2012年に実施されたPISA調査において、スウェーデンが散々たる結果に終わったことは、現政権にとって非常に痛い問題だ。というのも、現在の中道右派ブロックが政権を奪った2006年選挙において、ブロックの一翼をなしていた自由党(教育政策に重点を置く党)は、既にその時点で低下傾向が見られていた学力水準の原因が社会民主党政権にあると指摘し、それに変わる教育政策の実施を公約に掲げていたのだ。その時も、学力が低下しているとする根拠の一つはPISA調査だったように思う。しかし、政権交代から7年がたった今、学童の学力水準は向上するどころか、ますます低下していることが同じPISA調査によって明らかになったからである。
現政権の責任を追及しようとする動きに対して、自由党のビョルクルンド教育大臣は「私たちは教育指導要領の改正や新しい統一試験の実施などを始めとする大規模な改革を2011年に実施した。今回発表されたPISA調査は2012年に実施されており、改革の実施から1年しか経っていないから、その効果はまだ現れていない」と牽制。そして、「むしろ、現政権が就任する以前の社会民主党政権の教育政策の結果と捉えるべきだ」と反論した。
たしかに彼の反論には一理あろう。これは彼だけではなく教員労働組合や教育研究者、そして現在の左派野党も指摘してきたことではあるが、教育の現場が抱えている問題としてあげられるのは、教員不足や教員のすべき事務手続きが増えたことによって、教員が生徒をきちんと指導する時間が確保できず、自習時間が増えたり、生徒の学習環境が乱れてきたこと。これに対する与党・自由党の対策は、教員の権威を高め、規律と秩序による学習環境の改善をすすめること。また、グループワークやディスカッション形式の授業よりも、教員が一方的にものを教える講義形式の授業を増やすこと、そして、統一学力試験の導入や成績評価の早期化(現在は6年生)などであった。さらに、大学における教員課程を修了していない教員の増加も指摘され、教員自身の教える能力に対して疑問が挙げられてきたことに対しては、教員免許制度を導入して、それを取得した者だけが教員として教えられるようにした。これらの改革は、現在実行されている最中であり、その評価を現時点で判断するのは時期尚早であろう。
ちなみに「教員が一方的に物を教える講義形式の授業」と書いたが、日本で教育を受けてきた者であれば、そんなこと当然だ、学校の授業というのはそういうものだ、と思うだろう。しかし、スウェーデンでは教員が喋り、生徒が黙ってそれを聞くという講義形式の授業だけでなく、グループワークやディスカッション形式など、教員と生徒との双方向のコミュニケーションによる授業もかなり多い。大学でもそうだが、こちらの若者と話していると、自分の意見をしっかりと持っているし、それを伝えるコミュニケーション能力も高いと感じるが、それはそのような参加型の教育の結果であろうと思う。もちろん、それには教員に経験と高い能力が要求される。教育において望ましいのは、講義形式の授業と双方向の授業の両方をバランスよく組み合わせることであろう。
(しかし、今の教育大臣は軍隊で長年、将校(最終階級は少佐)として勤務していたということもあり、彼が「教員が一方的に物を教える講義形式の授業」とか「規律と秩序」という言葉を使うと、教員が一方的にものを教える教育のみを強調しているように聞こえるため、野党との政策議論においては、どうしても0か1かといった二者択一の議論になりがちなのは残念だ。)
では、学力低下の責任は、2006年まで政権を握っていた社会民主党にあるかというと、そうだとも言えない。根本的な問題として指摘されるのは1990年代前半に実行された2つの教育改革だ。
まず、1991年に実施された学校教育地方分権化、つまり、学校教育(小学校から高校まで)を国の管轄から地方自治体の管轄へと移管した改革だ。この改革は、社会民主党と穏健党・自由党を始めとする右派政党との合意で実現した。国が学校教育の大枠を教育指導要領という形で示し、具体的な教育の中身や予算は各自治体が決められるようになった。しかし、学校教育のマネージメントに対する自治体の力不足が指摘されるし、同じく自治体管轄である他の社会サービス(高齢者福祉・保育)と天秤にかけながら予算配分をしなければならないため、財政的に苦しい自治体は教育の予算カットや教員コストのカットなどで急場を凌ぐことになる。結果として、教員の給料は同レベルの大学教育を必要とする他の職業よりも低く抑えられ、魅力がなくなり、優秀な若者が教員職に集まらなくなったと言われる。また、教員経験のない者が校長など学校管理職に就いているケースも少なくない。そういったことが原因となり、自治体間で教育の水準に格差が生じたと批判される。(教員の質の低下については、大学における教員養成課程の問題や、教員になった後のサポート不足も指摘される。)
もう一つの改革は、1992年の学校選択自由化だ。これは、当時の中道右派政権と環境党の合意で実現した。それ以前は、基礎学校(小・中に相当)や高校は公立がほとんどで、私立学校は例外的に認められていただけだった(例えば、外国人の子供のためにスウェーデン語以外の他言語で教育を受けられるインターナショナル・スクールや、仕事などの都合で国外で暮らすスウェーデン家庭の子供をスウェーデン国内で学ばせるための全寮制学校など)。また、かつては子供を通わせる学校を選ぶ余地はなく、自分が居住する地区の学校しか選べなかった。しかし、この改革により、私立学校の参入が認められるようになり、また、学校の運営費は生徒からの授業料の徴収ではなく、公立学校と同様、生徒の数に応じて公費で賄われるようになった(いわゆる、バウチャー制度)。同時に、学校の選択も自由になり、居住地区から離れた学校に子供を通わせることも可能になった。
しかし、その結果は想像に難くない。成績の良い子や勉学に力をいれる家庭の子は、同じように熱心な家庭の子が集まる学校を選ぶようになった。これは私立・公立を問わない。人気の高い公立学校もある。一方、人気のない公立学校には学校選びを積極的に行わない、成績の芳しくない子供が集まるようになった。つまり以前は、できる子もできない子も一緒に学び、良くも悪くもお互いに影響を受けていた。しかし、改革の結果、勉強の苦手な子の多い学校が生まれ、一方で、勉強のできる子が集まる学校が生まれた。これは、勉学の意欲のある子やその親にとっては、足を引っ張られることなく能力をさらに伸ばせるようになり、嬉しいことだろう。他方、できない子は、できる子からの刺激がなくなり、勉強ができなくてもいいんだ、という環境の中で育つようになってしまった。今回のPISA調査の結果でも、「理科」と「読解」では成績の悪い子の点数の下げ幅が大きく、できる子とできない子の格差が拡大したことが示されたが、その大きな原因はこの改革にあると声が強い。
2002年のことだった。当時、私はヨンショーピンという地方の町の大学で修士課程を履修していたが、その傍ら、スウェーデン語を学ぶために市立の成人学校に通っていた(SFIというスウェーデン語初級レベルの次の段階だった)。その時に書いた作文で、まさにこの学校選択自由化のことをテーマにしたのを覚えている。実は、当時もニュースでこの改革の長所・短所が取り上げられ、議論されていたからだ。私の作文の論旨は「選択の自由というけれど、その自由を享受できるのは勉強ができる子の家庭だけであり、そうでない家庭は選ぶ余地が実質的にないのではないのか。そういう子は改革によってますます成績が落ちてしまうのではないか」ということだった。これに対し、私のスウェーデン語の先生は「私はそうは思わない。成績の芳しくない子が多い学校には重点的に教育的リソースを配分し、より多くのサポートをすることが可能だ」という意見だった。この考え方は実は、改革賛成派からよく聞かれる意見だ。成績の良くない子には積極的にサポートして彼らの成績を底上げし、一方で勉強ができる子はできる者同士で互いに切磋琢磨し、さらに力を伸ばすことができる。Win-Winというわけだ。しかし、その結果として、学校間の格差が広がった。では、その広がり方は改革を実行した時に想定された範囲内なのか、また、勉強のできない子へのサポートが十分に行われた結果がこれなのか、もしくは、サポートが十分ではなかったからこうなったのか? それについては、私はよく分からない。
今回のPISAの結果を受けて、教育政策の新たな転換を求める声が強くなっている。まず、1991年の学校教育地方分権化については、学校教育を再び国の管轄に戻すべきという意見が、現教育大臣の所属する自由党を含め、いくつかの党から挙げられている。次に、1992年の学校選択自由化であるが、これを廃止して元に戻すべき、と主張しているのは今のところ、元共産党である左党にとどまるが、これは無理もないだろう。改革から20年以上経ち、学校を選ぶことが当然のことと考えられるようなった今、以前のような「この地区の子供はこの学校へ」という選択不可システムに戻すことは容易ではない。選択の自由を享受してきた家庭や社会階層からは大きな反発が予想される。学校の選択が当然のように行われ、私立・公立のエリート校・進学校が多数存在する日本の感覚からすると、その自由を奪うことなんて考えられないのではないだろうか。(一方、学校の自由選択と私立学校の存在を認めるとしても、私立学校の利潤追求・株主配当を認めるべきかは党によって意見が別れる)
その他の改革としては、勉強の意欲がない子供への支援の拡大、クラスのさらなる少人数化、教員のすべき事務作業の簡略化により彼らがもっと教育に専念できるようにする、などの提案が各党からなされており、これらは与野党を問わず、概ね一致している。また、教員職のステータスを高め、優秀な若者を惹きつけるためには給与の引き上げが必要だとの意見が多いが、では、それをどのような形で行うかについては党によって意見が別れる。また、成績評定が初めて行われる学年が、現政権のもとで9年(中学3年に相当)から6年に引き下げられたが、それをさらに下げて3年にするかどうかも意見が割れている。
いずれにせよ、次の国政選挙まで1年を切ったところで、このPISA調査の結果が発表されたことは、現在すでに始まっている選挙キャンペーンに見られる「減税か否か」といった不毛な議論から、より具体的な政策議論へと焦点を移してくれるだろうから、良かったと思う。ここで、意味のある改革案を提示でき、そして、有権者を納得させることができる党が今後の選挙戦で有利に立つことになるだろう。
現政権の責任を追及しようとする動きに対して、自由党のビョルクルンド教育大臣は「私たちは教育指導要領の改正や新しい統一試験の実施などを始めとする大規模な改革を2011年に実施した。今回発表されたPISA調査は2012年に実施されており、改革の実施から1年しか経っていないから、その効果はまだ現れていない」と牽制。そして、「むしろ、現政権が就任する以前の社会民主党政権の教育政策の結果と捉えるべきだ」と反論した。
たしかに彼の反論には一理あろう。これは彼だけではなく教員労働組合や教育研究者、そして現在の左派野党も指摘してきたことではあるが、教育の現場が抱えている問題としてあげられるのは、教員不足や教員のすべき事務手続きが増えたことによって、教員が生徒をきちんと指導する時間が確保できず、自習時間が増えたり、生徒の学習環境が乱れてきたこと。これに対する与党・自由党の対策は、教員の権威を高め、規律と秩序による学習環境の改善をすすめること。また、グループワークやディスカッション形式の授業よりも、教員が一方的にものを教える講義形式の授業を増やすこと、そして、統一学力試験の導入や成績評価の早期化(現在は6年生)などであった。さらに、大学における教員課程を修了していない教員の増加も指摘され、教員自身の教える能力に対して疑問が挙げられてきたことに対しては、教員免許制度を導入して、それを取得した者だけが教員として教えられるようにした。これらの改革は、現在実行されている最中であり、その評価を現時点で判断するのは時期尚早であろう。
ちなみに「教員が一方的に物を教える講義形式の授業」と書いたが、日本で教育を受けてきた者であれば、そんなこと当然だ、学校の授業というのはそういうものだ、と思うだろう。しかし、スウェーデンでは教員が喋り、生徒が黙ってそれを聞くという講義形式の授業だけでなく、グループワークやディスカッション形式など、教員と生徒との双方向のコミュニケーションによる授業もかなり多い。大学でもそうだが、こちらの若者と話していると、自分の意見をしっかりと持っているし、それを伝えるコミュニケーション能力も高いと感じるが、それはそのような参加型の教育の結果であろうと思う。もちろん、それには教員に経験と高い能力が要求される。教育において望ましいのは、講義形式の授業と双方向の授業の両方をバランスよく組み合わせることであろう。
(しかし、今の教育大臣は軍隊で長年、将校(最終階級は少佐)として勤務していたということもあり、彼が「教員が一方的に物を教える講義形式の授業」とか「規律と秩序」という言葉を使うと、教員が一方的にものを教える教育のみを強調しているように聞こえるため、野党との政策議論においては、どうしても0か1かといった二者択一の議論になりがちなのは残念だ。)
では、学力低下の責任は、2006年まで政権を握っていた社会民主党にあるかというと、そうだとも言えない。根本的な問題として指摘されるのは1990年代前半に実行された2つの教育改革だ。
まず、1991年に実施された学校教育地方分権化、つまり、学校教育(小学校から高校まで)を国の管轄から地方自治体の管轄へと移管した改革だ。この改革は、社会民主党と穏健党・自由党を始めとする右派政党との合意で実現した。国が学校教育の大枠を教育指導要領という形で示し、具体的な教育の中身や予算は各自治体が決められるようになった。しかし、学校教育のマネージメントに対する自治体の力不足が指摘されるし、同じく自治体管轄である他の社会サービス(高齢者福祉・保育)と天秤にかけながら予算配分をしなければならないため、財政的に苦しい自治体は教育の予算カットや教員コストのカットなどで急場を凌ぐことになる。結果として、教員の給料は同レベルの大学教育を必要とする他の職業よりも低く抑えられ、魅力がなくなり、優秀な若者が教員職に集まらなくなったと言われる。また、教員経験のない者が校長など学校管理職に就いているケースも少なくない。そういったことが原因となり、自治体間で教育の水準に格差が生じたと批判される。(教員の質の低下については、大学における教員養成課程の問題や、教員になった後のサポート不足も指摘される。)
もう一つの改革は、1992年の学校選択自由化だ。これは、当時の中道右派政権と環境党の合意で実現した。それ以前は、基礎学校(小・中に相当)や高校は公立がほとんどで、私立学校は例外的に認められていただけだった(例えば、外国人の子供のためにスウェーデン語以外の他言語で教育を受けられるインターナショナル・スクールや、仕事などの都合で国外で暮らすスウェーデン家庭の子供をスウェーデン国内で学ばせるための全寮制学校など)。また、かつては子供を通わせる学校を選ぶ余地はなく、自分が居住する地区の学校しか選べなかった。しかし、この改革により、私立学校の参入が認められるようになり、また、学校の運営費は生徒からの授業料の徴収ではなく、公立学校と同様、生徒の数に応じて公費で賄われるようになった(いわゆる、バウチャー制度)。同時に、学校の選択も自由になり、居住地区から離れた学校に子供を通わせることも可能になった。
しかし、その結果は想像に難くない。成績の良い子や勉学に力をいれる家庭の子は、同じように熱心な家庭の子が集まる学校を選ぶようになった。これは私立・公立を問わない。人気の高い公立学校もある。一方、人気のない公立学校には学校選びを積極的に行わない、成績の芳しくない子供が集まるようになった。つまり以前は、できる子もできない子も一緒に学び、良くも悪くもお互いに影響を受けていた。しかし、改革の結果、勉強の苦手な子の多い学校が生まれ、一方で、勉強のできる子が集まる学校が生まれた。これは、勉学の意欲のある子やその親にとっては、足を引っ張られることなく能力をさらに伸ばせるようになり、嬉しいことだろう。他方、できない子は、できる子からの刺激がなくなり、勉強ができなくてもいいんだ、という環境の中で育つようになってしまった。今回のPISA調査の結果でも、「理科」と「読解」では成績の悪い子の点数の下げ幅が大きく、できる子とできない子の格差が拡大したことが示されたが、その大きな原因はこの改革にあると声が強い。
2002年のことだった。当時、私はヨンショーピンという地方の町の大学で修士課程を履修していたが、その傍ら、スウェーデン語を学ぶために市立の成人学校に通っていた(SFIというスウェーデン語初級レベルの次の段階だった)。その時に書いた作文で、まさにこの学校選択自由化のことをテーマにしたのを覚えている。実は、当時もニュースでこの改革の長所・短所が取り上げられ、議論されていたからだ。私の作文の論旨は「選択の自由というけれど、その自由を享受できるのは勉強ができる子の家庭だけであり、そうでない家庭は選ぶ余地が実質的にないのではないのか。そういう子は改革によってますます成績が落ちてしまうのではないか」ということだった。これに対し、私のスウェーデン語の先生は「私はそうは思わない。成績の芳しくない子が多い学校には重点的に教育的リソースを配分し、より多くのサポートをすることが可能だ」という意見だった。この考え方は実は、改革賛成派からよく聞かれる意見だ。成績の良くない子には積極的にサポートして彼らの成績を底上げし、一方で勉強ができる子はできる者同士で互いに切磋琢磨し、さらに力を伸ばすことができる。Win-Winというわけだ。しかし、その結果として、学校間の格差が広がった。では、その広がり方は改革を実行した時に想定された範囲内なのか、また、勉強のできない子へのサポートが十分に行われた結果がこれなのか、もしくは、サポートが十分ではなかったからこうなったのか? それについては、私はよく分からない。
今回のPISAの結果を受けて、教育政策の新たな転換を求める声が強くなっている。まず、1991年の学校教育地方分権化については、学校教育を再び国の管轄に戻すべきという意見が、現教育大臣の所属する自由党を含め、いくつかの党から挙げられている。次に、1992年の学校選択自由化であるが、これを廃止して元に戻すべき、と主張しているのは今のところ、元共産党である左党にとどまるが、これは無理もないだろう。改革から20年以上経ち、学校を選ぶことが当然のことと考えられるようなった今、以前のような「この地区の子供はこの学校へ」という選択不可システムに戻すことは容易ではない。選択の自由を享受してきた家庭や社会階層からは大きな反発が予想される。学校の選択が当然のように行われ、私立・公立のエリート校・進学校が多数存在する日本の感覚からすると、その自由を奪うことなんて考えられないのではないだろうか。(一方、学校の自由選択と私立学校の存在を認めるとしても、私立学校の利潤追求・株主配当を認めるべきかは党によって意見が別れる)
その他の改革としては、勉強の意欲がない子供への支援の拡大、クラスのさらなる少人数化、教員のすべき事務作業の簡略化により彼らがもっと教育に専念できるようにする、などの提案が各党からなされており、これらは与野党を問わず、概ね一致している。また、教員職のステータスを高め、優秀な若者を惹きつけるためには給与の引き上げが必要だとの意見が多いが、では、それをどのような形で行うかについては党によって意見が別れる。また、成績評定が初めて行われる学年が、現政権のもとで9年(中学3年に相当)から6年に引き下げられたが、それをさらに下げて3年にするかどうかも意見が割れている。
いずれにせよ、次の国政選挙まで1年を切ったところで、このPISA調査の結果が発表されたことは、現在すでに始まっている選挙キャンペーンに見られる「減税か否か」といった不毛な議論から、より具体的な政策議論へと焦点を移してくれるだろうから、良かったと思う。ここで、意味のある改革案を提示でき、そして、有権者を納得させることができる党が今後の選挙戦で有利に立つことになるだろう。
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