新幹線予約したけど、予定早く終わったので、早めたい、ってときありますよね。
そんなとき、スマートEXだと、携帯のアプリ操作で一瞬でできるんですね!みどりの窓口とかに並ぶ必要なく。
スマートEXだと、私の場合、チケットを発券せずにApple Watchだけですぐ改札機通れるし、快適!
承元の法難、ってのがあって(1207年)、浄土宗/浄土真宗が、後鳥羽上皇に、迫害された。
法然は「藤井元彦」の俗名を与えられ、
親鸞は「藤井善信」(よしざね)の俗名を与えられ、
それぞれ高知・新潟に流罪となった。
法然は和歌山どまりで許された。新潟って、1200年当時は、流罪になるような僻地だったんですね。貿易で栄えるのはもっと後か。
しかし藤井元彦とか善信とか、800年前なのに、現代風な名前なんですね。
中山家は親鸞由来の浄土真宗なんですが、知らないことがたくさんあります、、
松下幸之助の「全部、自分が原因」って考えは、結構有名?
「雨が降っても自分のせい」で有名ですが。
論語的には:
君子はこれを己に求め、
小人はこれを人に求む。
小人の過つや、必ず文(かざ)る。
※ 文る、は、言い訳をする、の意。
他責しない人生を送りたし。
松下幸之助は経営の神様。
だから、昭和39年の、伝説の「熱海会談」で、販売店社長と歴史的な(美談的な)和解をした後、70歳の会長なのに、営業本部長代行に復帰してネジを巻いたことも、「美談」として語られちゃう。
そうか。
70歳の、大会社(当時は財閥扱い)の、創業者の会長が、営業本部長代行に復帰することが、美談なのか。
令和の今なら、どうだろう。
ガバナンス的に、ありえない。
老害だ、の非難のオンパレードだろう。
結果論として、松下電器/パナソニックが、今はいい/大きな会社だから、美談になっちゃうけど、、
「惚れて通えばアバタもエクボ」で、立派な人の、ちょっとやりすぎたことまでを、美談とするのは、、、
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」も行き過ぎですが、、、
人は公平にものを見ないと。
(以下の本のイントロで、この「70歳会長の営業本部長代行復帰」を美談としていたので、違和感を書きとどめておきます)
無名の、エリートを脱落して、落ちに堕ちて、そこから這い上がりつつある方の、東洋哲学。
20代とか30代の、「自分探し」に疲れた方にいいのかな。アラフィフの私にも、「龍樹ってそう解釈するんだ」とかの発見がありました。
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「東洋」哲学の本と謳っていますが、自分を無くす、自分を器にする、(武道的には、自分を天地の氣の通り道にする)というのは、洋の東西を問わず、真理なんじゃないかなと思っています。
キリスト教的には、The more submissive we are, the stronger we will be と私は捉えています。
また、ヨガ的には、自分を無くそうとするのではなく、「宇宙が自分に入ってくる」感覚ですかね。
親鸞の肉食(にくじき)妻帯は、仏教界の革命。
親鸞なかりせば、仏僧の性犯罪は、カトリック教会みたいに、広がっていたかもしれない。
こちら(親鸞の肉食妻帯が炎上マーケティングだったという面白い分析)
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先日、家庭連合の草創期を知る方から、その特徴的な「合同結婚式」も、カトリックの神父が妻帯しないことへのアンチテーゼだ、というような話を伺った。
ま、「アンチテーゼ」というのは私の表現で、ちょっと大げさですが、、、
実際、23年前、家庭連合の合同結婚式に、カトリックの神父が出席して結婚した!
2001年5月27日、米国のニューヨーク・ヒルトンホテルで、文鮮明が催した聖職者を中心とした60組の合同結婚式(国際合同祝福結婚式)が行われ、ザンビア出身のエマニュエル・ミリンゴ ローマ・カトリック元ルサカ大司教が参加。韓国人女性と結婚。
新聞記事にもなった(こちら)
結婚式の前日に出されたミリンゴ元大司教の声明文は こちら
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後日談として、、、
当時、バチカン(カトリック総本山)では、ミリンゴ元大司教の祝福結婚を認めず、ミリンゴ元大司教を監禁、、、
そこで韓国人の夫人が、バチカン宮殿の前で無期限断食をして、夫を解放した。
だいぶセンセーショナルな事件だったんですね。
禅では無我という。
密教では大我という。
~~~以下 こちら から引用~~~
密教では無我をいわない。無我のかわりに大我をいう。
密教では無我をいわない。無我のかわりに大我をいう。
無欲を説かず、無欲のかわりに大欲を説く。ここが、密教と禅と違っているところである。
~~~引用終わり~~~
要するに、無欲恬淡となるのではなく、大乗的に、志を大きくせよってことだろうか。
この本では、「大我」の境地を、Fake it till you make it みたいにイメージしていた。大ぼらを吹けよ、そのうちほんとうに現実になるから、みたいな。
大欲は無欲に似たり
っていう、稲盛和夫さんがよく使った言葉 (→徒然草にある言葉)も、「大我」と関係があるのかしらん。
「大我」(「だいが」って読むらしい)については知らなかったので、取り急ぎ。
親鸞が歎異抄に遺した:
主観的に、自分を嘘つきと認めるものは、正直者。
一方、自分を「正直者」だと言う人こそ、「嘘つき」。
善人なをもて往生をとぐ
いわんや悪人をや
の解釈は、人をしていろいろ考えさせてきた。この1000年。
いい解釈に出会った。
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「悪人」を嘘つきと解釈する。
主観的に、自分を嘘つきと認めるものは、正直者。
一方、自分を「正直者」だと言う人こそ、「嘘つき」。
だから、
「正直者(=嘘つき)」も往生できる。
いわんや「嘘つき(=正直者)をや」
って解釈できる。
いい発想の転換。
勉強になりました!
コロナのときに使われた「三密」、実は、密教にオリジナルがあった。
~~~以下引用~~~
弘法大師が説いたのが「三密」なのです。
「三密」には身密、口密、意密があります。
身密は手に印を結ぶこと、
口密は真言を唱えること、
意密は心に大日如来を思い浮かべることです。
この三つを整えることで大日如来と一体になり、生きたまま仏になる即身成仏することができるのです。
~~~引用終わり~~~
コロナの三密とつながりがあるわけではなく、単に同じ言葉というだけですが。
親鸞は、襟巻きをしていた。防寒のために。
今残る親鸞の肖像画は、襟巻き画像。
これを見てか、一休宗純は、親鸞の200回忌法要で、以下の川柳を詠った。
襟巻の あたたかそうな 黒坊主
こやつが法は 天下一なり
「法」は「のり」と読むらしい。
一休が、親鸞を、「こやつ」呼ばわり、、
面白い歴史があるんですね。