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小野光景について

2017-01-28 13:00:58 | 日記
 横浜の各種事業を創設した人物であります。「明治の横浜の人」「著者 川口正英」「発行 二宮孝之」によれば次のようなことが記載されていたので投稿いたします。
 小野光景は、弘化2年(1845年)3月15日信州(長野県)上伊邦小野村に父兵右衛門光賢の長男として生まれた。幼名は彦太郎といい、嘉永5年(1852年)8歳のとき同村小沢団次郎に就いて。読書と習字を学んだ。安政5年(1858年)14歳のとき、親戚小林家の養子となり、高遠藩の教官北原益太郎・柳本東吾に漢字を学んだ。父兵右衛門は幕府に命ぜられて、横浜に赴いて明主役となった。文久2年(1862年)光景は17歳のとき養家の家例によって、同町呉服商池上勘蔵゜に仕へて、商法を実習した。彼は23歳慶応2年(1866年)横浜の父母の下に帰った。明治4年(1871年)8月戸長の置かれることによって、父は名手を止め、光景をそのあとを継ぎ第一区の戸長となった。次第に昇進して、明治11年(1878年)には、第一大区会議長に当選した。明治10年(1877年)横浜貿易商組合の総理に選ばれた。同年歩合金取立所の復活によって総裁として取立掛と協議して、4月以降歩合金から支出は区費の補助金とした。残額の処分はなおいろいろと問題があったようだ。
 小野光景は明治13年(1880年)には南仲通2丁目に商法夜学舎を起こし、翌明治14年(1881年)には自ら主唱者となって、檄文を草して、あまねく商家に頒布して、横浜商法学校創設のことを勧誘して有志の賛同を求めたというようなこともあったが、結局明治14年(1881年)12月創立発起人28名のうち、下記7名を発起人の嘱託による創立委員として、小野光景・戸塚千太郎・馬越恭平・浅田又七・木村利右衛門・茂木惣兵衛・来栖壮兵衛の七人である。以上の創立委員は明治15年(1882年)2月7日神奈川県庁に横浜商法学校創立の伺書を提出した。
 かくして明治15年(1882年)横浜商法学校は設立され、福沢諭吉推薦の美沢進を校長として、明治15年(1882年)3月20日に本町1丁目5番地の町会棲上に於いて、授業が開始された。このとき職員は5名で、生徒は4名だった。なお3月25日には夜間部を開始し、生徒は14名を得た。校舎は北仲通り6丁目68番地に11月27日に新築落成した。
 彼はまた明治13年(1880年)原善三郎・茂木惣兵衛等とともに発起人となって、横浜商法会議所を設立した。彼はその二代目会頭となった。明治16年(1883年)10月のことである。更に、明治38年(1905年)5月4日当時の商業会議所の6代会頭になった。(今日の商工会議所の前身)
 さらに、明治12年(1879年)11月には早矢仕有的・中村道太などとともに、23名で、横浜正銀行の創立発起人となって活躍し、明治13年(1880年)2月その創立に当たっては取締役兼支配人となり、明治15年(1882年)には副頭取に、次いで頭取に昇進した。たまたま明治16年(1883年)大蔵郷松方正義と意見が合わず、ためにその地位を退いた。明治22年(1889年)4月にはかねて平沼専三・原善三郎・茂木惣兵衛など34名の発起人によって、横浜ドックの設立に努力し、その許可があった。
 また、同年彼は、原善三郎・平沼専三・小山大右衛門・近藤良勲とともに市参事会員に選ばれた。彼はまた、横浜貿易新聞社(今の神奈川新聞の前身)・横浜火災保険会社及び横浜鉄道会社を小野光景外39名で発起し、政府の免許を得た。また同志と共に貿易倉庫を建てた。また、蚕糸業発展に努めること大きく、20有余年蚕糸組合長に就任していた。
 彼は、明治43年(1940年)貴族院多額納税議員に選出されてから2回に及んでその席を占めた。なお遡って県会には明治17年(1884年)に、横浜市会には明治22年(1889年)にそれぞれ立候補して当選している。
 かくの如く彼は横浜市において各種の事業を創設して、各方面に偉大なる功績を残して大正8年(1919年)9月18日没した。享年75歳であった。正五位に叙せられた。

(偉人達の業績標)

(小野光景の業績標)

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