ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「世界の地下鉄」

2009-09-10 08:53:27 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「世界の地下鉄」という本を読んだ。
今回は「読んだ」というよりも「眺めた」と表現すべきであろう。
というのも、この本は一種の図鑑であって、活字を読むという部分は極めて少なかったからである。
極めてマニア向けの本で、そういう「お宅」向きのものであったからである。
ただ言えることは、世界中で地下鉄というのは随分普及しているようで、最近見たテレビで言っていたが、上海万博を控えている中国ではものすごい勢いて地下鉄工事が進んでいるらしい。
その意味で、東京の地下鉄も昨今では実に目覚ましい発展をなして、私鉄との相互乗り入れを果たして、実に完備されていると思う。
しかし、外国の例と比べると我々は複合的な思考に至っていないという面はどうしても払しょくし切れていない。
というのは、外国、アメリカのワシントン、旧ソ連のモスクワ、中国の北京の地下鉄は、核戦争を想定して作られているということを聞いたことがある。
要するに、核攻撃をされたときのシェルターを兼ねて作られているという風に聞いた記憶がある。
我々世代の言葉で言えば、防空豪であるが、地下に構築物を作るということになれば、こういう発想になるのが普通の思考ではないかと思う。
山間地にトンネルを掘るという場合は、当然のこと、急峻な山道を回避しショートカットを図るという単純な目的でもいた仕方ないが、大都会の地下に大きな空間を築くともなれば、その空間に複合的な目的を抱き合わせるという発想が起きても不思議ではない。
地下に構築物を作るということは、ただでさえ並みの工事ではないわけで、どうせ金と労力と資金をつぎ込むのならば、単一の目的のみならず様々な機能を合わせ持たせた方が有利だという思考は自然発生的に生まれて当然だと思う。
その自然の人間の感情に依拠するならば、どうせ地下鉄を作るのなら、複合的な目的を考えようとなって当然だと思う。
よって、諸外国では核シェルターに至ったものと思うが、我々の発想はどこまで行っても地下鉄は地下鉄、他にいかなる目的も合わせ持つことは罷りならぬということになっている。
なにも東京の地下鉄をすべて核シェルターにせよという極端なことを言うつもりはないが、物事の発想の原点には、ことほど左様に思考の相違があるということを言いたいだけである。
地球上で唯一の被爆国でありながら、我々は核というものを実に観念的に捉えていて、核攻撃などあり得ないという発想に浸りきっているが、これこそが最大の平和ボケと言われるものであろう。
21世紀の今日、土木技術も格段に進歩して、トンネルを掘る技術も随分進化したに違いなく、地中に穴を掘るということも、そう難しいことではなくなったに違いない。
よって東京の地下も、縦横無尽にトンネルが掘られて、周辺から電車が入り込んで、都会の下を通り抜けることが可能になったようだ。
ところが地表の下の利用というのは地下鉄のみではなく、すべての社会的なインフラの整備は地下に向かおうとしている。
当然といえば当然のことで、50年も前ならば空中に張り巡らされていた電線も電話線も今では地下埋設の方向に向かいつつあり、上水、下水というのも昔から地下になっていた。
問題は、これらの社会的なインフラが、それぞれ別個に地下埋設工事を行っている点にあるわけで、例えば地下鉄を新たに作るというときに、そのトンネルを地下鉄だけではなく、総合的に利用するアイデアを出し、それを実践する気のない我々の側の思考である。
地下鉄、電力、通信、下水、上水、そういうものが個々に別々に工事をし、管理し、保守点検をするのではなく、一つのトンネルに総合的に機能を集約することが出来ないのか、と問うているのである。
当然、こういう問題提起をすれば、日本の縦割り行政の弊害に行き着くわけであるが、その部分が解消しない限り、こういう総合的なインフラ整備というのは何時まで経ってもあり得ない。