10月 20日 (金)
母の退院が23日 月曜日に決まった。
朝食後、院長先生が「病院での治療はそろそろ終わります。でも、まだ歩くことが出来ないのが心配です。僕は、安全な形で退院してもらいたいから、リハビリ出来る所をお勧めしようと思います。お話を進めていいですか?」と、母に話して下さった。
院長先生は、両膝を床に付けて話された。
「先生、私は行きません。私、いつ死んでもいい覚悟は出来てます。」と、母。
「でも、ご家族は、そうは思っていませんよ。リハビリして体調を回復しましょう。」という院長先生の言葉に、「では、よろしくお願いします。」と、母。
胸を撫で下ろして帰宅したのだが・・・
昼食介助に行くと、
「私、一大決心をした。もう、この病院はやめる。私は虎ノ門病院で肩の手術をした後だって、ひとりで生活できもの!」と、おかんむり💢
朝令暮改ならぬ、朝令昼改だ。
まあまあまあ、ゆっくり考えようよと昼食を食べさせると完食した。この分なら、退院ももうすぐだよと、励まして帰って来た。
夕食介助に行くのは、とても気が重かった。
と、どうだろう。病院の食堂から母の明るい声が聞こえる。
午後に、リハビリをした時、リハビリの先生に「私、院長先生に嫌われちゃったのかしら?」と、相談したそうだ。リハビリの先生が間に入って下さり、もう一度院長先生と話す機会を得て納得したようだ。
夜、ベッドに入る前、施設へ行く事を少し不安がった。
「大丈夫。院長先生が進めて下さる所だから心配ないよ。」
「私がついてるから、大丈夫。」
髪を撫でて、頬をペチペチと軽くたたくと、母は笑顔になった。
でも、またいつ気が変わるか分からない。
10月 21日 (土)
「あと2日だね。お疲れさん。」
朝食の介助から帰ると、母の入院から25日目にして、口下手な夫が、初めて労いの言葉をかけてくれた。
うん、あ り が と 。
私は、ゆっくり 噛みしめるように答えた。
携帯を見ると従妹のrindaちゃんから、電話が入っていた。直ぐに電話をし、施設へ入れる罪悪感を伝えると、
「私も、そうだったじゃん。お母さんが、少しでも分かったり、出来たりする事があると、なかなか施設へ入れられなかったよ。でも、出来ない事の方が多いんだからプロに任せよう。」と励ましてくれた。
母は、私の事を自分の姉だと思ったり、私の父と自分の夫が同じ人だという事が理解出来なかったりする。
そして、今、自分のいる所が分からない。
リハビリ計画書には、長谷川式簡易検査は、「12点/30点満点」と、あった。
かと思えば、
「田中マー君(将大)が、活躍してるみたいじゃん。ほら、イチローと同じチームに入った田中マー君。」と、話したりする。
「選挙は、誰に入れるか聞かないけど、ちゃんと選挙に行きなよ。」と、言う。
こういう話を聞くと施設入所をためらってしまう。
昼食介助に行くと、母は、テーブルにふさっていた。後ろから肩を揉んで声をかけると、紙をくしゃくしゃにしたような顔を上げた。
午前中、折り紙おじさんが、折り紙を教えてくれたのだが、何人も集まってワイワイとやったのが騒がしかった、嫌だったと言う。
プライドの高い母は、上手く折り紙を折れない事も、歯痒かったのだろう。仕方ないよ。指先に力が入らないのだから。
以前の私なら、「せっかく教えてくれたんだから、そんな風に思っちゃダメだよ。」と言っただろう。
「そう、わずらわしかったんだね。」と、母の背中をさすると、子どものようにすがる目をした。
不安が取れたのか、機嫌よく昼食を食べ始めた。
そして、「こうやって食べさせてもらうと楽だよ。」と、嬉しそうな母。
すると、後ろの席のお婆さんが、「食べさせてもらうと楽だってさ。人間、何でも自分でやらなきゃダメだ。」と、鼻で笑った。
幸い耳の遠い母には聞こえなかったが、
「黙れ、ババア。自分で食べられたら介助に来ないヮ。」と、私は心でつぶやいた。
そして、ひとさじひとさじ食事を口に運ぶ度に、「ごめんね、お母さん。こうしてあげられるのも あと少しなんだよ。」と、心の中で詫びた。
夕食介助。8割ほど食べた。
9時20分頃 寝付いた。
母の寝顔に「おやすみ」と、今夜も、おとなしく寝てくれますようにと願って声をかけ帰宅した。
10月 22日 (日)
朝食介助。
母は、テーブルから離れ 車椅子でうろうろしていた。
私を見ると「トイレに連れてって。看護師さんに頼んでも、さっき行ったばかりだって言って、連れてってくれない。」と、おかんむり💢
母は、トイレの回数が頻繁だ。
そこへ看護師さんが来て、「朝から何度もトイレに行ってるんですけどね、出ないんです。」と。
日曜日の朝の看護師さんは、人数が少なくて忙しそう。
「すみません。お世話かけます。」と、母をトイレに、連れて行った。
朝食
バナナを少し残して、後は全部食べられた。
昨日 実家へ母の衣類を取りに行った時、母と電話連絡が取れなくなり心配してくれた親友から手紙が届いていた。
朝食後、部屋へ戻って何回も読んであげた。
「娘さんや息子さんたちに従い、よい年寄りになり生きて下さい。私も同じです。」という箇所を強調して読んだ。
「◯◯ちゃんも、脚が悪いんだねぇ。歳をとると、みんな脚が悪くなるんだねぇ。嬉しいよぉ。こうして心配してくれて。」と、嬉しそうな母。
◯◯さんにはお礼の電話をして、母の状態も知らせたと話すと安心したようだ。
昼食介助
8割ほど食べた。
介護用品の店から新しい靴が届き、今日は大安なので朝におろした。
左右同型の男物のような靴。
でも、母は、「履いてないみたいに軽い♪」と、喜んだ。
百均で買ったバラのチャームを縫い付けた🌹
入院して、もう三足目の靴だ。
夕食介助の後、いつものように、9時まで2人を起こしておく。
細野豪志 LOVE ❤️
仲良しになったKさんと、こうして車椅子を並べて9時まで起こしておくのも、今夜が最後だ。
Kさんは、昔住んでいた実家近くにあった老舗旅館のお婆ちゃま(94歳)だったので、入院してからすぐに気が合い、昔話に花を咲かせていた。2人とも昔の事は、正確に覚えている。
いつものように9時20分ころ寝付いた。
おやすみ、お母さん。
明日の午後 退院です。
そして、ロングステイに入所です。
母を施設に入れたら、また私はジムに通い、山へ行くんだろう。
ただただ、詫びるしかない。
ごめんね、お母さん。
🏥 おしまい🏥
でも、お母様はjunさんがすぐ付き添って、頬をペタペタまでして励ましてくれて、そんな娘がいて幸福じゃないでしょうか。
リハビリ施設は遠いのですか。
施設は、ウチから車で5分のところにあります。ケアマネさんが、なるべく近くの施設を探してくれました。もちろん、毎日、通います。
今、こちらは台風通過中。ものすごい風です。
母は、荒れずに施設へ移ってくれることを願うばかりです。
すごく分る気がします。
亡くなった今でも、こうしてあげれば良かった。。。とか
いつも思いますよ~。
父が亡くなって独り暮らしだった母。
家に連れて来て一緒にご飯を食べたり
旅行に一緒に行ったり
結構いろいろしたつもりでした。
でも・・・もっと・・・って思ってしまいます。
施設に入所した分、自分をリフレッシュする時間が取れると思います。
だからお母様のことを、また見てあげられるんだと思いますよ~
新しい施設がお母さまにとって、楽しく過ごせるところだと
良いですね。
後ろの席のお婆さん
イジワルなばばぁ~って私も思いました(笑)
きっと羨ましかったんでしょうね。
ちょっと可哀想になりました。
娘としては、どうしても客観的に見ることが出来ず、後ろめたい気持ちを拭えませんね。
母は、2008年にペースメーカーの手術、2013年に肩の脱臼固定手術をし、その度に、せん妄状態になりましたが、自宅へ戻ると徐々に回復しました。でも、今回は体力低下と共に認知症が著しく進みました。
〉その方が良いと思ってもなぜか後ろめたい感じがする気持ちすごく分る気がします〜
共感して下さり、ありがとうございます。娘だからでしょうか。兄は「仕方ない」のひとことです。
poohさんもお母さんと仲良しだったのですね。私と母も、母の友人から「美空ひばり母娘」と言われるような繋がりです。
いろいろしてきたつもりでも、大相撲を見せてあげたかった、また築地でお寿司を食べさせてあげたかったと、いろいろ思います。でも、肩の脱臼固定手術をしてから「あちこち連れてってもらったから、もう十分。」と外出を億劫がるようになりました。最近では、ランチに行く事だけを楽しみにしていた母ですが、外食も高齢の母には合わなくなりました。ウチに連れて来て孫娘たちと夕飯を一緒に食べても「家に泥棒が入ると困る。火事になると困る」と、早々に帰りたがりました。やはり自分の家が安住の地だったんだと改めて思うと、施設へ入れた事を申し訳なく思ってしまいます。
〉でも・・・もっと・・・って思って〜
おっしゃる通りですね。これからは、施設訪問しで寄り添う事しか出来ませんから。
昨夜から今朝は、とても複雑な心境です。疲れもどっと出てしまいました。
〉新しい施設がお母さまにとって、楽しく過ごせるところだと良いですね〜
ありがとうございます。スタッフの皆さんはプロですので、お任せするしかありませんね。
〉後ろの席のお婆さん〜きっと羨ましかったんでしょうね。ちょっと可哀想になりました〜
確かにそうですね。余裕のない私はpoohさんのように捉えられませんでした。恥ずかしいです。母の事も、自分の心に余裕がないと温かく見守れませんね。今日は、ゆっくり過ごしたいところですが、まだ母の所用が残っているのでそれを片付けて、午後にゆっくり母を訪問しようと思います。
励ましのお言葉、ありがとうございました😊