ムハンマド論争についての続きだが、問題の風刺画を掲載したのは前回挙げたオーレブロー市のNerikes Allehandaだけでなく、ウプサラ市の地方紙Upsala Nya Tidning他、いくつかの新聞もなども同時期に掲載していた。これまでは、なぜかNerikes Allehandaだけが抗議の対象になっていたが、今週金曜日にはウプサラでも新聞社の前で抗議活動が繰り広げられた。
ウプサラ UNTの前にて
前回書いたように、この問題は2点に集約される、と思う。(前回参照)
まず①についてだが、イスラム教国や宗教関係者は、新聞社に抗議するだけでなく、スウェーデン政府にも抗議を行い、さらに、宗教の冒涜に対しては、公権力によって適切な措置を下すよう要求している。イスラム教国の協力機構であるイスラム諸国会議機構(Organization of the Islamic Conference)の事務総長は、スウェーデン政府に対し、芸術家Lars Vilksと新聞社Nerikes Allehandaの両者を罰するよう求めまでしている。
しかし、スウェーデンは言論・表現の自由を尊重する民主主義国であり、言論・表現を行う責任はその個人が負うことが原則である以上、政府はこのような民主主義の理念を解せぬ要求は断固として拒否すべきである。実際、スウェーデン政府は拒否している。
「民主主義の理念を解せぬ要求」と書いたが、抗議を行っているパキスタンにしろイランにしろ、強権的な国家に統治された社会だ(たとえイランでは選挙を行っているとしても)。従って、そのような社会では、その気になれば政府が公権力によって市民社会に介入するのは容易であり、また場合によってはそうすべき、と考えている人は多いようだ。だから、スウェーデン政府に謝罪と公権力の行使を求めている人々は、スウェーデンもそのようなタイプの社会だと誤解している。(公権力によるメディア介入は、中国がその良い例だ)また、イランやパキスタンなどでは、この事件を政治的に利用し、国民の目を国外に向けることで、内政に対してくすぶっている不満をそらしたい、という意図があることも忘れてはならない。
②の点については、芸術家本人は、芸術を通した表現の自由を主張することを目的としていた、という。しかし、本来の目的がいくらイスラム教自体を冒涜することでないと主張したところで、それが一部の人には「挑戦的(provocative)」であり冒涜である、と受け取られる危険性は十分に承知していただろう。デンマークのケースはもちろん知っていたであろうし、多文化の国であるスウェーデンで生活してきて、それを知らなかった、というのでは、あまりに幼すぎる。だから、そのような危険を冒してまでも、追求したい大義がこの風刺画にあったのか、と問いたい。かなり低俗な嫌がらせでしかない、と私は思うし、イスラムに対する軽蔑、もしくはそこまで行かなくても無理解・無知識がこの芸術家を突き動かしたのではないかと推測する。
興味深いのは、前回の書き込みに頂いたコメントにもあるように、ヨーロッパの一部の国々では、残虐なナチスによる戦時中の犯罪を否定したり、その程度を過少に評価するような発言を行った場合には、法律による罰則が加えられることだ。これは明らかに①の「表現の自由の原則」に反している。
ヨーロッパでは「反ユダヤ」の趣旨の発言には、過敏に反応される。だから、今回の風刺画ももしユダヤ人やユダヤ教を扱ったものであったのなら、もっと大きな社会問題になっていた可能性がある。とすれば、これでは、イスラム教の人々に目にはヨーロッパ人の「ダブル・スタンダード」と映っても無理もない。
このジレンマについては、以前ここで触れたので、それを参照してください。
以前の書き込み:
『言論の自由』にまつわるジレンマ(2006-02-23)
上のリンクで紹介したように、ある新聞の社説は「言論の自由は、やはり民主主義社会の根本の原則である。一方で、人々の人権や自由を侵害するような“危ないウソ”は、事実関係との突合せや、社会における活発な議論の中で、その根拠の脆弱さが暴かれるべきだ。法律による罰則を設けるのは、賢明だとは言えない。」と書いている。まさにその通りで、反ユダヤの趣旨であろうと、反イスラムの趣旨であろうと、それを法律で一方的に封じ込めてしまうのはよくない。
一方で、現代の多文化社会で生きている以上、他の文化や生活習慣、宗教に対する配慮と敬意は忘れてはならない。だから、それを怠った件(くだん)の芸術家は、批判されて然りであろう。また新聞が安易にそのような風刺を掲載しても良いのか、これは、政府が規制するのではなく、業界団体による自主監視や第三者機関による審査などをもっと活用するべきではないかと思う。
(続く・・・)
ウプサラ UNTの前にて
前回書いたように、この問題は2点に集約される、と思う。(前回参照)
まず①についてだが、イスラム教国や宗教関係者は、新聞社に抗議するだけでなく、スウェーデン政府にも抗議を行い、さらに、宗教の冒涜に対しては、公権力によって適切な措置を下すよう要求している。イスラム教国の協力機構であるイスラム諸国会議機構(Organization of the Islamic Conference)の事務総長は、スウェーデン政府に対し、芸術家Lars Vilksと新聞社Nerikes Allehandaの両者を罰するよう求めまでしている。
しかし、スウェーデンは言論・表現の自由を尊重する民主主義国であり、言論・表現を行う責任はその個人が負うことが原則である以上、政府はこのような民主主義の理念を解せぬ要求は断固として拒否すべきである。実際、スウェーデン政府は拒否している。
「民主主義の理念を解せぬ要求」と書いたが、抗議を行っているパキスタンにしろイランにしろ、強権的な国家に統治された社会だ(たとえイランでは選挙を行っているとしても)。従って、そのような社会では、その気になれば政府が公権力によって市民社会に介入するのは容易であり、また場合によってはそうすべき、と考えている人は多いようだ。だから、スウェーデン政府に謝罪と公権力の行使を求めている人々は、スウェーデンもそのようなタイプの社会だと誤解している。(公権力によるメディア介入は、中国がその良い例だ)また、イランやパキスタンなどでは、この事件を政治的に利用し、国民の目を国外に向けることで、内政に対してくすぶっている不満をそらしたい、という意図があることも忘れてはならない。
②の点については、芸術家本人は、芸術を通した表現の自由を主張することを目的としていた、という。しかし、本来の目的がいくらイスラム教自体を冒涜することでないと主張したところで、それが一部の人には「挑戦的(provocative)」であり冒涜である、と受け取られる危険性は十分に承知していただろう。デンマークのケースはもちろん知っていたであろうし、多文化の国であるスウェーデンで生活してきて、それを知らなかった、というのでは、あまりに幼すぎる。だから、そのような危険を冒してまでも、追求したい大義がこの風刺画にあったのか、と問いたい。かなり低俗な嫌がらせでしかない、と私は思うし、イスラムに対する軽蔑、もしくはそこまで行かなくても無理解・無知識がこの芸術家を突き動かしたのではないかと推測する。
興味深いのは、前回の書き込みに頂いたコメントにもあるように、ヨーロッパの一部の国々では、残虐なナチスによる戦時中の犯罪を否定したり、その程度を過少に評価するような発言を行った場合には、法律による罰則が加えられることだ。これは明らかに①の「表現の自由の原則」に反している。
ヨーロッパでは「反ユダヤ」の趣旨の発言には、過敏に反応される。だから、今回の風刺画ももしユダヤ人やユダヤ教を扱ったものであったのなら、もっと大きな社会問題になっていた可能性がある。とすれば、これでは、イスラム教の人々に目にはヨーロッパ人の「ダブル・スタンダード」と映っても無理もない。
このジレンマについては、以前ここで触れたので、それを参照してください。
以前の書き込み:
『言論の自由』にまつわるジレンマ(2006-02-23)
上のリンクで紹介したように、ある新聞の社説は「言論の自由は、やはり民主主義社会の根本の原則である。一方で、人々の人権や自由を侵害するような“危ないウソ”は、事実関係との突合せや、社会における活発な議論の中で、その根拠の脆弱さが暴かれるべきだ。法律による罰則を設けるのは、賢明だとは言えない。」と書いている。まさにその通りで、反ユダヤの趣旨であろうと、反イスラムの趣旨であろうと、それを法律で一方的に封じ込めてしまうのはよくない。
一方で、現代の多文化社会で生きている以上、他の文化や生活習慣、宗教に対する配慮と敬意は忘れてはならない。だから、それを怠った件(くだん)の芸術家は、批判されて然りであろう。また新聞が安易にそのような風刺を掲載しても良いのか、これは、政府が規制するのではなく、業界団体による自主監視や第三者機関による審査などをもっと活用するべきではないかと思う。
(続く・・・)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます