立山黒部旅行2
お暑うございます。全国的に連日うだるような暑さが続いています。このブログを書いていて、当時の夏の暑さが今と比べてどのようなものだったのかちょっと調べてみました。ネット検索で「過去の気温」と打ち込めば気象庁の各観測地点の開設からのデータを見る事が出来ます。この旅行の1966年(昭和41年)8月の京都の気温を見ると、結構暑い8月だったようです。特に6日から13日にかけて最高気温が連日35度以上の酷暑日が続き、37度台が3日、36度台が2日もありました。今の感覚で言えば40度近い日が続いたようなものでしょうか。もっとも最低気温は26.8度を頭に3日熱帯夜を記録しただけで、21度台とか23度台とかもありました。他にも最高気温が30度に届かない日や最低気温が19度台の日もありました。今年も含めて近年は最高気温も最低気温も連日同じような温度で高止まりしているように思います。当時は太平洋高気圧に覆われて暑いと言っても割と周期的な変化があったようです。北からの寒冷前線の尻尾の先がかすっただけでも寒気が入って夕立がして一気に涼しくなった日もありました。最近はそんなことが少なくなりましたね。京都市域の場合、その後エアコンの普及による廃熱や市電の外周より外側は田畑がまだ多く残っていたのがほとんど宅地化されたりとかありました。それを割り引いても近年の暑さは異常ですね。
旅行をした21日以降25~26度台の熱帯夜が3日程続いていました。それでもこの旅行中、それほど暑かったという記憶がありません。行きの「つるぎ」の車内では窓を全開にはしていなかったと思います。道中の彦根や富山は熱帯夜になっていませんでしたので、少しだけ窓を開けた状態で暑さがしのげたのかも知れません。
さて、急行「つるぎ」は東海道線をトロトロと走って米原に到着。20分ほどの停車時間にホームに降り立って売店や立ち食いそば屋に行く人などで車内が急に騒々しくなりました。確かそば屋はやってなかったと記憶しているのですが。この時間を利用して前の車両にいた次男の叔父がこちらの車両にやってきました。わたしの指定席を申し込むのが遅れたので1名分別の車両になってしまったのですが、私一人別の車両にやるのはかわいそうだと言って席を代わってくれたのでした。叔父の話では、4人掛けボックス席の他の3人は若い女性のグループだそうで、長男の叔父や他の参加者とにこにこして話してるのを見て子供ながらに内心ホッとした気持ちになったのを覚えています。
米原を出発しても相変わらず列車はトロトロと走っていましたが、私の方もようやくウトウトと居眠り出しました。ふと気が付くと、どこかの駅に停まっています。あたりは駅の照明以外は真っ暗で山の中のようです。照明に照らし出された駅名標を見ると「しんひきた」と書いてありました。かなり長い時間、10分位は停まっていたでしょうか。反対方向からこの列車と同じ塗装の列車がやって来て通過して行きました。おそらくこの先単線のため待ち合わせをしていたのでしょう。そう思っていました。つい最近まで。新疋田ー敦賀間のループ線を経由する上り線は1963年(昭和38年)10月に完成していたのです。従って新疋田で上り「つるぎ」を待つ必要なんかなかったのです。理由はわかりませんが、単線時代の「つるぎ」の前身の「第2加賀」のダイヤを複線化後も踏襲していたようです。漸くこの旅行の2~3か月後のダイヤ改正で新疋田での運転停車はなくなりました。ただ、今度は敦賀で上下の「つるぎ」が出会うようになりました。