたらいいのであろう。
今思うと、昭和初期の日本の軍人の暴走、独断専横は、当時の日本国民の願望を素直に実現していたということなのであろうか。
結果として日本は大東亜戦争に敗北したのだから、国民としては自分達が期待を掛けた政府に騙されたということになるが、これも考えてみれば、詐欺に騙されたようなもので、不確実な甘言に踊らされたようなもので、誰を恨むこともできないということになる。
だとすれば、ここで日本の知識人は、国民に対して騙されないように警告を発するのが彼等の使命ではなかろうか。
昭和初期の段階では、そういう動きを、例えば美濃部達吉、斎藤隆夫、石橋湛山という警鐘を鳴らした人たちを、当時の知識人たちは寄ってたかって抑え込んでしまったわけだ。
この本の主題である「海の昭和史」という本題に話を戻すと、今現在、平成21年9月11日の時点において、民主党が社民党と国民新党と連立を組むかどうかの時であるが、民主党が社民党と組むということは、はなはだ問題が大きいと思う。
というのは、社民党はインド洋上で行われているのアフガン復興のために給油措置を止めるように言っているが、これは日本の国際貢献の一環であって、アメリカに対するポチの振る舞いではない。
これをアメリカに対するポチ的な行動とみるのは、大いなる刷り込み、あるいは思い込みであって、世界の動き、または日本の置かれている立場がわかっていないということの証である。
日本人ならば誰が見ても、我々の国が中東の石油に依存して存在することは自明であるにもかかわらず、それを全く考慮することなしに、「海上自衛隊は戦争を想定した団体だから駄目だ」という発想は、非常識極まりない思考である。
日本の旧海軍が戦国時代の武将のイクサをしているのと同じ精神構造である。
時代錯誤を通りすぎて、無知に等しい発想であるが、こういう政党が政権の一翼を担うということは、戦前に軍人が政府を牛耳ったのと同じ構図である。
軍人と平和主義者が入れ替わっただけで、政権の中で平和主義者が自分達の論理で嘴をさしはさむということは、再び国際的な日本パッシングを引き起こす元である。
昭和初期の日本は、軍人が既成事実を作り上げると、政府と国民はそれを事後承認してきたが、既成事実を築き上げるということは一種の思い上がりの行動なわけで、これこそが独断専横の極みであった。
理念が優れているから、見切り発車しても政府や国民はあとからついてくる、という思考は思い上がりそのものであるが、当時者はその不合理に全く気がつかない。
戦後の平和主義者というのも、戦前の軍人と同じで、戦争というものの本質を全く知らないまま、観念論のみを大声で叫んでいるが、この観念論の跋扈こそが日本民族が12歳の子供の域を脱し切れない最大の問題点である。
観念論から脱しきれないということは、合理的な考えが出来ない、合理主義に徹しきれないということでもあり、目の前の現実から遠い将来の予測が束めれないということである。
だから目の前の現実に対して、その場その時々の対処療法でしのいできているので、常に場当たり的で恒久的な思考に至らないのである。
このことは、深く考えると極めて由々しき問題だと思う。
特に、第2次世界大戦後の地球の技術革新というのは目覚ましいものがあって、地球規模で産業構造の変換が起きたが、これに立ち向かった我々の同胞は、実に場当たり的な対処の仕方であったと思う。
日本は高度経済成長を経ることで、極めて豊かになったが、それは同時に人件費の高騰をももたらしたわけで、こうなると日本の産業界は人件費の安いアジアに製造業の拠点を移した。
この時、日本の官も民も、自分達の長期ビジョンを何も持ち合わせておらず、まさしく場当たり的に工場をアジアに作って、そこの安い人件費を使うことに専心した。
問題はこの部分にあるわけで、当座は確かに安い人件費で利益を上げれたかもしれないが、10年後20年後にそれがどうなるかということに考えが及ばず、結果的に日本の産業が空洞化してしまって、今では日本人の働く場がなくなってしまったではないか。
10年前20年前に、日本が工場を作って技術移転して、現地の人々の生活も向上したが、彼等が日本に対して恩義を感じているかとなると、今では完全に競争相手として敵対する関係なっているわけで、我々としては完全に「庇を貸して母屋を取られた」ようなものではないか。
アジアの元の低開発国が、今では核兵器まで自前で作っているが、それを作る工作機械は日本製のものが使われているわけで、我々は敵に塩を送ったような形ではないか。
それでいて我々は何時までも非核3原則を順守しており、これは国際的な見地に立てば、自分で自分の手足を縛っているようなもので、まさしく「日本の常識は世界の非常識で、世界の非常識が日本の常識」になっている確たる証拠である。
我々の通ってきた道をよくよく観察してみると、我々は大きな構造改革のような岐路に立たされたとき、物事を深く考えずに「人の振り見て我が振り直す」という生き方を選択する民族のようだ。
大勢の人が支持する方向に無批判にすり寄っているではないか。
昔から「寄らば大樹の陰」ということも言われているわけで、大勢の人の言うことならばまず間違いは無かろう、という思考回路なのであろう。
あの戦争に嵌り込んでいく過程を見ても、戦後の産業の構造の変革の有様を見ても、バブルの誕生からその崩壊の様を見ても、我々は右往左往と、先行きの全くわからない道に、ほんのわずかな光明らしきものを見つけると、怒涛の如く詰め寄るわけで、これは完全に烏合の衆の暴動のようなポピリズムの再現であって、ここには人間としての理性も知性も全く存在していない。
ただた目先の利益に群がる野生の生き物の姿でしかない。
何度も言うようだが、ここで我々の同胞の中の高等教育を受けた人たち、知識人や、大学教授や、新聞をはじめとするメデイアの論説委員というような人達が、こういう一般大衆の烏合の衆としての自堕落な行動に対して適切なアドバイスや忠告をする機能をどうして欠落してしまったのかということである。
こういう場面で有効に機能しない知識人や文化人ならば、この世に存在する意味がないではないか。
昭和初期の戦争を知らない軍人や、戦後では平和の本質を知らない平和主義者や、大衆をリード出来ない知識人の存在などなど、彼等は決してバカではなく、高度な教育を受けてはいるであろうが、それは一向に社会に還元されておらず、ただただ本人の糊口をしのぐだけに終わってしまっている。