横浜港の築港事業に取り組んだ人物であります。みなとびとの記によれば次のような記述がありましたので投稿いたします。
天保10年(1839年)インドに生まれのイギリス人で明治12年(1879年)初来日。その後帰国来日を繰返し明治16年(1883年)に内務省技師として横浜水道報告書を作成し、明治18年(1885年)横浜水道監督工師などを歴任して、明治20年(1886年)内務省の外国人技師による横浜築港計画の中で採用されたのは、横浜水道の設計にも当ったパーマーの案でした。下関戦争で幕府が支払った賠償金がアメリカ政府から返還されさることになり、国際的利益を図るという理由で、築港工事の主財源にあてられました。
工事は明治22年(1889年)に始まり、鉄桟橋架設明治27年(1894年)竣工と、北・東二つの防波堤築造明治29年(1896年)完成し、船舶が安心して入港し、係船できる近代的港湾設備が初めてできました。第一期工事の竣工は当初の4カ年計画が、防波堤のコンクリート塊に亀裂が生じたことや、日清戦争などで遅れ明治29年(1896年)となりました。工費として支出された約200万円のうち、110万円が防波堤工事に、40万円が鉄桟橋工事に支出されました。
また、パーマーは、明治22年(1889年)に横浜で最初の本格的石造乾ドック建設の指針を示しています。それまでの横浜には、大型船舶の修理を行うドックはなく、清国との関係悪化から、船舶修理施設を国内で増強する必要も生じていました。しかしながら、経済不況が横浜ドックの営業開始を遅らせ、二つの石造ドックの開梁も日清戦争後にずれこみました。
本来、新造船の発注は景気に大きく左右されますが、船の修理に関しては景気には左右されず、大規模乾ドックは、貿易港に不可欠な港湾施設でした。
(横浜港の整備の変遷)
(偉人たちの業績標)
(パーマーの業績標)
天保10年(1839年)インドに生まれのイギリス人で明治12年(1879年)初来日。その後帰国来日を繰返し明治16年(1883年)に内務省技師として横浜水道報告書を作成し、明治18年(1885年)横浜水道監督工師などを歴任して、明治20年(1886年)内務省の外国人技師による横浜築港計画の中で採用されたのは、横浜水道の設計にも当ったパーマーの案でした。下関戦争で幕府が支払った賠償金がアメリカ政府から返還されさることになり、国際的利益を図るという理由で、築港工事の主財源にあてられました。
工事は明治22年(1889年)に始まり、鉄桟橋架設明治27年(1894年)竣工と、北・東二つの防波堤築造明治29年(1896年)完成し、船舶が安心して入港し、係船できる近代的港湾設備が初めてできました。第一期工事の竣工は当初の4カ年計画が、防波堤のコンクリート塊に亀裂が生じたことや、日清戦争などで遅れ明治29年(1896年)となりました。工費として支出された約200万円のうち、110万円が防波堤工事に、40万円が鉄桟橋工事に支出されました。
また、パーマーは、明治22年(1889年)に横浜で最初の本格的石造乾ドック建設の指針を示しています。それまでの横浜には、大型船舶の修理を行うドックはなく、清国との関係悪化から、船舶修理施設を国内で増強する必要も生じていました。しかしながら、経済不況が横浜ドックの営業開始を遅らせ、二つの石造ドックの開梁も日清戦争後にずれこみました。
本来、新造船の発注は景気に大きく左右されますが、船の修理に関しては景気には左右されず、大規模乾ドックは、貿易港に不可欠な港湾施設でした。
(横浜港の整備の変遷)
(偉人たちの業績標)
(パーマーの業績標)
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