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妻木頼黄について

2017-01-21 08:24:39 | 日記
編集 博物館明治村 発行名古屋鉄道株式会社によれば、次のような記述がありましたので、投稿いたします。  氏は、安政6年(1859年)1月21日江戸赤坂に生まれる。父頼功は旗本(千石)頼黄3歳の時に長崎で死去。13歳頃から英語を学び、明治9年渡米、ニューヨークで副総領事富田鉄之助(後の日本銀行総裁)をはじめ、相馬永も(後の横浜正銀行頭取)目賀田種太郎(後の大蔵省主税局長)らを知り、親交は終生続いた。彼らに説得されて一旦帰国し、明治11年(1878年)に工部大学校造家学科に入学、同15年(1882年)に中退して再渡米、ニューヨーク州イサカのコーネル大学建築学科に留学、明治17年(1884年)卒業、建築学士となる。後、ニューヨーク市で実習を終え、ヨーロッパ経由で翌年帰国した。  帰国後東京府技師となるが、明治19年(1886年)内閣に臨時建築局が新設され、同局技師も兼務、議院建築をはじめ新国家の中央官衛建築計画に従事。同年、その建築準備のため渡辺譲、河合浩蔵、17名の職人と渡独、翌明治20年(1887年)から同21年(1888年)までの冬学期、ベルリンのシャルロッテンブルグ工業大学で建築を学び、同年秋に帰国。この年、大審院、控訴院、裁判所の工事監督を担当。明治23年(1890年)内務技師となる。  明治22年(1889年)には東京府庁舎を設計し、中央官衛だけでなく監獄建築、築港計画、仮議院の建築など官僚建築家として活躍。明治27年(1894年)の広島仮議院を半月で完成させた実務能力が話題となった。さらに都市計画も手がけ、建築条例を起草した。  明治29年(1896年)に臨時葉煙草取扱所建築部が設置され、明治31年(1898年)葉煙草専売法実施に向けて全国183箇所に葉煙草専売施設を建設することになり、その陣頭指揮に立つ。明治37年(1904年)には臨時煙草製造準備局が設置され建築部長となる。同年の製造煙草専売法、翌年の塩専売法に向けて、全国に煙草製造工場を70余箇所、塩務局塩専売所100余箇所建設。この間、明治34年(1901年)に約半年の欧米出張にでかけている。大蔵省専売関係施設だけでなく、内務技師や臨時税関工事部課長も兼ね、それらの諸施設も手がける。さらに、麦酒工場、日本勧業銀行、横浜正銀行等の民間建築も数多く設計した。  明治38年(1905年)に臨時煙草製造準備局が廃止され、大蔵省営繕課が臨時建築部となってこれに代わり、部長となる。議院建築も含めて国家の主要な施設の営繕は、内務省から大蔵省に移っていた。この頃から議院建築問題について再び具体的な動きが始まり、妻木は議院建築の実現に全力を傾ける。武田五一、矢橋賢吉らを議院建築視察に海外派遣させ、議院の建築資材となる日本の木材、石材の全国調査もほぼ完成し、着々と準備を進めた。  大正2年(1913年)の退官まで、官僚営繕のトップに立って多くのプロジェクトを指揮した他、自邸、相馬邸、日本橋、日本赤十字社本社等さまざまな作品を手がけ、さらに、古社寺保存会委員として大仏殿修理工事顧問も務めた。 (妻木頼黄の業績標)

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