中山みき、出口なお、北村さよ。
名前になにか共通するものを感じる。
漢字二字、下の名前はひらがな2字。
ま、一昔前の日本女性はみんなひらがな2字でしたね。私の祖母も「ハル」と「たゑ」でしたし、、
いずれも女性。
いずれもそれなりの高齢になってから、農婦みたいな職業だったのに、突如として、「神がかった」。
そして一大宗教の教祖になった。
- 中山みき(天理教)
- 出口なお(大本教)
- 北村さよ(天照皇大神宮教)
神がかった年齢(西暦)を挙げると:
- 中山みき:40歳(1838年)
- 出口なお:56歳(1892年)
- 北村さよ:44歳(1944年)
これを更年期と結びつけるのは女性に失礼にあたるだろうか。その神聖を更年期のせいと貶めるつもりはありません。
中山みきが預言者となってからは、天理教信者は延べ1000万人くらいに上る。天理市という市までできた。
既成事実となったから尊重するってわけではありませんが、今さら、中山みきの神聖を完全に否定して「アイツらは思考停止、カルト」と鈴木エイト風に断じるのはよくないだろう。
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要は、こういう彼女たちの「神がかり」イベント、憑依イベント、神格化イベントを、そこから200年とか100年経った我々が無下に「否定」することも難しい。
否定するだけのロジックもなければ証拠もない。間接事実もない。
だから、後世の我々は「そういうこともあったのかもしれない」って穏健な態度を取るのがいいのでは。
これはキリスト教その他の宗教に対しても同じ。2000年ちょっと前の、イエスの様々な奇蹟とか磔刑後の復活とかに対しても。
論理的には、死者が復活するとか、ガリラヤ湖の上を歩くとか、あるわけがない。
でも、世界の何十億人の人が、そう信じてきた。
その既成事実からすると、「そういうこともあったのかもしれない」的な、「付かず離れず」の態度を取るのがいいのでは。
「過去の多くの人々が既成事実としてきた事実を尊重する」のが保守の持つべき態度。
だから、保守の態度にシンパシーを感じる方は、中山・出口・北村の「神」化に対しても、「無下に否定しない」のが、大人の態度では。
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ここまでがイントロ。
仮に、上記のとおり、イエスや中山・出口・北村の憑依体験、「神」体験、預言体験に、それなりの意味を与え、つまり、その事実と信仰を尊重するべきとする。
そうであれば、イエス・中山・出口・北村と同じように(それぞれ教理が異なるので全く同じではなさそう)、メシアと名乗る文鮮明の神格化、憑依体験、「神」体験、預言体験(ってのがあるのか知りませんが)にも、それなりの尊重を与えるのが、理性的で合理的な態度だ、という帰結になる。
なお、「論理的にはそういう帰結になる」って考えているだけで、私が「文鮮明を神格化せよ」と説いているわけではもちろんありません。
イエス・中山・出口・北村の神格化にある程度の市民権を与え、文のそれに市民権を与えないとすれば、その彼我の違いは何なのか。
そんな問題提起をしてみます。
ここ一週間モヤっと考えている脳内のシナプスを、言語化して、思考実験をしています。