ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

なぜ見つめている

2018-08-21 08:13:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「好き」8月14日
 『赤ちゃん「注目される人」好き』という見出しの記事が掲載されました。京都大などの研究チームが実験結果を発表したという記事です。記事によると、『生後10カ月の赤ちゃんが人間同士の視線の動きを観察し、「他者から見られる人」を好む傾向がある』ことが明らかになったということです。それが先ほどの見出しになったのでしょう。
 しかし、私は臍曲がりなのか、納得できません。実験は、『視線を送られた女性、そらされた女性を一緒に画面に示し、赤ちゃんがどちらを長く眺めていたかを計測』するというもので、前者の方を見ている時間が長かったということだけなのです。長い時間見ていたということがどうして「好意」を表していると言えるのでしょうか。
 生き物には、危険を察知し身を守るという本能があります。ですから、赤ちゃんは注目された女性を自分にとって危険なものだと認識し、警戒感から注意深く見ていたという解釈だって可能だと考えるのです。他の者もその女性を危険だと感じたから長い時間見ていたのだと本能が告げ、自分も警戒していたということです。
 もちろん、実際には、記事には書かれていない条件や情報があり、「好意」という解釈には合理性があるのでしょう。ただ、私はこの記事から、解釈というものの危険性を指摘しておきたいと思うのです。教員は、子供の言動を観察し、いくつかの観察結果を重ね合わせて、子供の感情や情動を理解しようとします。そのとき、いくら注意深く子供の言動観察を重ねていても、その解釈を間違えてしまえば、正しい理解には結びつきません。
 授業中に子供が鉛筆を持ったまま、何も書こうとせず窓の外を眺めている、この行動に気がつかないのは未熟な教員です。話になりません。でも、気がついたとして、それが授業内容以外のことに気を取られて集中できていないと解釈するか、何か頭の中に考えが浮かんできているが一つにまとまらず思索にふけっている状態とみるのか、ちょうど窓ガラスに珍しい蝶が止まっていたのを発見するか、によって教員の取るべき対応、指導助言の在り方は違ってきます。
 熟練の教員になればなるほど、すぐに判断を下そうとせず、少し時間をかけて観察したり、責めたり問い詰めたりはしないニュアンスで一件無関係の声掛けをして反応を見たりするものなのです。安易に「~に違いない」と決めつけてせっかちに関わろうとする、それは教員にとってあまり望ましいことではありません。

 

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私の常識は×

2018-08-20 07:51:14 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「公平に」8月14日
 『首相「行政、公平に」』という見出しの記事が掲載されました。自民党総裁選について、安倍首相が、『行政を公平につかさどる。これは首相として当たり前の責務だ』と語ったという記事です。『森友・加計学園問題などを念頭に「正直・公平な政治」を訴える』石破氏を意識しての発言だと解説されていました。
 よくも白々しく言えるものだと、その厚顔無恥さには感心しますが、ここでは別のことについて述べたいと思います。
 首相の本心や認識がどうであれ、行政や政治において公平は必要不可欠な要素です。誰に対しても公平であると信じることができてこそ、様々な行政措置によって被る、不利益や不快感も耐えることができるのですし、そうした感覚こそが社会を支えているのですから。もし、担当者の気分で恣意的に税金額を決まられていたとしたら、きちんと納税しようとする人はいなくなってしまいます。担当者との人間関係で窓口での申請事務で後回しにされたり無視されたりするとしたら、役所の窓口は怒号が飛び交い、つかみ合いのケンカが頻発するでしょう。金持ちや有力者の関係者であるか否かで許可や認可が左右されるとしたら、正規の手続きよりも賄賂やコネが幅を利かすようにんるでしょう。そんな状況下では、人々の規範意識は崩壊し、行政の社会調整機能は働かず、私たちの社会は無法地帯に陥ってしまうのです。
 ですから、行政における公平性は絶対の基準です。一方、同じように納税者が納めた税金で営まれる公的な事業である学校教育では、形式的な公平は百害あって一利なしです。例えば、授業中に、全ての子供に同じ時間声を掛けかかわりをもつ、というような形式的な公平さは、子供の学力形成に於いて、何ら有効性をもちません。自分なりの問題意識の沿って学習を進め、問題解決が自分の仮説通りに進んでいる子供に対しては、黙って見守ることこそが最良の対応であり、迷路に陥り何をすればよいのかさえ見失っている子供には、いくつもの質問を投げかけ、子供自身が方向性を見いだすことができるようにすることが必要になるということです。
 また、問題のある行動を繰り返す子供には、相談室でじっくり話を聞き、さらに家庭訪問をして保護者と問題の共有を図ったり、家庭環境を理解したりする必要があるのに対し、多くの「普通」の子供に対しては、やはり視野の片隅に入れて見守ることがベストであるというケースは少なくありません。教員の勤務時間の中で、特定の子供への関与が1割を占め、他の29人の子供への関与は全部合わせても6割程度とすれば、「特定の子供」は、他の子供の10倍も教員の時間を使っていることになります。でもそれを公平さを欠くと非難し、形式的に同じ時間を費やせ、というのは意味のないことです。
 こんなことは常識だと考えていたのですが、最近では、この形式的公平さを真剣に求める保護者が現れてきています。我が子は公平に扱われる権利がある、と言って。困ったものだと思うのですが、もしかして私の方が間違っているのでしょうか。

 

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中国史と韓国史

2018-08-19 08:17:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「これだ!」8月13日
 特集ワイド欄は、国際日本文化研究センター教授倉本一宏氏へのインタビューでした。そのタイトルは『歴史学び戦争回避を』です。このタイトルを見た瞬間、思わず「これだ!」と手を打っていました。私がこのブログで、情緒的な反戦平和教育を批判し、戦争に至る道を歴史に学び、戦争発生のメカニズムを知って戦争を防ぐ能力の育成を目指す、科学的な反戦教育に転換するべきだと主張してきました。しかし、私の表現力不足、知的洞察力不足により、上手く書き表すことができずにもどかしい思いを重ねていたのです。
 さすがに歴史の専門家で、戦争についての著作もある倉本氏の語りは、簡潔で分かりやすく、しかも的を射た達意の表現でした。一部を引用させていただきます。『この73年間、日本人は平和を望み、日常を送ってきました。でも万一、有事になれば、あっという間に世論は沸騰し、報復すべきだ、先制攻撃だと極端な議論が起きかねません』『普段から戦争についてちゃんと冷静に考えておくべきです』『よく考えずに(戦争に)反対する人は、よく考えずに賛成するかもしれません』。
 最初の発言は、先日も私がこのブログで書いた「(情緒的)平和教育は、何かのきっかけで、意図とは別に復讐や軍備増強に結びついていく可能性がある」という指摘とぴったりと重なります。2番目の「冷静に考えて~」も、「よく考えずに~」も。感情ではなく、知的な思索を通して戦争というものを理解する大切さを訴えています。
 また、倉本氏は、近現代史だけでなく古代史にまで視野を広げ、『明治維新以前の日本(略)戦争は下手でした。戦争を論理的に分析することもありませんでした』と語っていらっしゃいます。これも我田引水のようですが、私が先日のブログで述べた、「過去の戦争の歴史を冷静に分析し、科学的に戦争を考察して、戦争防止の方策を現実的に考えるという平和教育」の必要性を裏付けているものと考えます。
 倉本氏のお言葉で、自分の年来の主張が間違ってはいなかったという思いを強くした私ですが、それとは別に新たに気付かされた点もありました。『戦争を喜ぶ人間はかなりいるんです。もうかるとか、出世できるとか』『自国の歴史をきちんと学び、相手国の歴史を知る』です。私は今まで、「戦争を望む人間はいないが、大衆心理の恐ろしさで、国民全体が一種のヒステリー状態になり、戦争への道を後押ししてしまう」というイメージで、戦争を捉え、その阻止を考える平和教育を考えてきました。しかし、倉本氏は、歴史上の戦争を見つめてきた結果として、戦争を喜ぶ人がいるという冷厳な現実を見つめ直すことの必要性を説いていらっしゃるのです。
 さらに、相手国に歴史を知るという視点も、我が国の反戦・平和教育には欠けていたものでした。例えば、北朝鮮、中国の歴史について「知っている」人がどれだけいるでしょうか。日韓中北の4カ国が、かつてどういう関係であって、国民感情、相手国への複雑な意識はどのようなものか、説明できる人は1/100の割合ではないでしょうか。20年前、総合的な学習の時間が創設され、その中に「国際理解」という内容が例示されたときが、この課題に取り組むチャンスでした。しかし、国際社会で戦うことができる人材育成という短期的な視野で英語教育にすり替わってしまったことが悔やまれます。
 情緒的な反戦・平和教育からの脱却と同時に、近隣国の歴史を、世界史や日本史とは別に学ぶ場を創設することを真剣に考える必要があります。

 

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「同じ」を見せる

2018-08-18 07:57:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「男でなければ」8月11日
 専門編集委員青野由利氏が、『女医にかかりなさい』という表題でコラムを書かれていました。医学部入試点数操作に関する内容です。その中で青野氏は、『いまだに「医者は男」という思い込みが世間にあるとしても、まさか公平なはずの入試で「4浪男子」と「全ての女子」が同じように減点されていたとは。さらに驚くのは、この話に「現状を考えれば理解できる」という声があることだ』と書かれています。
 入試における点数操作は許されることではありません。しかしここではそのことについてではなく、「現場が男性を求める」という指摘について考えてみたいと思います。実は、学校もそういう現場なのです。ご存知のように、小学校では女性教員が多いのに対し、中高では女性教員は少数派になります。なぜなのでしょうか。
 医学部入試では、成績だけに基づいて合否を決めると、合格者は女性ばかりになってしまうと言われていました。女性の方が成績がよいたしいのです。それは教員採用試験でも同じです。女性の方が成績が、少なくともペーパーテストや小論文の成績は、女性の方がよいのです。
 私は、教員は教えることの専門家であるという立場で、数学のペーパーテストの成績がよい者がよい数学の授業ができるとは考えていませんが、世間的には、数学の成績がよい→良い数学教員になる、という図式の方が受け入れられやすいでしょう。そして、中学受験のない小学校よりも、高校受験、大学受験を控えている中高の方が、学力形成が重視されているはずでもあります。そうであれば、中高教員には、採用試験の成績の良い女性がより多く採用されてもよいはずなのに、そうはなっていません。
 まあ、希望者自体が少ないのですから仕方がない面もありますが、希望者が少ないこと自体も不思議な現象です。公立校の教員は、給与や待遇面では魅力ある職なはずですから。2人の子供を産休と育休を上手く使えば、4年間休み続けて育て、職場復帰することも可能なのですから、多くの女性にとって夢のような職場なのではないでしょうか。
 それでもやはり、中高では女性教員は少ないのです。私の教え子の中にも英語教員の免許を取得しながら、しかもとても優秀な人でありながら、教職を選ばなかった女性がいます。ですから、採用者側にも、希望する若者の側にも、女性を忌避する何らかの理由があるはずなのです。
 理由はいくつかあるでしょうが、その一つが「生活指導」であり、もう一つが「部活指導」だと思います。中高では生活指導=問題行動への対応という側面があり、「不良」を力で押さえつけることのできる腕力が期待されているのです。私が教委に勤務していた自治体では、中学校の生活指導主任は全員が男性、それも30代の教員で、3/4が体育の教員でした。力による抑止力路線は明白でした。
 また、運動系部活も、男性顧問が大半を占めていました。女性の顧問は体育の教員だけで、ほとんどの運動部活は、男性顧問でした。もちろん、自身にその運動の経験があるのであれば、男女を問うことは意味がありませんが、男性、それも若い教員は、競技経験がなくても、運動部活の顧問を「押し付け」られるのが常態化していました。つまり、男性の需要が大きいのです。
 私は、中高も今よりもなお女性教員比率を上げていくべきだと考えています。そのためには、「生活指導」や「部活指導」の在り方を変えていく必要があります。また、女性教員が増えることによって、「生活指導」や「部活指導」が変わっていくことになるでしょう。卵が先か、鶏が先かという議論のようですが、両面から変革の動きを作っていくことが大切です。
 学校で、男女が同じように働く姿を生徒に見せることは、生徒の人権意識を高めるためにも重要で効果的なことなのですから。

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アメフト、ボクシングにつながる

2018-08-17 07:51:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「普通のこと」8月10日
 谷川貴史記者が、『中学の部活動』という表題でコラムを書かれていました。その中で谷川氏はご自身の次女が部活を楽しむ様子を描く一方で、『猛暑が続く夏休みも練習日が多く、1日5時間にも及ぶ』実態に疑問を感じ、『人間関係を育み、競技に親しむだけなら週3日で十分』という名古屋大内田良准教授の言葉を引用なさっています。
 私はこのブログで再三部活動について触れてきましたが、そこで繰り返し述べてきたことと同じ意見です。『教育という美名のもとで過剰な活動はないか』という指摘にも同感です。ただ、谷川氏が見過ごしている(?)点があるのです。
 谷川氏は、次女の部活について次のように書かれています。『上級生になってボールを打つ時間が増えたのは親としてもうれしい。逆に1年生の時は部活時間の多くを球拾いに費やし、立ちっぱなしで腕より足を痛めた』と。テニス部に入った生徒は、テニスがしたくて入部を決めたはずです。もちろん、いきなり試合はできないでしょうが、素振りをして正しいフォームを身につけたり、敏捷性や持久力を高めるためにトレーニングをしたり、サーブやボレーなど個々の技術を磨いたりといった練習をすることをイメージして、入部してくるのではないでしょうか。内田氏が言う「競技に親しむ」というのはそうした行為を指すのであり、ひたすら上級生が打ったボールを拾って走り回ることではないなずです。
 球拾いについては、上級者のプレーを見て学ぶとか、体力を鍛えるとか、同学年の連帯感を育てるとかいった意味づけがなされることもありますが、詭弁に過ぎません。私自身、中高と卓球部に所属し、球拾いをした経験もさせた経験もありますが、ようするに慣習に過ぎません。恥ずかしい話ですが、本音を言えば、上級生としての特権意識のようなものもありましたし、わざと体育館の隅にボールを飛ばして下級生を走り回らせるようなことをして「遊んだ」こともありました。下級生が絶対に文句を言わないことを見越して。
 谷川氏の次女が通う中学校も、そのテニス部も、おそらくごく普通の学校であり、部活なのでしょう。そうした普通の環境の中で、先輩後輩の上下関係が固定化され、先輩には逆らえない文化を学び、顧問の教員に対して「おかしい」と言ってはいけないという価値観を叩き込まれる部活文化の行き着く先が、監督の理不尽な指示の盲従せざるを得なかった日大アメフト部の問題であり、監督の暴言に反論することができず精神を病んでしまうチアリーディング部での事件であり、スポーツ精神に反する愚行に注意することもできずにボスに絶対服従の日本アマチュアボクシング連盟の醜態なのではないでしょうか。
 谷川氏は、娘さんがやりがいを感じ生き生きとすごす姿を喜んでいらっしゃいますが、「多くの時間を球拾い」という在り方に疑問を感じ、問題提起してほしかったと思ってしまいます。球拾いに耐えられず、部活を辞めていく生徒、彼らは「根性なし」とされ、自分は一つのことをやり遂げることができなかった「ダメ人間」という劣等感を抱え、テニスという競技に親しむこともできず、むしろテニス嫌い、運動嫌いになってしまうかもしれないとすれば、そんな部活に意味はあるのか、という問題提起を。球拾いに耐え抜いた者は、上級生となって、上下関係を絶対のものとする感覚を身につけ、上には弱くしたには強いという歪んだ価値観をもってしまう可能性が高いという問題提起を、です。
 全国紙の記者なのですから。

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私も間違う

2018-08-16 07:48:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「良い教員は保守的」8月9日
 『本来の保守とは』という見出しの特集記事が掲載されました。東京工業大教授中島岳志氏が、安倍首相について語ったものです。その中で中島氏は、『本来の保守は、懐疑的な人間観をもっています。それは他者だけでなく、自分も間違えているかもしれないという人間観です。だから自分とは異なる意見を聞き、合意形成を試み、着地点を見いだしていくことが重要なのです』と語られています。
 全く同感します。だから安倍首相は本当の保守ではない、と話は展開していくのですが、ここではそこに深入りはしません。ただ、この「本来の保守」という概念は、教員にとっても非常に重要なものだということを強調しておきたいと思います。
 自分は完全な人間だと考えるようになると、完全な人間である自分が考える理想は正しく、他の不完全な人間が言っていることは間違いであり、無視するか否定するかしてもよいということになります。教員が、こうした考えに立つとき、絶対者である教員が描いた子供像、学級像というものがあるべき姿として固定されます。そして、それに沿おうとしない子供やその言動は全て「悪いこと」という烙印が押されてしまいます。
 その後にくるものは、はみ出した子供への非難と攻撃、排除でしかありません。こうした教員が、いわゆる普通の指導力しかない場合には、子供も反撃をします。その行き着く先が、学級崩壊です。
 一方、教員が不幸にして「強力な指導力」をもっている場合、子供は全面的に屈服するしかありません。一部の子供は教員の手先となり、教員の支配に協力することで、学級内に自分の居場所を築き上げます。教員に反感を持ち続ける子供の中で、精神的にタフな者は、教員の圧政を堪え忍び、面従腹背で学校生活を乗り越えようとしますが、そこまでのタフさのない子供は、問題行動という形で学校外に生きる場を見いだしていくか、不登校という形で閉じこもるか、最悪の場合は自殺という形で苦しみから逃れようとしていくのです。
 しかし教員が「本来のの保守」であれば、意に添わない子供の言動に直面したとき、自分が間違っているのかもしれないという疑念が生じますから、相手(子供)の話に耳を傾けてみようということになります。そうなれば、教員と子供との間で対話か成立し、その結果、教員が指導を微修正したり、より丁寧な説明や説得が行われたり、目標は変えないままやり方だけを変えるといった対応が取られたりするようになります。そうした学級では、子供たち一人一人が、自分も学級の一員としてこの学級を作っているという自覚が生まれ、できるだけみんなで妥協して一致点を見いだしていこうとする動きが強まります。学級経営の名人といわれる教員は、皆このタイプです。
  つまり、こうあるべき、こうでなければいけない、という決めつけるタイプは、良い教員には向かないということです。教員は、「本来の保守」派でなければならないのです。もちろん、この場合の「保守」は、政治信条や国旗・国歌問題ということとは無関係です。国旗・国歌問題では私と正反対の意見をもっている教員でも、「本来の保守」で学級経営の名人はいましたから。
 残念ながら私は、教員として「本来の保守」派ではなく、安倍首相のような偽物の保守でした。指導力がなかったため、子供を自殺に追い込む事態は避けることができましたが。猛反省です。

 

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あなたがつくるイメージ

2018-08-15 08:04:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「一括り」8月8日
 放送作家たむらようこ氏が、『「テレビ」とひとくくりにしないで』という表題でコラムを書かれていました。その中でたむら氏は、『テレビマンといったらみんな同じイメージなのでしょうか。でも、本当はテレビ局の中にもいろんな人のいろんな考えがあります(略)失礼な取材をやらかした番組があれば、襟を正す番組もある(略)テレビ局、あれは何かの象徴ではなく一人一人の考えの集まりなのだ』と書かれています。
 テレビ局を学校に、テレビマンを教員に入れ替えれば、同じようなことが言えそうです。多くの人は、教員について、あるイメージをもっていることでしょう。世間知らず、融通の利かない石頭などというイメージの場合もあるでしょうし、子供好き、聖職者、理想家、自己犠牲的というようなイメージもあるかもしれません。もしかしたら、裏表があり羽目を外すときにはとことん乱れるというのもあるかもしれません(実際に言われたことがあります)。学校についても同様でしょう。
 でも、たむら氏のテレビ論と同じように、学校も多様ですし、教員も十人十色、千差万別です。ですから一方的な決めつけに接すると反発したくなります。私が新卒の頃、教員の多くは名刺を持っていませんでした。社会人なのに名刺を持たないなんてあり得ないと言われたことがあります。その通りです。その通りなのですが、そのことだけをもって教員の常識は社会の非常識などと言われると、カチンときたものです。どの業界にも、その業界だけの常識があるはずだと反発し、言い合いになったこともありました。
 それでは、たむら氏が言うように、「学校」や「教員」としてみるのではなく、一人一人を見てほしいという主張が正しいのかと言われれば、そうではないと考えます。私自身に、医師は、警察官は、銀行マンは、テレビマンはというようなイメージがあり、それは仕方がないことだと思っているからです。何人、何十人という警察官と接することはありませんし、テレビマンの知り合いもいません。
 だからこそ、教員は、自分の一挙手一投足が、教員というもののイメージ、学校というもののイメージを作るということを自覚する必要があると主張してきたのです。ジャージで出勤、サンダルで校内を歩く、子供をお前と呼ぶ、酒場で子供の話をする、そんな行為も教員のイメージを悪化させるのです。それは法では裁かれないものの「小さな信用失墜行為」なのです。

 

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潔く身を引く?

2018-08-14 08:07:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「辞めること」8月8日
 『山根会長に進退一任』という見出しの記事が掲載されました。日本ボクシング連盟の山根終身会長に纏わる様々な問題が指摘され、その進退が注目を集めている件に関する記事です。記事によると、『日本ボクシング連盟は7日、大阪市内で緊急理事会を開き、山根明会長の進退を本人に一任することを決めた』ということです。
 山根氏は、本日辞任表明をすることになるようです。結果として、一連の不祥事の責任を取って職を辞するということで騒動を収束させることになるわけです。大変疑問の残る決着です。
 我が国では、ある組織に於いて不祥事が発生すると、その解明や再発防止策よりも、「誰が責任を取るか」に焦点が当てられ、次に責任の取り方として「辞めるか辞めないか」に興味関心が集まるという傾向が見られます。今回も、ここ数日、山根氏が会長職を去るのかどうかという点に報道が集中した感があります。
 財務次官のセクハラ問題も、理財局長の虚偽答弁も、辞任した途端、メディアの追及は下火になっていきました。私はこうした報道を目にする度に、強い違和感を感じてきました。先に挙げた例は、いずれも自ら辞職を申し出て認められたものです。処分としての免職ではありません。この違いを十分に理解しなければなりません。
 私は教委勤務時代に、不祥事を起こした教員の処分に関する職務を担当していました。体罰でもわいせつ行為でも、該当教員からの辞職の申し出を認めることはありませんでした。辞職を認めた後では、調査に協力させる強制力を失ってしまい、不祥事の真相を明らかにすることができなくなり、当然のことながら適切な再発防止策を立案することもできなくなってしまうからです。
 また、辞職した後に、不祥事の全容が明らかになって免職処分をしようとしても、既に支払った退職金等を取り返すことはできません。あくまでも自主的返納をもとめるだけであり、本人に拒否されれば、裁判によって返還を求めるしかなく、膨大な時間と労力を費やすことになり、しかも全額返還は認められない可能性が高いのです。
 そもそも自主退職を認めるということは、責任の所在を認めさせることなく、「自分は悪くないが、結果として組織に迷惑をかけた」という理由で辞職させるということで、「悪いこと」をした人の罪を曖昧にしてしまう処理法なのですから、悪人の逃げ得を許す行為なのです。
 今回の連盟のやり方は、山根氏に「自ら潔く身を引いた」気骨のある人物という名誉を与えることを交換条件に解任を見送るという取引に他ならず、連盟としての自浄努力を放棄したものです。
 教員の処分に於いても、辞職の申し出はあります。しかしそれは受理せず、あくまでも本人は反省し辞職する意思があるということを処分決定の際に勘案するという扱いであり、辞めると言っているんだからと無罪放免ということはありません。停職3カ月が1カ月になり、処分が決定した後自主的に退職していくというようなケースが一般的です。教員だけのルールではなく、それが当然だと思います。その程度の厳しさがなければ、外部の信頼を得ることはできません。

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恐怖は転化する

2018-08-13 08:27:13 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「恐怖」8月7日
 大学生が作る紙面『キャンパる』に、『私の恐怖体験』という記事がありました。大学生が、自分の恐怖体験を答えたものです。列挙してみると、『エアコンからゴキブリが落ちてきた』『1人…また1人…彼氏いない同盟から脱落者』『テスト。まさかの名前書き忘れ』『試験で裏面があったことに気付かず空白で出してしまった』等々のお気楽回答。極めつけは『恐怖というものに遭遇したことがありません』という早大の女子学生の回答。
 もちろん、読者が面白がりそうなウケ狙いや深刻さを避ける今風の若者気質もあるでしょうが、実際、こんなものなのでしょう。還暦を過ぎた私も、改めて記憶を探っても、「恐怖」という言葉に相応しい体験は浮かびません。一番怖かったのは、ハンガリーで数人の男に囲まれパスポートを取られそうになったことぐらいで、命の危険を感じたことはありません。幸せ者です。
 もしこのコーナーを、シリアやアフガニスタン、南スーダンなどで実施したとしたら、もっと深刻な本当に恐怖の体験が並ぶでしょう。そうした紛争国だけでなく、中国や北朝鮮などの独裁国家に暮らす若者に聞いても(本音を語れるとして)、想像を絶する悲惨な状況が語られることでしょう。
 我が国では、台風や自然などの災害やオウム真理教によるテロ、原発事故や日航機墜落事故など、多くの被害者を出した不幸な事件や事故はありましたが、多くの国民が戦後70年、「恐怖」とは無縁の生活を送ることができました。私を含め、「生命の危機」や「無実の拘束」など、物語の中の出来事でした。
 だからなのでしょうか、我が国における平和教育は、戦争時の悲惨な出来事に焦点を当て、「戦争をするとこんな悲惨な目に遭う」ということを強調し、戦争への忌避感を強めることに重点が置かれてきました。「恐怖」に免疫がない国民に疑似恐怖を与え、戦争はダメ→平和は尊いという方向に誘導する、という発想です。
 もし同じことを紛争頻発地で行えば、全く違う結果に至ってしまうと思われます。負けると悲惨→勝たなければならない→軍備増強、あるいは、弱かったから悲惨な目に→もっと強くならなければ、または、我々を悲惨な目に遭わせたのは○○→いつか強くなって○○に復讐してやる、という思考回路にはまっていくような気がします。実際、我が国が原爆を落とした米国に復讐しようとしないのはどうしてかと不思議に感じている外国人は存在しますし、戦争の悲惨さを味わわずに済むように軍備の充実に励む国の方が多いのですから。
 ということは、現在行われている国民が味わった恐怖に焦点を当てた平和教育は、何かのきっかけで、意図とは別に復讐や軍備増強に結びついていく可能性があるということです。そうならないためには、情緒的な反戦平和ではなく、過去の戦争の歴史を冷静に分析し、科学的に戦争を考察して、戦争防止の方策を現実的に考えるという平和教育が求められるのです。
 言論統制や思想統制、事実を報じない報道や歴史の歪曲、仮想敵による挙国一致に結びつく特定の集団へのヘイト、国家の危機を声高に主張することに拠る人権侵害、戦争に向かうこうした兆候を見逃さず、まだ小さな芽のうちに摘み取ることの重要さを理解させる科学的な平和教育を進めてほしいものです。

 

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新しい職業教育

2018-08-12 08:26:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「新職業」8月3日
 『eスポーツにかける』という見出しの特集記事が掲載されました。記事によると、eスポーツとは、『2024パリ五輪で追加種目での採用が取りざたされる』『第18回アジア大会では公開種目』である、『コンピューターゲームの対戦競技』だということです。つまり、野球やサッカーなどと同じ「スポーツ」なのです。
 そして、記事の中では、『プリゲーマー、西村直絋選手は12年から国内外のプロチームを渡り歩く』『高校3年生、18歳の相原翼選手(略)プロチームにもスカウトされ、将来はプロとしての活動も視野に入れる』など、職業としてeスポーツを選択する若者も現れていることが報じられていました。つまり、eスポーツ選手という新しい職業が生まれているのです。
 私はコンピューターが苦手です。スマホはもっていませんし、インスタグラムやツイッター、ラインなども名称だけを知っているIT脱落者です。ですからeスポーツという言葉は知っていましたが、実態は何も知りませんでした。この記事によって関心をもち、少しだけ調べてみると、数十億円規模の賞金の大会が開かれ、年収数億円という選手もいるとのことです。将来は、サッカーJリーグを上回る規模になるという予想もあるそうです。こうなられば、将来は我が子をeスポーツ選手にと願う保護者も現れてくることです。
 そういえば、かつてユーチューバーという「職業」が子供たちに人気であるという記事を読んだことを思い出しました。これも一部には年収数千万円という強者がいるそうです。ついていけないという感じです。
 しかしよく考えてみれば、プロ野球が始まったころは、野球をやって生活をするなんて、という見方があったはずですし、Jリーグが始まったときも、サッカー選手というのは大企業に所属して若い一時期だけ選手として、後は社員として生活していくという思い込みが抜けませんでした。スポーツに限らず、俳優でも歌手でもないテレビタレントなどという職業も、戦前には考えにくい職業だったはずです。
 今は立派な専門職とされている臨床心理士だって、50年前には「他人の話を聞いているだけで金をもらうの?」というレベルの認識だったと思われます。つまり、職業は時代の変遷と共に、新しいものが生まれていくのです。
 AIの発達普及でなくなる職業が話題になっています。しかし、10年後、20年後新たに生まれる職業については、余り話題になりません。20年前にeスポーツ選手やユーチューバーという職業など誰も思い付かなかったはずです。でも、今の小学生にとっては、10年後、20年後の社会は、自分が職業人として活躍する場です。それを見越した職業教育は可能なのでしょうか。プログラミング教育は、eスポーツにもユーチューバーにも直結しないと思われるのですが。
  

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