ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「官庁大改造」

2009-09-29 07:34:56 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「官庁大改造」という本を読んだ。
著者は大原一三。
自由民主党の行政改革の旗振り役を演じた人で、話が非常にわかりやすい。
前に読んだ塩田潮の本は、滅多矢鱈と官職・氏名の羅列であったが、そんなことは普通の人には関係のない話だと思う。
官僚、官庁を語るときは、その職の内容を重視すべきであって、人がどこの大学を出てどこに入省したかという話は実に瑣末なことだと思う。
問題は、どの官庁がどういう仕事をするかということが最大の関心事なわけで、その中で働く人にしてみれば、必然的に自分の属する組織が大きくなることを望んでいる。
アメーバーの自己増殖のようなもので、外へ外へと拡大することを無意識のうちに望んでいるわけで、問題は、この無意識の部分が最大の難点なわけである。
昨今、話題になっている事に、JR福知山線の脱線事故に関連して、調査委員会の資料が、JR西日本に漏洩していたということが判明したが、ここで問題にすべきことは、調査委員会のメンバーも、JR西日本のメンバーも、右も左も解らない無学文盲の不逞の輩などではないということである。
浮浪者や、ニートや、ホームレスのような人間ではなく、きちんとした大学を出て、JRになる前の国鉄の中で、それなりに職務を全うとしたであろう人たちなのである。
つまり、押しも押されもせぬ立派な社会人であるべき人たちなのである。
調査委員会の内容を事前に察知して、その内容を修正する機会を狙う事がどこまで法に抵触するかは私にはわからないが、法に触れるか触れないかの問題ではなく、委員会の結論を一刻も早く察知したい、という願望をどうして抑えきれなかったかということである。
この件に関しては、官僚とか官庁の話ではないが、JRの幹部ともなれば実質、官僚に極めて近い存在だ。
日本の官僚が縦割り行政の中で、それぞれがタコつぼに潜むタコのようになってしまうのには、それを受容、受認する何かがあるものと推察する。
明治維新を成した日本は、江戸時代の封建主義を捨てたとはいえ、日本全体は極めて貧しかったと思う。
江戸時代に商人は貨幣経済に乗って多少は豊だったに違いなかろうが、国民の大部分を占める農家は、商人のように日銭を持っていなかったので、それこそ水飲み百姓の言葉そのままだったと思う。
そういう状況下で、幕府が潰れ、藩がなくなり、日本全体が一つの国家になってみると、国家には何をするにも人材が足らなかった。
昔の藩の武士階級から多少の人材は確保できたが、絶対数は明らかに不足していた。
その不足分を早急に補てんしなければならなかったので、国家としては新しく採用した官吏を極めて優遇した。
優秀な人材を集めて早急に国家の基幹要員に仕立て上げるには、高い俸給によって、つまり高級というあまい餌を振りまいて、人材を寄せ集めなければならなかった。
その下心は、当然のこと、優遇すれば優秀な人材が確保出来ると思ったからに違いないが、問題は何を以って優秀かと定義することであった。
有象無象の大衆、玉石混交の人の中から優秀なものを選抜するとなれば、一応の目安としてはぺーパーチェックしか方法がないわけで、官吏の優遇さに惹かれて、有象無象の大衆が門前に列をなしたであろうことは容易に想像できる。
人の品位を測るときに、誘蛾灯に集まる虫のように、有利な待遇に集まる人士というものが、倫理的に優れた人間といえるであろうか。
戦後の復興の中で、高度経済成長華やかりし頃、大学の工学部を出たような人まで金融機関の高額なサラリーに惹かれて、金融関係の企業に集まったのも、誘蛾灯に集まる虫のようなものであった。
明治維新から平成の世に至るまでに、官僚の道にも大きな波小さな波が繰り返しかぶさってきて、その度毎に民間が良かったり、官僚が日の目を見たりと、様々な変遷があったことは歴史が証明している。
日本が戦争に負けるまでは軍人も官僚であったわけで、同じ官僚の中でも軍人だけが特別に威張っていた。
人が人に対して威張るということ自体、すでに人としての価値が無いに等しいわけであって、人としての中身が空虚なものだから、他人に対してから威張りするわけで、その部分に誘蛾灯に集まる虫程度の人間でしかないということの表れである。
私の推測では、官僚を目指す若い人、国家公務員上級職をめざすような人でも、最初の選択動機はおそらく国家国民のため、という崇高な目的意識を持っていたものと思う。
しかし、大学出たての若い人が、何処の省庁に入省しようとも、最初は自分一人では何もできないわけで、先輩の後を追いまわす程度のことしかできないと思う。
そういう期間が10年20年と経ってみると、完全にミイラ取りがミイラになってしまっているわけで、ここが官僚や官庁の最大の問題だと考える。
戦前・戦中の軍人の戦争の仕方、帝国軍人の戦争に対する認識を見ても、彼等、戦争のプロとしての戦争屋に真の近代戦争、真の現代戦争、国家総力戦の真意・本質が全く解っておらず、理解されていなかったし、理解しようとも思っていなかったではないか。
これは官僚が官僚の為に仕事をつくり、その作ったものを官僚の為にこなすことによって、さも大きな仕事をしたような気になっているだけにことで、彼等の目から見て日本国民というものの存在が抜け落ちていたということである。
戦前・戦中の軍人が戦後は一人もいないようになったが、そのあいた部分を国家公務員というものが埋め合わせている。
しかし、彼等も、戦前の軍人が戦争を知らなったと同様に、戦後の国家公務員というのも、自ら何をなすべきかということを知らないまま録を食んでいるのである。
この本の著者は、自民党の行政改革案を推し進める立場なので、外務省の在り体を非常に厳しく糾弾しているが、まさしく外務省などというのは自分のすべきことが解っていない。
戦前の軍人が近代戦の本質を知らずに戦争をしていたのと同様、国益の何たるかを知らない外務省が、主権と主権が熾烈に接し合う外交の場で、日本国の利益を司っている。
ただただ今までのことを引き続き、無批判のまま、惰性で繰り返すしか能がないわけであって、自分が今外務省の人間として何をなすべきかということが解っていない。
それは戦前・戦中・戦後を通じて一環としてそうであるが、その現状を内部から改めようという機運は一向に出てこない。
このことこそが官僚の最大の問題点の筈である。
如何なる省庁・官庁といえども、時の経過とともにその使命も、役割も、存立の意義も変化するわけであって、その変化に対応する変革は、内部から出て当然ではなかろうか。
そして、こういう官僚はいつの時代においても狭き関門をクリア―して、知的にはある程度以上に優れた人士が集まっている組織なわけで、だったら時代の変化に対応する変革は、自らの内側から出ても何ら不思議ではない。
むしろ、それでこそ正常な常識人の集合ということになる。
前迩した福知山線事故の事故調査委員会の漏えい事件でも、そこに関連している人たちは、組織の下っ端の人々ではないわけで、組織のトップにいる人が、こういうモラルに欠けた行為をするということに関し、彼等の倫理観、あるいは彼等の備えている学識経験というものをどういうふうに考えたらいいのであろう。
どんな組織でも、トップとボトムでは収入にも大きな差があるわけで、当然、上に行くほど収入も多くなるのだから、組織内の人々は、皆が皆、上昇思考になる。
大きな収入が魅力だから上昇思考になるということは、もともとの心根が浅ましいということではなかろうか。
人が富に群がるのは人間としての本質的なことであって、それは卑下すべきことではないという考え方は、整合性があるかにみえるが、それを打ち消す思考が、人が他の動物とは違う存在ということではなかろうか。
人が自然のままの自然の存在であるとするならば、誘蛾灯に集まる虫のようなものであったとしても、何ら不思議ではない筈である。
人の自然の行為を人為的にあるいは自己の欲望に打ち勝とうとする思考こそ、人が人たらしめる価値観を身に付けるべく教育ということを学ぶのではなかろうか。
人が教育を受けるということは、人が本来持っている自然の欲望を如何にコントロールするかを学ぶのであって、金を得るための手段ではなかったはずである。
将来の高収入を期待して学歴に群がり、その学歴を武器として上昇思考で組織の階段を駆け上がるというのであれば、その向学心は極めて卑しくて、下賤で、の思考でしかない。
明治維新の初期の頃の日本ならば、確かに人材不足であったろうけれども、21世紀の今日において、組織のトップともなれば社会的地位も立派に確立した人であるべきで、そういう人がモラルを欠いちゃ話にならない。
ところが、こういう立場の人はモラルというものを端から感じていないのではないかと思う。
官僚の天下りの件でも、天下りするほどの立場の官僚ならば、天下りが世の常識にかなった行為かどうかは自ずからわかっているに違いない。
しかし、判っていたとしても、自らが楽して金を得たいという人間としての根源的な欲望にかられて、その欲望を断ち切れずに、恥も外聞もかなぐり捨てて天下るということは、実にミミッチク、浅はかで、下賤で、卑しい行為であるが、本人はそういう認識を欠いているに違いない。
組織のトップともなると、下に大勢の部下が出来るわけで、その部下の一人一人も皆が皆、ヒラメのような上昇思考で上ばかり見ているに違いない。
組織全体が皆上昇思考で、自分の収入の上がることばかりを夢見ているとすれば、上に対して言うべきことを言わなくなることは当然の成り行きだ。
こうなると組織のトップは完全に「裸の王様」になってしまうわけで、人としての倫理観も、美意識も、知性も理性も失って、ただただ自分の収入の多寡だけに一喜一憂する下賤な人間になる。
モラルを欠いた人間ということであれば、卑しい心とか、下賤とか、という認識そのものが最初から存在していないのかもしれない。
こういう人間を心ある人が敬うであろうか。
良い人だ、立派な人だ、理解のある人だ、見識の高い人だと、いくら周囲の人から言われたとしても、そういう評価で本人が贅沢な生活が出来るわけではない。
贅沢な生活を欲するならば、いくら人から嫌みを言われ、世間から冷たい目で見られようとも、恥も外聞もかなぐり捨てて、ゴマ擦りに徹し切って、官僚というぬるま湯から出ないことであって、官僚でいれる間は休まず、働かず、遅刻せずで過ごさなければならない。
しかし、こんな生活態度は分別のある人間ならば出来ないし、こんな卑しい生活、あるいは生き様というものを正常な神経の者ならば望むわけがない。