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古澤太穂の句碑について

2015-04-25 08:50:15 | 日記
 今日は、根岸森林公園の古澤太穂の句碑について投稿いたします。横浜の文学碑によれば、この碑に刻まれているのは、1983年の作で、少年どち若葉染みに来くつわ展、根岸競馬記念館では、古今内外のくつわ(馬の口に含ませてそれに手綱を付けて馬を誘導する金具)が展示されていた。日曜の午前、若葉の風に胸をふくらませた少年たちが、つぎつぎと部屋を回って、声を弾ませていた様子を詠った。
 「少年どち 若葉 染みに来 くつわ展」 太穂
 一方、古澤太穂著書には、大正2年(1913)富山県上新川郡大久保町(現在の大沢野町)父喜三、母もとの長男(太保)として生まれ、12歳で父(49歳)を亡くし、翌年一家離郷、その後、母を中心に6人の兄弟で、東京・横浜を転々、新聞配達、住み込み店員、給仕、土木、職工、業界新聞記者、喫茶店経営など仕事と住居を変えること枚挙にいとまがない。その間、働きながら昼間・夜間幾つかの学校に籍おいていたが、法政大学商業学校、東京外国語学学校専修科ロシヤ語科を卒業した。
 しかし、過密な仕事と勉学が重なり、過労、栄養失調などがもとで肺結核療養生活6年の歳月を無にしたが、一つだけ兵役を免れた。また、昭和15年には、療養所に「馬醉木」「石楠」の会員に勧められて「馬醉木」に入会。その年の10月「寒雷」創刊とともに会員になり「加藤楸邨」に師事されるようになった。
 昭和17年29歳にして、横浜近辺の「馬醉木」系俳誌投稿者と勉強誌「藤」発刊。この年生涯の職業とした小工場を弟と創立するが、昭和20年横浜大空襲により、工場は罹災したが、磯子区森町に仮工場を再建した。
 戦後の23年には、神奈川県職場俳句協議会を組織、機関誌「俳句サークル」を発刊するなど活発に活動、昭和25年には、37歳にして句集「30代」を協議会より出すが、レットパージーのなかで「句集サークル」11号で休刊となった。
 その後、終戦後の混乱期が続き、太穂は、率先して、弱者の側に立ち石川県内灘試射反対闘争や神奈川県松川事件対策協議会を飛鳥田一雄らと発足させ全員無罪を勝ち取り、国家賠償裁判まで15年間副会長しての役職を果すかたわら、「昭和文学全集」角川書店第41巻「昭和短歌・俳句集」に作品登載、この頃より、赤旗本紙日曜版俳句選者として20数年担当していた。
 太穂は、一貫して弱者側に立って、白鳥事件の村上国治留置所に尋ね、その帰路には、横川事件の山畑繁雄を宮城刑務所にたずね激励するなど、その情景等が句集に登場したりするのであった。
 昭和40年代には、若き頃のロシヤ語を学んだこともあり、日ソ協会神奈川県連理事長や副会長を歴任するなど日ソ協会との文化交流により、訪ソ代表団長としてウクライナ方面を視察している。
 一方、横浜文芸懇話会会長となり、威光年間、のち相談役や横浜市教育委員会委嘱の「横浜の俳人たち戦前編」を編纂する。
 このように、幅広く活躍したことから、師事であった加藤楸邨氏が、太穂の作品に対する評価は、清潔さ、人間としてのあり方など初期の作品を見るならば、その豊かな抒情味に驚くであろうし、実に激しく変貌した。とあった。

(根岸森林公園入口)

(公園見取り図)

(太穂の句碑)

(園内)

(園内)

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