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日本近代文学の森へ (222) 志賀直哉『暗夜行路』 109 謙作の涙 「後篇第三  十一」 その2

2022-07-26 10:33:43 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (222) 志賀直哉『暗夜行路』 109 謙作の涙 「後篇第三  十一」 その2

2022.7.26


 

 さて、西御門の家に着いた謙作は、妙子から思いがけないプレゼントをもらう。


 間もなく二人が西御門の家についた時には妙子は座敷の真中に大きい風呂敷包みを解いている所だった。菓子折りのような物、缶詰、果物、その他シャツや襦袢の類まであった。その他にもう一つ新聞紙で包み、うえを紐で厳重に結わえた函ようのものがあって、妙子は想わせぶりな顔つきをしながら、それを別にし、
 「これは謙様の……」といった。「今お開けになっちゃあ、いけない事よ、京都へお帰りになってから見て頂戴」
 「どら、ちょっと見せろ」信行が傍から手を出していった。
 「いけない事よ」
 「俺にだけ見せろ」こういって取ろうとすると、妙子は怒ったように、
 「いやよ」といった。
 「お祝いか?」
 「お祝いはまた別に差上げるのよ」
 「お祝いの手つけか」
 「いい事よ、お兄様には関係のない事よ。黙っていらっしゃい」妙子は起ってそれを違い棚に載せた。
 「意地悪! そんなら口でいえ。何だ」信行は故(わざ)とこう乱暴にいった。
 「妙ちゃんのお手製の物よ」と傍から咲子が口を出した。
 「姉さん余計な事をいって……」妙子は姉をにらんだ。そして京都へ帰るまでは決して開けないという堅い約束を謙作にさせ、漸く満足した。
 「そんなに勿体をつけちゃって、かえっておかしいわ。それこそ、開けて口惜しき玉手箱になってよ」こういって咲子はクスクスと笑い出した。
 「まあ、ひどい!」妙子は眼を丸くして、昵(じ)っと姉の顔を見凝(みつ)めていた。涙が出かかっていた。
 「おい、もう直きひるだが、お前たちがやるんだよ」こんな事を信行がいっても怒った妙子は知らん顔をしていた。

 


 このころの、いいとこのお嬢様の会話というのは、こんな感じだったのだろうか。「いけない事よ。」といった、語尾に「ことよ」をつける女性言葉は、他の小説でもよく見かけるのだが、いったいこれは、いつごろから、どんなところで使われてきたのだろうか、と気になって調べてみたところ、「日本国語大辞典」に、こんな説明と用例があった。

 

終助詞のように使われる。
(イ)明治後期から昭和前期にかけての、若い女性の用語。ですわ。わよ。
*青春〔1905~06〕〈小栗風葉〉春・二「兄さんに嫌はれたって、誰も困りゃしない事よ」
*或る女〔1919〕〈有島武郎〉前・五「明日は屹度(きっと)入らしって下さいましね〈略〉お待ち申しますことよ」
*雪国〔1935~47〕〈川端康成〉「私ね、行男さんのお墓参りはしないことよ」
(ロ)(助詞「て」に付けて)勢いよく、また、やや投げやりな気持で言いすてるときの男性の用語。
*窮死〔1907〕〈国木田独歩〉「もう一本飲(や)れ、私が引受るから何でも元気を加(つけ)るにゃアこれに限(かぎる)って事(コト)よ!」

 

 そうか、明治後期から昭和前期だったのか。つまりは、戦後はあまり使われなくなったってことだろう。これだけの用例ではよく分からないが、必ずしも上流階級の女性の言葉とも限らないようだ。戦後生まれのぼくは、この言葉を生で聞いたことはない。

 それに比べると、(ロ)のほうは、自分では使わないにせよ、テレビなんかでは頻繁に耳にしてきたような気がする。特に時代劇だったのだろうか。

 同じ「ことよ」が、一方では若い女性のカワイイ系の言葉として使われる一方で、「て」がつくにせよ、男性のヤクザっぽい(というほどでもないか)言葉として使われたということは興味深い。

 ともあれ、この一連の、兄弟姉妹のやりとり、とくに、信行のぞんざいな口ぶりやからかいは、謙作からすれば、どこか羨ましいような気分にさせるものだっただろう。そういう謙作の複雑な心中を志賀はまったく書かないけれど、それがなんとなく伝わってくるような気がする。

 

 午後皆(みんな)で円覚寺へ行った。その帰途(かえり)建長寺の半僧坊の山へ登った。
 謙作は二人を東京まで送り、直ぐその晩の夜行で京都へ帰る事にした。
 帰り支度で妙子が便所へ入った時、信行は串戯(じょうだん)らしい、ちょっといたずらな様子をしながら、
 「何だ、見てやろうかな」といって違い棚の函を持ち出して来た。
 「まあまあ」謙作も串戯らしくそれを取上げてしまった。咲子は笑っていた。
 信行とは鎌倉の停車場で別れ、三人で東京へ帰った。そして其所でまた妹たちに送られて謙作は京都へ帰って来た。
 妙子の贈物はリボン刺繍をした写真立てと、宝石入れの手箱だった。「玉手箱」で怒ったわけだと彼は一人微笑した。手箱に小さい洋封筒の手紙が入っていた。
 謙兄様。おめでとうございます。先達(せんだって)お兄様からお話伺いまして泣きそうになりました。私は一人直ぐ御洋室に逃げてしまいましたが、何だか、あんまり想いがけないのと、嬉しいのとで変になったのです。
 この箱は未知の姉上様に。この写真たては姉上様の御写真か、御新婚の御写真のために。
 ピアノを習いに行くB さんの奥様に教えて頂いて私が作りました。
 こんな事が書いてあった。謙作は会った時何にもいわず、ただ気楽そうにしていた妙子が、自分の結婚をそれほどに喜んでくれた事を意外に思い、嬉しく思った。彼は涙ぐんだ。

 


 ここで謙作の行程を整理してみる。

 「西御門の家」→「円覚寺」(今なら鎌倉駅から北鎌倉駅まで横須賀線でいけば、数分だが、この当時はまだ北鎌倉駅はなかったはず。北鎌倉駅が本格開業したのは、1930年・昭和5年。したがって、歩いていくか、人力車で行くかである。)→「建長寺」→半僧坊(当然徒歩だろう)→「西御門の家」(ここまでは、謙作・信行・咲子・妙子の4人)→「鎌倉駅」(信行は鎌倉に残り、3人で横須賀線で)→東京駅→(ここから、本郷の家には戻らずに、謙作は、そのまま東海道線に乗って)→京都駅

 こうしてみると、謙作は若いなあと思う。当たり前のことだが、こんな行程は、今のぼくなら疲れちゃってとても無理。登場人物の若さということもあるだろうが、当時の人たちというのは、平気でどこまでも歩いていく。基礎的な体力があったということだろうか。それとも、今の人間が、堕落したということだろうか。

 京都に帰った謙作は、妙子のプレゼントをあけてみる。そこに入っていた手紙の可憐な文章に、謙作はおもわず涙ぐんだ。

 「彼は涙ぐんだ。」の短い一文がきいている。そして、この章(十一)は終わる。

 そして、いよいよ謙作の結婚へと話は進んでいく。

 

 

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