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長楽寺跡についてNO64(西7)

2019-04-05 19:48:35 | 日記

「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 嘉禄元年(1225年)3月、二位の禅尼政子は、頼朝の追善供養として、笹目が谷の辺に八町四方の地を定め、七堂伽藍を整えて建て、寺名を長楽寺と名づけた。
 しかし、元弘三年(1333年)5月、北条氏が新田義貞に攻められて亡びたときに、兵火にかかって焼失してしまったという。此の地はすなわちこの寺のあったところで、今も小字で長楽寺といっている。
 {参考}
 長楽寺
 嘉禄元年(1225年)に、政子が頼朝の菩提を弔うために建てた寺というが、吾妻鏡には、その記録はない。「新編相模国風土記」には、祇園山長楽寺安養院の伝をのせて、笹目が谷のあたりにあったことを伝えている。
 「金沢文庫古文書」の中にも、長楽寺の名があるという。
 吾妻鏡では、文応元年(1260年)4月29日の記録に、「丑の刻、鎌倉中大焼亡、長楽寺より亀谷の人屋に至る」とあるだけである。
 碑は、北条氏が新田義貞に攻められて、全滅したときに、兵火で焼失したと伝えているが、鎌倉の廃寺として、わからないことの多い寺の一つである。今は、長楽寺とか、長楽寺が谷の名が残っているのみである。
 大町に、政子が開基した安養院という寺があるが、ここの寺伝によると、この碑のところに、政子が律寺を建て、願行上人を開山としたとある。碑が嘉禄元年3月建立と述べたのは、この案養院の寺伝に従ったのであろう。
 長楽寺が焼けたあと、今の安養院が、律宗から浄土宗に宗旨を変えたとはいえ、長楽寺の後身として建てられたものであると言われている。などと云う記述がありましたので、投稿いたします。

(長楽寺跡の碑)

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