今日は、能見台跡地の最終章として、一方・美山の碑について投稿いたします。
新版「かねぞわの歴史事典」によれば、一方は不詳・・・で、次に、江耆桜美山の句碑でありますが、能見堂(現在能見台森)の石段脇に文化9年(1812)に建てられたのが、最初で、高さ1.5m弱の石碑で。その句は、「百八の鐘の別連(わかれ)や本登ゝ(ほとと)幾(き)す 美山」と刻まれている。
能見堂に碑を建てたのは、江戸時代後期の俳人で江戸吉原に住んでいた二世美山.句は父の一世美山が金沢を愛で詠んだもので、二世が反古になるのを惜しみ碑に刻んだ。この碑は、野島の永島牡丹園に移されていたが、平成16年(2004)能見堂跡地に戻された。と記述されていた。
また、横浜の句碑(古往今来)著者中島邦秋によれば、一方の句碑は、国道16号線横須賀街道の「宮の前」信号を斜め南西方向に入った辺りの鹿島邸宅に一方の句碑あった。鹿島邸の左右背後は樹木に囲まれた斜面で、その西斜面に、一方の碑があったが、これは、能見堂が焼失廃墟当時に移設したものであるが、建立不明と記述されている。
また、江耆桜美山にあっては、明治2年(1869)の能見堂の焼失にともない、野島町の水島家(亀巣句碑)の邸内に移り、再び平成16年(2004)に現在の能見堂跡地に戻ってきた。二世江耆桜美山の俳句で、初代である父の好んだ地に、父を偲んで文化9年(1812)建立したものである。二世江耆桜美山は江戸に住み、雪中菴対門(せっちゅうあん)の人と結んでいる。
何時の時代にも親を思う孝行子弟がいるのですね。
(二世江耆桜美山が建てた句碑)
(一方の句碑)
(現在句碑が建てられている能見堂跡地)
(それぞれの碑の説明)
(能見堂について)
(能見堂跡地への入口)
(能見堂への路)
(能見堂跡への路)
(能見堂跡への路)
(明治時代の能見堂附近)
(明治時代の能見堂附近)
(明治時代の能見堂附近)
(現在の能見堂跡付近)
(現在の能見堂跡付近)
(能見堂跡地附近からの背景)
新版「かねぞわの歴史事典」によれば、一方は不詳・・・で、次に、江耆桜美山の句碑でありますが、能見堂(現在能見台森)の石段脇に文化9年(1812)に建てられたのが、最初で、高さ1.5m弱の石碑で。その句は、「百八の鐘の別連(わかれ)や本登ゝ(ほとと)幾(き)す 美山」と刻まれている。
能見堂に碑を建てたのは、江戸時代後期の俳人で江戸吉原に住んでいた二世美山.句は父の一世美山が金沢を愛で詠んだもので、二世が反古になるのを惜しみ碑に刻んだ。この碑は、野島の永島牡丹園に移されていたが、平成16年(2004)能見堂跡地に戻された。と記述されていた。
また、横浜の句碑(古往今来)著者中島邦秋によれば、一方の句碑は、国道16号線横須賀街道の「宮の前」信号を斜め南西方向に入った辺りの鹿島邸宅に一方の句碑あった。鹿島邸の左右背後は樹木に囲まれた斜面で、その西斜面に、一方の碑があったが、これは、能見堂が焼失廃墟当時に移設したものであるが、建立不明と記述されている。
また、江耆桜美山にあっては、明治2年(1869)の能見堂の焼失にともない、野島町の水島家(亀巣句碑)の邸内に移り、再び平成16年(2004)に現在の能見堂跡地に戻ってきた。二世江耆桜美山の俳句で、初代である父の好んだ地に、父を偲んで文化9年(1812)建立したものである。二世江耆桜美山は江戸に住み、雪中菴対門(せっちゅうあん)の人と結んでいる。
何時の時代にも親を思う孝行子弟がいるのですね。
(二世江耆桜美山が建てた句碑)
(一方の句碑)
(現在句碑が建てられている能見堂跡地)
(それぞれの碑の説明)
(能見堂について)
(能見堂跡地への入口)
(能見堂への路)
(能見堂跡への路)
(能見堂跡への路)
(明治時代の能見堂附近)
(明治時代の能見堂附近)
(明治時代の能見堂附近)
(現在の能見堂跡付近)
(現在の能見堂跡付近)
(能見堂跡地附近からの背景)
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